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晴れわたる青空の下で

人類の歴史は、「侮辱された人間が勝利する日」を、しんぼう強く待っている。インドの詩人タゴール

アルバイトをしてみて思うこと。

 

職場には「いじめの起源」となる人間関係があると感じた。

 

いじめと似ていて戸惑いもするが、しつこさはない。

 

いじめとは、この「いじめの起源」の亜種。

 

「いじめの起源」が  A  とするなら、いじめは  A´  (エーダッシュ)

 

いじりにもいくつかの種類がありそうだ。

 

 

いじりをまねていじめている中学生と同じ発想のいいじりを芸人さんがしている場合がある。

 

「いやいや、いじりですよ」と言っているが、明らかにいじめの場合がある。これがいじめでなくいじりというなら、クラスで起きているいじめもいじりと呼ばれてしまうのだろう。

 

レイチャールズの映画「Ray」のなかに、「いじめの起源」によく似たものがある。

 

目が見えないRay に、「目の見えないお前なんかに何ができるんだ」と複数人があざ笑うシーン。

結構冷たく、見ててもこちらの心が痛くなるような残酷なシーン。

 

たしかRayは、傷つき、また彼らに少しの恐怖感を持ちながらも、すぐに、必死の思いで演奏し歌う。目が見えないことが障害にならないくらいに優れた演奏をして見せた。そこで評価が変わった。

 

はじめは対象者を軽んじて、その人の総合的な能力を低く見ていたが、その先入観の間違いに気づいた。

 

 

これがいじめではなく、「いじめの起源」。

 

 

いじめというのは、優れた姿を見てもなお、複数の理由で、対象者をけなし続ける。

 

それはまるで、トランプの「ババ抜き」でジョーカーを引いてしまったにもかかわらず、ポーカーフェイスを決め込むようなものだ。

 

そのポーカーフェイスに、いじめ被害者は何度もだまされている。ポーカーフェイスなんてするなんて思いもつかないから。

 

ここでいう「いじめの起源」とは、心の動きが素直なのだ。計算がない。それは、コンビニエンスストアなどで買い物をしてて、店員さんの不手際にカチンときていたら、間違っていたのは自分だったという時の心の動きのようだ。これがいじめになると、店員さんをやっつけることが主目的に代わるので、ありとあらゆる、奇策や詭弁、恫喝や嘲笑をする。

 

ここで気を付けて見分けないといけないことがある。

 

それは、店員側が、客側をいじめている場合である。裏のある挑発をしている場合があり、わざと客側を怒らせていくひっかけを多く発動している場合がある。

 

僕がいじめ後遺症に苦しんでいた10代の時に夢中で読んでた「第三野球部」という漫画。

 

この漫画の中には、確かに、いじめについて描かれている場面も少なくない。

 

しかし、この漫画の中の多くは、いじめではなく「いじめの起源」について多く描かれている。

 

「いじめの起源」イコールいじめとして描かれている。

 

「いじめの起源」を行う加害者側の遠慮のない傲慢さ。先ほどは素直と書いてしまったが、単調な傲慢さと表現したほうがいいのかもしれない。

 

コップに注がれているお茶を単なる一般的なおいしいお茶だろうと思って一口飲んだら、とてつもなくおいしくてびっくりしたようなもの。

自分のだいたいの軽めの予想を大きく超えてしまったというような感じ。