じゃあ、少しドラえもんについて書いてみましょか……。
あまりwikiばかり参考に使うべきではないんだけど…。
のび太君という存在は、原作の藤子・F・不二雄さんの子どものころ、そのままの姿であると書いてある。
ダメダメで、弱くて、情けなくて、ずるくて、こんな道具があったらな、こんな奇跡が起きたらな、と夢想するような少年だったと書いてあります。
もちろん、本当に、イヤな少年だったわけではなくて、よく子どもの頃を振り返る時に、自分自身のことを、比較的、厳しい目で見つめようとしてみる、なんというのか、少年時代の甘酸っぱい失敗の数々を、当時の優しさに包まれていたのにもかかわらず、甘えてばかりいたな、という反省と、周りの人間たちへの温かい思い出や、よくよく考えてみたら、周りの人間たちから受けた冷たかったり、残酷だったりしたりする仕打ちにも負けなかった思い出を描いているのだと私は思います。
現実の少年時代よりも、よりコミカルに、より情けなく、より滑稽で、より愛らしくデフォルメされた藤子F不二雄の少年時代が、のび太少年の設定のきっかけだったのでは、と私は想像する訳です。
いじめ問題に特化させて、ドラえもんという作品を見つめる時に思うことがいくつかあります。
まず、情けなかった少年時代を振り返り、とことん自分をダメな人間として描くことで、周囲にいる同級生の優しさや残酷さが際立って描けている。
どういうことかというと、自分の中にある負の少年時代のイメージ、自分の中にあるとことん自己卑下をしてみたイメージが立ち上がることで、「いじめ」という悲惨な現実を、明確に切り分けることに成功した作品ではないかと思うのです。
言い換えると、「いじめ」はまだ、未分化のままだったのではないかと思うのです。子どもが出会う、子どもなりの残酷な現実、逃げられない現実、の代表的なものとして、ドラえもんという作品は、「いじめ」を少年時代の苦しい思い出のひとつに切り分けることができた作品だと思うのです。
毎回ほとんどの回で、ジャイアンたちの陰湿ないじめ
が日常的にある状態がスタート地点にある。
同時に、憧れの存在のシズカちゃんや、嫉妬の対象となる出来杉くんの存在。
毎回毎回、しつこいくらいに、ドラえもんでは「いじめ」が描かれている。
それは、当たり前と言えば当たり前のことで、藤子F不二雄は、よくも悪くも、いじめという呪縛からは、なかなか逃れることは難しいことを知っていて書いている。
私が思うに、藤子F不二雄は、知らず知らずのうちに、少年時代に限らず、受けてきた残酷ないじめに因って起こる「いじめ後遺症」を、毎回ドラえもんを描き続けることで、解消させていったのではないかとも思うのです。
私とおなじように、いくら、汲み上げても汲み上げても、尽きない泉の中に沈んでいるヘドロ。
そのにごりや、痛みは、いくら、汲み上げても汲み上げても、尽きることがなかったのでしょう。
自身の体験を中心に、周囲の方が受けてきたいじめ体験や、読者の方が受けてきたいじめ体験も、作品の中にさりげなく盛り込まれていることでしょう。
あの時の苦しかった思い出を起点にして、つらくて泣いているのび太くんを励ます優しい存在であるドラえもん。藤子不二雄少年の夢の存在にも重なるドラえもん。絶望したときに、「どうしたんだい?」と肩を抱いてくれる存在。「なんてひどいことをするんだ!」と、いじめっ子に対して怒ってくれる存在。
泣き言をしんみに聞いてくれたり、藤子不二雄少年を甘やかさず厳しく叱ってくれる存在。
涙を流し心から心配してくれる「僕の味方」という存在。
ドラえもんに頼らずに生きていけるようになってほしいというドラえもんの気持ち。
藤子不二雄は、その状態にあるのび太少年を、弱くて情けなくて甘ったれな存在として、見ている節があるが、私はここに、強い否定の気持ちがある。
いじめは、少年時代の甘くも切ない感傷に過ぎないという誤った認識で捉えていて、そこの思いが、今ある微妙なズレを生んでいると思う。
今回あった放送でも、いじめられて弱っているのび太少年に対して、
「あいつらは、なんてことをするんだ!よってたかってのび太くんをいじめて断じて許せない!」
と激怒してみせながらも、
「いくら、のび太くんが弱虫で情けなくて、甘ったれの大馬鹿野郎で、コンコンチキであったとしても許せない!」
と、のび太少年に対する「お前は弱い」という批判をセットしていた。
こんなことをセットする理由は、のび太少年は、「いじめ被害者」の代名詞ではなくて、あくまで、弱々しかったという藤子不二雄少年の自己イメージであるからこそ、描けるものであると思う。
藤子不二雄が少年時代を振り返る時に、少年藤子不二雄を叱る感覚なんだろう。
「しっかりしろよ!お前!」
と。
だから、いじめ被害者に向けての言葉出はなく、少年藤子不二雄への言葉なのだと思います。
もう藤子不二雄さんは亡くなられていて、作品の原作の大半は、ずいぶん前に書かれたものです。
いじめに関する認識が正しく修正され始めたのは、ここ五年の出来事であるので、藤子不二雄さんは、いじめがどれだけ正確に理解されはじめているのかを、知らないまま亡くなられていている。
今回の放送で見えるのは、ドラえもんのアニメーションを今作っている人々の力量不足または、悪意からくる原作のねじ曲げに過ぎない。
きっと藤子不二雄さんは、
苦々しい思いで、21世紀からのアニメドラえもんを見ているのだろう。
藤子F不二雄さんは、今どこにいるのか。
それは、今いじめに苦しんでいる少年少女の中にいる。
いじめに苦しんでいる彼らが、眉間にシワをよせ、苦しそうにアニメドラえもんを見ているのが私にはよく理解できる。