【思索の時間】 | 晴れわたる青空の下で

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人類の歴史は、「侮辱された人間が勝利する日」を、しんぼう強く待っている。インドの詩人タゴール

今日は、数年前に蔓延っていたいじめ加害者側の言い分について考えてみる。


ある人が言う。

『いじめは、いじめた奴が当然悪い。でも、いじめられる奴も悪い所がある。それは、いじめられ下手なんだ。誰でも1度や2度はいじめられたことがある。そんな時には、家に帰って今度アイツがこうやってきたら、どう切り返すのがいいのか、どうすれば深刻な感じにならずに、楽しい笑いに変えていけるのか、そんなことを考えないといかん。人間が学んで成長する生き物だ。そこらへんの工夫が下手だからだめなんだと思う。子どもというものは教室の中でそれぞれの人を格付けしたがるものらしい。足が速い子、勉強が出来る子、運動が出来る子、自分は、クラスの中で何番目で一番はアイツで二番はアイツで三番目はアイツだというように。それが学校の運動会で順位付けしなくなり、演劇でも桃太郎が十数人出てくる。なぜ教師は気づかないのだろうか。それぞれの配役を演じる中で、それぞれが自分のキャラクターを作り上げていくことが出来るということを』


以上が最低な部類の加害者に甘い言い分である。
これは、まるで、白米を炊飯器で炊いてみたら、水加減を間違えて、びちゃびちゃになってしまったおかゆのようなものである。さらには、米一粒一粒に硬い芯が残っているようなものである。

この最低な言い分を、
『このおかゆは美味い美味い』
といって喜んで食べている人が数年前には、たくさんいた。

今はこんな糞飯ものの言い分を『これはダメだね』と一蹴する人がかなり大勢いると思う。

今回は、敢えてこの愚論のどこがどうダメなのかを考えていこうと思う。

まず、いじめはいじめた側が千パーセント悪い!

という前提から考えてみると、一番最初にある、被害者にも非があるという一点が崩れる。
彼らの愚論は、いじめられ下手と表現している。
こう表現するということは、いじめられ80kgの負荷をかけられ、虫の息になっている被害者の心労を知らない。
ここで被害にあった人々の選別を彼らは行おうとしている。この時点で選別しようとすること自体が既に間違いである。なぜ間違いなのかというと、彼らは、主体を加害者に置いている。不変の加害者に対しどう対処するのが賢明かを考えろと言っているのだろう。雨が降れば傘をさしましょう、学校に傘を持って行きましょう、レインコートを来て行きましょう、雨が強い時間帯は雨宿りをして、少し雨が弱まったら、また歩き出しましょうと言いたいのだろう。雨が降ってるのに傘もレインコートも持たず、タオルさえ持ってきていない、さらには、タオルを貸してあげようと言っている人々の手さえもはねのけようとしている。それでは風邪をひいて当たり前だと言いたいのでしょう。

つまりは、彼らは、いじめ加害者を自然現象や天災のように位置付けている。
当然ながら、雨が降れば、傘やレインコートの準備も必要だし、雨宿りも、学校に行かないことも選択肢に入れておくべきでしょう。タオルも用意しておくべきでしょう。この位置付けこそが間違いなのである。
むしろ、雨具を用意すべきは、いじめをしてしまう側の人間である。雨や雷は、加害者の心の状態であり、雨を避けず学習能力もなく、毎回風邪をひいては発熱し、我を失い、人をいじめてしまうのです。
この学習能力の無さをいじめ加害者は棚にあげているという、とても恥ずかしい状態にある。


いじめられ下手ということは、いじめられ上手な人もいるということを彼らは言いたいのだろう。
いじめられ上手が賢い生き方をしている人間で、いじめられ下手は愚かだと言いたいのだろう。

