2017/05/24 | 晴れわたる青空の下で

晴れわたる青空の下で

人類の歴史は、「侮辱された人間が勝利する日」を、しんぼう強く待っている。インドの詩人タゴール

誰かの問いに答えるということを繰り返している。

いじめ問題に限らずだけど、いじめ問題について書く場合、最近は多い。

僕は、今の自分を書くように心がけてきた。
今の自分のいじめ問題に対するときの感じ方が大事だと思うから。

最近はどうかというと、それが出来ていたのかなと思う。

反省しないと。

最近の自分の心のなかをのぞいてみる。

今思うのは、自分は今恵まれた状態にあるのだから、我慢して、他者の意見や思いを、気持ちを、聞いてみようと思っているのかもしれない。

聞くと言っても、真正面から耳を傾けるという誠実さが今の私にはほとんど無いのかもしれないと思っている。

なんでこんな状態なんだろう。

滅多にない状態にある。

いじめの喫緊のことに関して以外について、思索をするのが久しぶりなのか。

にぎやかな公園の中にいるのが楽しくて、ウキウキするような状態にあるのだろうか。

今までは公園に座り耳を澄ますと常に聞こえてきた、いじめに対する偏見と軽視の声。

まだ意地悪を含んだ声がなくなったわけではないが、なんだか、同じ公園にいる人に気軽に自然に無警戒に話しかけたいような気持ちがある気がする。

ずっと憧れ、僕には手に入らないと思ってた幸福が、そこにあるような気がしている。

本当にそんな物があるのか。



私は独りよがりな夢を見て、・・・


なんて思いもある。

ここで必要になってくるのが、いわゆる常識なのかなと思ってみたりする。

マナーであったり、挨拶であったり。

今までは、その常識やマナーの中に、いじめ軽視や、いじめ助長が混じりすぎていた。

だから、警戒を常にしなければならないような状態にあった。

気軽には人と話せない、気軽に人と話してみたいという憧れはあっても。

音楽などの芸術や文化をたくさん浴びてきたが、それらのものにあるメッセージと私とのあいだには、常に大きな溝があった。

歌手の歌詞やタレントさんたちの言葉や、政治家のメッセージも。

いいものなのだと思うという印象はありながらも、そこには、肝を冷やすほどの真っ暗い空間があった。

例えば、一青窈さんの 受け入れて という歌のpvがある。そこには、何か私が共感しそうな感覚があった。好意的にアーティストへの畏怖を持って当時見ていたんだけど、なんだか、違和感があった。わかってねえな、とかではなくて、何かが遠い。歌と僕との間にはいつもの暗い空間があった。この歌は、そんな空間を埋めてくれそうに直感的に感じていたから、暗い空間が横たわるのを感じて残念な思いがしていた。

あらゆる歌が、ワクワクしたり、感動したり、バチンとマッチしたり、という、歌の力を感じるものであることを私も痛感してきた。

それでも噛めば噛むほど、あれ? という違和感が出てきて受け入れたくないと思うようになっていた。

僕が英語がまだ分からない自分を利用して、英語の曲を聞き続けるのも一つの理由なのかもしれない。

もちろん、僕の成熟度や素直さや、信念や感受性の厚薄もその理由の一つだろう。

いい意味で、個別であったり、他者の尊重であったり、というメッセージが今とても多くある。僕も助かってる部分が少なくない。

今思うのは、昔に聞いて違和感があったメッセージと僕の間にある暗い空間が双方の努力や変化によって明るくなってきている気がしている。

挨拶をしたところで、だとか、相手に思いやりを持って接してみたところで、だとか、相手に敬意を示したところで、だとか、そんな思いが少なからずあった。

もちろん、そうすること全てを放棄して生きてきたわけではなくて、時々のタイミングで、目を瞑ってしまう時がある。

朝、近所の人を見かけてこちらから挨拶をするだとかも、変質者を見るような目つきでみられたら嫌だなと思うこともある。

誰彼構わず挨拶をしたいというのが私の本当の気持ちなんだろうけど、疲れてる時とか、気持ちが乱れている時にあったとき、僕はきつい目つきをしているんじゃないかと思って誰彼構わずというのも、相手のその時の状況もあるから、下を向いて歩き去ることもある。

そのあたりの日常の範囲内の判断なら構わないと思うが、その思いを基準にしすぎて、基本的にその姿勢のままでいるというのは、自分でもかたくなで淋しいよなと思っていた。

だけど、今は、それが自然に出来そうな感じがしている。

もちろん、常識的な範囲内で。

実際に、自然に話しかけたり、話しかけられたことに自然に答えたりしてる自分に気づいて、感激の気持ちをぐっとコントロールしたりしている。

恵まれたと先に書いたが、それは、相対的な意味合いも無くはないが、ここでは絶対的な意味、つまりは、昨日の自分と今日の自分との比較という意味での、恵まれたという意味である。

ありとあらゆる侮蔑や、偏見の意思を今もあらゆる方向から感じなくもない。

ただ、その意思は、今までとはまた異質の今までとは別の違った人々からによるものであるとも感じてもいる。

いじめ後遺症は、甘えなんかではない。

ただ、今の自分のなかに甘えはどの程度存在するのかをある程度把握しておかなくてはならないと思っている。 
まだ計れていないが、工夫や切り替え次第で状態が好転する可能性がある課題がたくさんあるように思っている。

このブログを書いてみるのもその一つ。