いじめの円グラフと、震災の円グラフとを比較するなら、あまりにも多くの違いがあると思うが、共通する値も少なからず存在するだろう。
年末特番で、震災のその後、避難所の生活についての番組をしている。
「夜、独りでアパートに帰り、テレビをつけて、震災のことを放送しているのを見ると、なぜかわからないけど、涙がポロポロ流れる。感情が激しく爆発してしまうことがあります」
一人のご婦人が静かな感じで語っている。
いじめ被害と震災の被害を同列に考えることは適切でないかもしれない。しかし、私はこの一人のご婦人の短いお話に無理なく共感できる部分があった。
「私はあなたに似た思いを20年間以上持ち続けています。すみません……」とテレビのご婦人に頭を下げた。
いじめ後遺症というものがどんなものか。
それは避難生活している人々のような忍耐の一部分に過ぎないかもしれないが、強いられるということだ。
私たちは、同世代の人々に紛れて、いじめ被害者という立場を隠して、否、いじめ被害者という立場を忘れて生きていくことは不可能なのだろうか。
結論を先に言えば不可能ではないと思う。
サスケさんが書いてくださった、「いじめといじり」の話を今反芻している。
もちろん、いじりがつらく感じている人も大多数いることを念頭に置いた上での話になる。
サスケさんの思いを私は正確に理解しているつもりだ。
いじめとの闘いを休めることは、逃げなどではなく、それこそが、ありきたりの正常な日常であると思う。
そんな穏やかな時間を過ごしていくことは、私たちにとっていいことだと思う。
冒頭に書いた、かつてのいじめ被害者であることを忘れて振る舞い生活すること。
いじりがいじめへと変化してしまうことへの不安や恐怖があると思う。
サスケさんに今、その不安があるかどうかは私にはわからないけど。
私の場合は、いじりをも拒否して生きてきた。
それは、頑なで、偏りの多い生き方であるのかもしれない。この生き方をすることは、多くの人生転換のチャンスをみすみす逃し続けているのかもしれない。
私の場合に限っては、いじめ容認の思想に馴染み浸ってしまいたくないと思っている。今まで何度も、彼らとの融合に個人的な挑戦を続けてきたが多くの失敗を繰り返してきた。私はこれからも、積極的な意味での融合への挑戦を続けなければならないと思っている。あきらめて、彼らとの融合を断絶すべきではないと思っている。
しかしまだ、私は、いじめ被害者の名誉回復がされているとは思っていない。
お笑い番組をはじめとするテレビは大きく変化をしてきたが、未だ、酷いものが散見している。
それでも、自浄作用をこれからもテレビに期待している。
ともあれ、表現者の彼らの口を塞ぐことが目的なのではなく、いじめ被害者への最低限の配慮を求めてきたにすぎない。
いじめ被害者の最低限の人間の尊厳を守るために訴えてきたにすぎない。
マイナス1000から、マイナス200へ。
マイナス1000から0へと目指してきたものである。
多くの人々のご尽力により、いじめ被害者への直接的な風当たりは小さくなってきている。
ただ、私たちは、社会生活を営まなくてはならない。誰に遠慮もなく、堂々と自分らしさを発揮していく人間として生き、それを周りから阻害されない状態にまで至らなければならない。
美しいものを美しいと言える自由な空気がまだない。閉塞感。
私は未だ多くの人々とわかりあえない断絶したままの部分がある。
未成年の暴力やいじめに対する消極的な寛容。
非行少年や不良少年への更正に注視し過ぎて、暴走した彼らが踏み潰してきた人間への眼差しがあまりにも無さすぎる。
かつての暴走の限りを尽くした少年少女への否定が少なすぎる。
いじめ被害者全員が尊敬され、敬意を払われる存在にならなければならない。
テレビが長年産み出してきた多くの打撃。
その打撃痕は、私の中の多くのモノを破壊し奪っていった。
当時のテレビに対して後世の人々が、ゾッとして顰蹙するまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。
私は、いじめとテレビに殺される寸前までいった人間だ。
テレビだけじゃない。
いじめ加害者、傍観者、観客。
いじめ被害者と、応援者と影の応援者と、いじめのあるなしに関わりを持とうとしてくれた人々以外がのうのうと暮らしている社会。
彼ら一人ひとりが、必死に生活と格闘し真面目に生きている。
中学生時代の自分の罪など忘れたかのように。
当人への謝罪や懺悔のチャンスはなくとも、周囲にいる彼らへの誠実な眼差しを持つものがどれほどいる?
自然淘汰や、弱肉強食や、負のオーラや被害妄想などについて語り、自分の罪をごまかし正当化してしまおうとする人々。
しかし、彼らのなかには、語らないまでも心に秘めた罪悪感からくる痛みを抱えている人もいる。
そんな痛みなどまったく感じないまま生きている卑劣な人々もまた多くいる。
今、生きづらさを感じている。
しかし、生きづらさなど、今に始まったことではない。
いじめ被害者という自身のアイデンティティーと向き合う時、私は冷静になれる。
生きづらさ感じることなど、今に始まったことではない。
誇り高く生きていくために、私たちには多くの思いを共有する同志が必要だ。
今回はこの辺で。