この点でも、いじめ加害者側を擁護したい人間の勝手な論理の破綻がある。
これまで何度も書いていている通り、いじめをする人間が加害者で、いじめをされた人間が被害者なのであり、いじめという遊びの積極的参加者ではないということです。
彼らの論点のズレは、いじめをする人、いじめられている人、囃し立てる人、楽しんで見ている人を、劇団いじめの1参加者としてしか見ていないということです。役割分担なんだから、自分の負担が少ないように工夫しろというのは間違いである。
じゃあ、会社の場合はどうなんだ? なんて言う質問をしたくなる人もいるでしょう。今は会社の場合ではなく、学校の場合について書いています。会社の場合については後半に『補足』として書いておきます。
学校の場合、成長過程にあり、失敗をしてもよい割合が会社で失敗をしてもよい割合よりも、格段に広く設定してあるようにも思います。これは少年法を考えてみるとよくわかると思います。非行・暴力・犯罪を犯す少年に対しては寛大であろうとするくせに、いじめ被害者のいじめられ方について、ここまでシビアに突きつけてしまうのは、絶対に間違いであるはずだ。いじめ被害は、一人で抱え込んで解決できるようなレベルの問題ではないのだ。時にはカウンセラーの力も必要になる。時には入院さえしなくてはならないほどの心身のダメージが残る。
彼らが言いたいのは、そんな深刻なダメージが残ってしまうその前に、上手に対処しろよと言いたいのだろう。しかし、これは、針の穴に糸を通すような難しさがある。これを上手く回避出来た人々は運が良かったのともう一つの理由がある。それは、性格や人格、生き方が、それを回避しやすい性質であったということだと思う。

自分がいじめられないために、別の誰かに標的を変更させようという悪知恵が働く者を賢い人間と言えるだろうか。そこの割りきりが出来る人間が、いじめられ上手だというのだろうか。
『そんな標的変更なんかをしてしまうと、今の自分と同じ苦しみにあう人を生み出すことになるから、標的変更を僕はしない』

そういった心の優しい人間を、『いじめられ下手だ、お前も悪い』などと言えるだろうか。

深刻にならないように、軽やかな笑いにその状況を変えていく工夫と彼らは言っているが、これは私の体験談から、この愚論を全否定することが出来る。

私はこのピエロを演じてきたのだから。こんなにも重いいじめ後遺症に苦しんでしまうとも知らずに。

このピエロを演じてきた被害者像は、今ではニュースでも有名だ。

周りから見ると、被害者も楽しんでいるように見える。

被害者が間違ってしまいやすい、大失敗が、このピエロを演じることなんだ。ピエロを演じることで、被害者の精神的ダメージは相当深くなる。

彼らは、このピエロを上手く演じることが必要で、そうすることが、いじめられ上手なんだと考えているようなのだ。





『補足・会社の場合』
会社の場合、厳しくその人を育成していくために厳しい態度で接する場合が多いと思います。
もちろん、いき過ぎた厳しい態度は問題ありますが、それ以外の厳しさには耐えなければならない場合も多くあると思います。もしかしたら、この点自体も考え直しが必要なのかもしれませんが。
今回は、会社でのいじめにはスポットを当てず、小中高校のいじめについて考えていきます。
会社と学校では何が違うのか。
学校には、生徒による居場所を自分やその親に選択する自由がほとんどありません。

転校は、今でこそ、いじめの深刻さを多くの人々が理解し、転校を決断する家族もいると思いますが、今でも転校となると、まだまだ簡単なものではありません。

学校を休学しても大丈夫という制度もまだ充実しているとは言えない。

それに比べて、会社には、仕事を選ぶ自由があるし、職場を離れたらストレス解消のための楽しみが無限にあります。
もちろん、会社を簡単にはやめられない状況もあるでしょう。
しかし、家族のためになどの強い働くための動機付けがあるのはとても幸せなことであると私は思います。
いじめに苦しんでいる人には、その強い動機付けがない場合が多いと思う。

学校を休めば家族が、学校に行け、怠けるなと言う。

家族の焦りと無理解または、世間体が家族の視野を狭め、被害者本人に全てのしかかってくる。

学校も地獄、家にも理解者がいない、被害者本人にも、前向きな動機付けがない。

次に、会社には、こちらから志願して入るものだが、学校の場合は、自動的に、この学校以外には選択肢がない場合が多い。
受験などを考えてみろ、と言われそうだが、学校という進路と、会社・職場という進路とでは質に違いが多すぎる。
動機付けの違いが一番だが、入社・入学してみたら、自分が思っていたのとは違っていたとなる場合がある。

会社を辞めれば求職中の身となり、学校を辞めれば求職中とはまた違ったニュアンスのものとなるのは理解してもらえると思う。これが、大学受験失敗なら、浪人生という肩書きがもらえる場合があり、少々は、今の自分を客観的に捉える時に救いとなる。