では数日前から頭の中を時々よぎっている事柄から始める。
人は、誰かに強い影響を受けることがある。
今の私が働く職場は、毎日理不尽な怒声がけたたましく響いていた。流石に度が過ぎるので相談をして幾分か控えてもらうようになった。
職場の善悪について今回書きたいわけではない。
あまりにも激しい面罵を何度も何度も受け止めるととで私の中にどのような変化が起きたのか。
それを書きたいのだ。
ただこれは、逃げていきやすいものだから尻尾を捕まえて離さないようにしておかなければならない。
いじめ被害にあっていた時の、加害者達からの激しい面罵、暴力、嘲笑い、それら強烈な色落ちしない消えない危険なペンキで私はいじめ加害者達に塗りたくられまくったわけだ。
逆に言えば、いじめ被害にあって以降、それほどまでの消えない危険なペンキを塗りたくられてはいない。
慣性の法則でよくある、鉄のボールを少し押すと、ずっと前進して止まることはない。
今回の理不尽な激しい面罵の嵐というのが、中学の時のいじめ以来の強い力だとしたら、この時に久々に、鉄のボールは、中学時代のいじめ被害以来方向を変えたということにはならないだろうかと考えている。
これはたぶん結果間違っているのだと予想している。
強い衝撃によってのみ、塗り替えが可能なのではないかという説である。
いじめ後遺症というもののなかのいくつかの種類の不安は、強力な水圧洗浄スプレーで吹き飛ばされるように、かき消されて、別の脅しにより、その脅されないための準備をする。
こんなことを書くと、暴力やパワハラを一部肯定するように見えるかもしれない。パワハラはありえない、そのあり得ないパワハラを、垣間見ることができた貴重な機会としてとらえている。もう私への暴言はない。あったら抗議をきちんとするだけだから。
これが書きたかった一点目。
詳しく掘り下げて書いていくためにも今はこの程度でいい。
書きたかった2点目がある。
それは、前向きということ。
いじめ掲示板での10代の皆さんとの交流は、得難い黄金の日々です。
しかし、真剣だからこそ影響を受けるということもあるのではないか、しんどい意味で。
私は掲示板に向き合うことで掲示板での彼らの声に影響を受けてしまっているという現実がある。
良くも悪くも。今回は悪い意味での影響について書いておく。
いわゆる、相手に引っ張られていると評される状態である。
いじめ被害者というものを説明するとき、いくつかのストーリーがあるといえるかもしれない。
最近のストーリーは、かつてのいじめ被害者の生きづらさが理解されないと訴えてる。
似たストーリーを延々と頭に浮かべて血肉にしてからこうして文字にしている。
前回のブログにも書いたように
青空もあるのでは
辛さを訴えるというストーリーに引っ張られてはいないか、もっと自然体に楽しく人生を過ごしていくことができる今があるのではあないのか。僕個人としての得たい幸せがそこにあるのに使命感をどこかではき違えて、友情や団らんやふれあいや、共感や笑いや感動や、いろんなものを触れずに、立ち止まらず歩いてきたということかもしれない。
この複数のストーリーたちが悪いのではなく、ストーリーと私との距離感がまずいような気がする。
本当は、前向きでいたい。たぶん。
だけど、前向きになっている暇がない。
そんなものほおっておけと、言いたい人もいるかもしれませんが、そうしておくと、いじめに苦しんでますという声に対して、あなたの場合は、軽いタイプのいじめだから、私たちは動きませんというだめな人間に成り下がるような気持ちになります。
感覚的に、意識的でい続けていないとダメなんじゃないかと思う。
いじめ問題は、まるで生き物のようだ。月々日々にその様相を変える。最近は、私が何年も厳しく指摘し続けてきたもののほとんどが改善済み。 今 何が問題か。表面的には、必死の声を受け止めることができないということ。 いじめ問題の全体像の把握というものをやらなければならなかった。誰もがまだ気づいていない、いじめの問題点というものがたくさんありました。無知ゆえに、善良な人までもが認識を間違えてしまう。そこで私たちが必死で指摘をしました。いじめ対策に迷いを持っている大人が多くいるということなのだろうか。どこか諦めというのか、問題の棚上げや、後回しをしているのだろうか。 日本人独特の人間の良さも混じった悪しき慣習というものが、対応を遅らせているのだろうか。「まあまあ、そう言わないで下さいよ。あの子もまたいい子なんですから。加害者だなんて言わないであげてくださいよ」そうった、なあなあな感じが、そうさせているのか。桜満開で春気分が抜けないでぼんやりしているのか。 教師の良心や裁量に期待してはいけないし、任せてはいけない。教師でなくても、できるくらいの判断基準を設けないといけない。 「そんな杓子定規な」という批判に屈しているからダメなんじゃないですか。いじめという事態よりも優先する事態が、教師、学校、教育委員会にそれぞれあるということではないのでしょうか。 もうすぐ、中間テスト、もうすぐ、体育祭、合唱会、もうすぐ、参観日、クラスの団結。 クラスの団結と、いじめ解決のための、加害者への罰則、被害生徒の救済。 どちらを優先するつもりですか? 〔この文章はツイッターから〕
次。
春名風花さんのいじめについての発信というのは、とても近しいものを感じ取ることができる。親近感。これはすごいことだと思う。
対岸の火事を眺めるようなことを言ってる人もいて複雑な気分になる。
あの、話が出来る。
どんないい人であっても、壁をある程度作って慎重に相手の思いを見ながら担って疲れると思う。
どう文章を相手に飽きさせずに暗唱して伝えるか、そんなことばかり考えてしまいそうだ。
春名さんなら、いろんな意味で近いので、会話のキャッチボールが成立するだろうと思う。
だから春名さんはすごいと思う。
次。
いじめとは、被害者と周囲を巧みに騙す挑戦のようなものだ。
最近よく耳にするのが、
かまってちゃん
という印象操作。
見抜いてしまえば、その稚拙なウソに笑ってしまうのだが。
被害者本人も周囲もしばらく加害者に騙されたままになってしまう。
次。
書きたいことはまだあるが、今日はうまく書けなかったということだ。
また日を改めて挑戦したいと思う。
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