今日は「自己嫌悪」について、考えてみたい。
1980年頃にラジオ番組に出演した際、陽水は、音楽について次のように語っている。「昔から、音楽というのは好きといえば好きだし 非常に嫌いな瞬間も多いんですよ。音楽なんて聞きたくないという気持ちもあって。そこら辺をいつもうろちょろうろちょろしてるんですけどね」。
私の場合は、自身の会社人生を振り返ってみると、会社なんて行きたくないと、特に月曜日なんかは、しょっちゅう思っていたのに、いざ定年になって、会社に行かなくてもいい日が続くと、また行きたくなって、結局今も仕事を続けているわけですけど、それはさておき、
「自己嫌悪」という曲は、音楽なんて聞きたくないという状態を歌っているのではないだろうか。「めくらの男は静かに見てる 自分の似顔絵 描いてもらって 似てるとひとことつぶやいている あなたの目と目よ 涙でにじめ」とは、自分の曲が、世の中から受け入れられているのか、それとも見向きもされていないのか、どう評価されているのか、全く分からないし、むしろそんなこと、考えたくもないと 思っているようだ。ただ、そう思っていても、気にはなるので、誰かに、どうなんだろうと聞いてはみるものの、そんな事どうでもいいという気持ちもあって、結局自身の置かれている状態が、さっぱり分からないということか。
「病いの男は淋しく見てる あまりに薄い 日めくりの紙 つきそう子供はたじろぎもせず あなたの体よ 天までとどけ」とは、余命幾ばくもないと自分でわかっている病人がいて、その病人に付き添っている子供も、また自分の親の病状がわかっている状態とは、陽水自身の今後に照らし合わせると、作った歌が全く世間から受け入れられず、どうあがいても歌手としてやっていけなくなることもあるのではないかと思っているのかもしれない。
「眠れぬ男はぼんやり見てる」「歌えぬ男はおびえるばかり」。夜も眠れないし、歌を歌うことさえもできなくなってしまうのではないかと怯えているということか。音楽活動に常に精力的に取り組もうとする真面目な性格が見え隠れすると同時に、その真面目さ故に「音楽なんて聞きたくない」という落ち込んだ状態がしばしば訪れる時でさえも、その状態を歌にできる陽水の精神的強さと才能が羨ましい。私なら、そんな落ち込んだ状態の時は、ひたすら飲み続けるしかなく、建設的な活動は出来ないだろうから。その辺が陽水が陽水たる所以なのだろう。