2014/11/03 | 晴れわたる青空の下で

晴れわたる青空の下で

人類の歴史は、「侮辱された人間が勝利する日」を、しんぼう強く待っている。インドの詩人タゴール

今日は、夕方から寒く、外に出るとその寒さがあらゆる恐怖のように私にまとわりついていました。
それに押し潰されないようにペダルをこいでいました。
テレビは、今、少しの揺り戻しが起きていますが、無知ゆえの放送から、事情がある程度まで理解されての放送へと切り替わっていることを実感しております。

WHOのガイダンスに従い、報道の姿勢は慎重になっていますが、反対にいじめに今苦しんでいる10代の人々の気持ちが置き去りになっていないかを心配しています。

世間から切り離されたかのような孤立感を嫌というほど味わっていた引きこもりの時期、はなまるマーケットやめざましテレビに心洗われるような安心感を抱いていた17歳の私。

この孤立感を今彼らもまた抱え込んでいるのではないでしょうか。

両番組ともに、いじめに苦しんでいる人々への明確なメッセージを発信していたわけではありませんでした。

それでも、この二つの番組は自分自身を無理なく肯定できる存在でした。
はなまるマーケットは残念ながら終わってしまいましたが、めざましテレビは、20年経過した今でも当時の良さを新鮮に保ち続けているように思います。


この間のざっくりハイタッチは、いじめそのものを再現し、それが楽しくて仕方がないというように笑う回でした。

彼ら番組スタッフなりの問題提起だったのでしょうか。

テレビへの監視の目をあえて緩めているからあまりショックを受けなかったのでしょうか。
もしかすると、こちら側の感度の問題もあるかもしれませんが、やはり、番組制作に関わった人間の細やかな配慮がちりばめられていたのではないかと感じています。
それが、意識的なのか無意識なのかは私にはわかりません。

バラエティ番組の一番の問題点を上手く排除・解決していたのかもしれません。

それともやはり、私の感度がにぶっていただけなのかもしれません。


今までおよそ2年間、おとなしく過ごすようにつとめてきました。

傷口がむき出しのままでテレビを監視していたから過敏になっていたのではないかと、ゆっくりするようにしていました。

次のいじめ問題の課題は、いじめにあってきた人々の主体性を確立していくことだと思っています。

松本人志さんもワイドナショーで、懸命に、いじめに苦しんできた人々に対して肯定的な意見を語ってくださっていました。

もうちょっと、自分らしく生きていくことが当り前になれないかと思っています。
「もっと貪欲に生きようよ。自分の人生でしょ」
などと語ってくださる方もいましたが、この貪欲という言葉をうまく消化できず、もっと身勝手に生きてみようという方向に向かってしまう時があります。

私は、そんな風に試してみたことがあるのですが、何か全然自分らしくなくて、わがままな感じがしています。

少し、わがままに振る舞いつつ、「違う、私らしくない。こういうことではない」と思うことがあります。


どうしても、無知だったテレビに強く強く訴えかける必要がありました。
テレビに強く訴えかけることがわがままということではありません。

もっと個人的な実生活での工夫についてです。

共通しているのは、「自分らしくない」部分が多いということです。


いじめられている人の個性は全て同じなんかではありません。
それぞれに素晴らしい違いがあります。

それら百花繚乱の個性を花開かせていくには、どうしていけば良いのかを考えています。


樹木希林さんが天皇陛下から賞を戴かれて、テレビカメラの取材で話されていた言葉が少し気になりました。

人に評価されることと、ぶれない自分であろうとすることについてお話されていたように思います。

このぶれない自分であることが、なかなか難しいことだなと思います。


ぶれないとは反省しないというのとはイコールではないと思います。

頑なさでもないと思います。


いじめ後遺症を一側面から見れば、それは、決断できない負の連鎖と言えます。

周りの意見を注意深く理解しようとしすぎて、自分に合わない選択を続けていき、「ここはどこだろう」と後悔してしまうことが多いのではないでしょうか。

このあたりが私たちの弱点ではないでしょうか。

自慢の忍耐力も、くじけない心も、その能力の高さにうぬぼれてしまい、自分の気持ちを伝えるということがずっと後回しになっていないだろうかと思います。

無私の自分で飛び込むことは、とても大切な決断だと思います。

自分らしさにこだわるあまり、何もしないままでは、いじめ後遺症は深くなるばかりです。


ここで、誰かのためにという利他の精神が、この問題の解決の鍵になっていくのだと思います。


誰かの役に立てているという実感が私たちの自尊心を満たしていくのではないかと思います。


その相手は、いじめに苦しんだ人に限りません。

料理店で働く人々が得ている喜び、教育、介護にも喜びがあるのでしょう。

どんな仕事にも、誰かの役に立てているという喜びがあると思います。

私たちは、仕事に対して消極的に、また、強い不安を抱えてはいないでしょうか。

本来、私たちこそ、仕事で得る喜びが自分自身の精神を救うはずです。

いじめに苦しんだ人のなかには、様々な理由で仕事をさせてもらえていない人が多くいます。


仕事の苦しさや大変なイメージばかりを見せられて、学校と比べ物にならないほどに厳しいなどと脅かされてしまうと、死のギリギリまで学校に追いつめられた私たちは、これ以上の厳しさが仕事にはあるのかと、二の足を踏んでしまいます。

何回も書いてきたように、いじめに苦しんできた人にとっては、職場は学校よりも大変な場所というのは大嘘です。

学校でビジネスマナーの授業があったなら、いじめられた経験のある人は高い評価を得るのではないでしょうか。

今日は、私たちいじめに苦しんできた人々のこれからの課題について、少し書いてみました。