今日は「いつのまにか少女は」である。
1973年の映画「放課後」の挿入歌として「女の子がだんだん大人になっていくっていうのを唄にしてくれ」という依頼で作った曲である。
「燃える夏の太陽は そこまできてる 君は季節が変わるみたいに 大人になった」。少女が大人になっていく姿を四季とダブらせて表現している。輝かしい夏もあっという間に過ぎ去り、やがて秋から冬へと「君の笑顔は悲しいくらい 大人になった」と語っている。「いつのまにか少女は」の少女とは、誰をイメージしているのだろうか。この曲は、1973/4に行ったリサイタルの模様をライブ盤としてリリースした「もどり道」に収録されているが、「夏まつり」の後に唄っている。「夏まつり」では、「自転車のうしろには 妹が ゆかた着てすましてる かわいいよ」と、小学校低学年頃に、1歳年下の妹「章子さん」と行った夏祭りの楽しい思い出が語られていることから、この少女とは、章子さんのことではないだろうか。1973/4は、陽水24才、章子さん23才の時である。
また、「いつのまにか少女は」を歌い終わった後に、「新宿駅を歩いてますと、成人の日でもお正月でもないのに、着物姿の女の人の二人連れ。なんかこう胸に込み上げてくるものがあるんですね。あういうの見ると。女の人は、僕は本当に思うんだけども、なんで男に産まれたんだろうと思うのね。絶対女の人がいいもん。ほんとに、いや損しちゃったなぁ。」とも語っている。ここでいう「女の人の二人連れ」から、8才年上の京子さんと章子さんのことを連想しているのではないだろうか。姉妹で楽しそうにしている姿を見て、もし自分が女に生れてきていたら、3姉妹で楽しそうにできたのではと思っているようだ。私事ではあるが、私の場合は、妹2人の3人兄弟であるので、陽水とはちょっと違うが、陽水の感情は理解できるなと思う。また、コンサートで繰り返し唄っていることから、お姉さんと妹さんのことを繰り返し思い出しているのではないだろうか。
ただ、この曲の最後のフレーズ、「いつのまにか 「愛」を使うことを知り 知らず知らず 「恋」と遊ぶ人になる だけど春の短さを 誰も知らない 君の笑顔は悲しいくらい 大人になった」 とは、どんな事を言いたいのだろうか。少女の時は輝いていて、それが過ぎれば悲しい存在というのは、何か実体のない一般論のような言い方ではないだろうか。何故そうなのか説明や理由らしきものが語られていない。「愛」を使うことや、 「恋」と遊ぶことと悲しいことが、私の中では、どうしても結びつかない。裏を返せば、女性は良くわからんと言っているようなものである。
野坂昭如さんの「黒の舟歌」に「男と女のあいだには 深くて暗い 河がある 誰も渡れぬ 河なれどエンヤコラ今夜も 船を出す」というがフレーズがあるが、女性を理解するという行為は、ほどんど不可能だと分かっていても、一縷の望みを頼りに挑みつづけていくしかないという意味だろう。陽水の女性との関わりで言えば、1978年に石川セリさんと再婚していて、1980年以降「クレージーラブ」「ジェラシー」「とまどうペリカン」というような、男女の関係を唄った曲をリリースしているが、これらの曲は、妻の石川セリさんとの関係を語っていて、妻を通して女性を理解しようとしているのではないだろうか。もしそうなら「いつのまにか少女は」という曲は、お姉さんと妹さんを想いながら、同時に女性を理解しようとする陽水の挑戦の原点とでも言うべき曲なのかもしれない。