今日は「少年時代」である。1990/9リリースのシングル盤で、陽水最大のヒット曲である。
この曲について、私も良く読んでいるのであるが、作家の五木寛之さんが次のように語っている。「これはね、非常に面白いんですけれども、いわゆるその、陽水さんのやっているような時代の音楽とちょっとちがう、非常にノスタルジックな日本のメロディーが中に、含まれているんですね。ですから、井上陽水というミュージシャンを好きな世代を越えて、おじいちゃんとかおばあちゃんとか非常に幅広い国民的な支持を集めた作品だったと思うんです。ですから、少年時代で一皮むけたなという感じがするんですね。つまりよき通俗、よき大衆性、よきポピュラリティをバカにしてないというところが、僕は陽水さんの大きな利点だったと思うんです」。
陽水は「氷の世界」発売以降、歌手としての地位を不動のものとしているが、その姿しか見ていない人にとっては、素直な感想なのだろうが、デビュー当時の様子を見ている人にとっては、ちょっと違う感じを持つのではないだろうか。どんな詞を書けば、そしてその詞をどんなメロディーに乗せられたら、大衆に受け入れられるのかを、必死になって悩んでいた時期があった訳で、その頃の記憶が鮮明に残っているからこそ、この少年時代という曲が産まれたとも言えるのである。その辺のつながりについて、述べたいと思う。
まずこの曲を聞いて思い出すのは、1973/12発売の「夏まつり」という曲である。夏の終わりの夕闇せまる頃、妹を自転車の後ろに乗せて行った夏祭り、友達もたくさんいて、綿菓子を頬張りながら笑っていた夏祭り、陽水自身の故郷での楽しかった原風景が語られている。その原風景を詞として、そして、その詞をノスタルジックなメロディーに乗せることが、悩んだ末の結論だったのではないだろうか。そういう姿勢を貫いてきたからこそ、今の自分があるのだと実感しているのだと思う。そして同時に、そんな楽しかった思い出は、二度とやってこないだろうという惜別の思いと共に、もしかしたらそれは夢だったかもしれないと感じているのではないだろうか。
「夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれに さまよう 青空に残された 私の心は夏模様」。夏の終わりのあざみの花が風に揺らめく頃になると、子供の頃の楽しかった夏の思い出が蘇ってくると、自身の少年時代を思い出しているようだ。「夢が覚め 夜の中 永い冬が 窓を閉じて 呼びかけたままで 夢はつまり 想い出のあとさき」。子供の頃の楽しかったという思い出は実は夢で、その夢から覚めると、まだ夜明け前で、その夢は、楽しかった思い出そのものであったとしみじみ思っているということか。 「夏まつり 宵かがり 胸のたかなりに あわせて 八月は夢花火 私の心は夏模様」。夢から覚めてみて、その夢をきっかけに、再度、宵闇せまる頃の楽しかった夏祭りを思い出しているということか。「目が覚めて 夢のあと 長い影が 夜にのびて 星屑の空へ 夢はつまり 想い出のあとさき」。思い出していたら、いつのまにか眠っていたらしく、再び目覚めたら、長い影が夜にのびてという表現から、ちょうど楽しかった夏祭りの時間帯であったことに気がついたということであり、前小節との間の間奏が眠っていたことを表しているのだろう。楽しかった夏祭りの思い出を、何度も何度も、繰り返し思い出しているようだ。
 この曲が多くの支持を得たのは、この曲を聞くことで、それぞれが持っている原風景を、それぞれが琴線に触れるように感じているということなんではないだろうか。なお、最後に付け加えたいのは、この曲のノスタルジックなメロディーを助長しているのが、タン、タン、タン、タンとテンポを刻んでいるあまり上手とは言えないピアノである。陽水は、このピアノを来生たかおさんに依頼しているのだが、その理由が、「どこか未完成でまだまだ上達する余地のある少年のイメージにぴったり」ということだそうだ。この曲に対する力の入れようがわかる楽しいエピソードである。