いじめされた私達が困っている事について、出来るだけ多く書き残しておきたい。
それは、いじめの傷のある人と、いじめの傷の無い人々との認識のズレの一言に尽きます。
例をあげればきりがありませんが、今回は、今日、一番思うことについて書きます。
海に、たくさんの川から水が流れ込むように、
たくさんある川の一本について書きます。
いじめにあうと、大変苦しいですが、ツラい経験をすると大人でも子どもでも、心がキレイになるものです。
例えば、失恋してキレイになった人。
例えば、野口英世のように、幼い頃、手を火傷してしまい、いじめに耐えて、将来を見据えて頑張り続けた話。
例えば、数多くある悲劇のヒロインの物語のハッピーエンド。
偉人の伝記を読むと、苦しい少年時代、少女時代について描かれています。
そんな伝記を読んで素直に心の糧として吸収でき、感動して、鼻の頭が熱くなる経験をたくさんしてきました。
小学校五年生の時、学校の図書館で、誰か忘れましたが、伝記を読もうとしたのです。
すると
『格好つけるな。全部読めよお前』
と、あるいじめっ子が意地悪にいうのです。
また、中学生の時に、『僕はツラくても学校の前にある山を見てよし頑張ろうと思えます』
などと作文を発表すると
『義郎のクセに格好つけるな!』
と別のいじめっ子に言われました。
大人になった今も、
『モテたい気持ちがあからさま』
みたいな頭の中が『?』でいっぱいになるようなことを時々言われます。
全くそんなつもりがなくても、周りの人間からすると、私に対する共通認識であるかのようになっている、と気がつく時があります。
全く格好をつけるつもりではなく、素直な気持ちで行動しているのに、そんなふうによく言われてきました。
これは、10代の時はずいぶん悩みました。
『僕は格好つけるクセがあるのか』と。
全くそんなつもりではなく、素直な気持ちなのに。
だから私はマズローの話を書いてみたのです。
いじめの傷の無い彼らにとっては、満たされている欲求が、私達いじめの傷のある人にとっては満たされていない。
その満たされていない欲求があっても頑張っていこうという姿勢が、周りから見ると、理解できない時があるようです。
この、いじめの傷の無い人々による、私達いじめの傷のある人に対する、決めつけや偏見、というのがとんでもなくひどいのです。
私達が真剣に訴えていることに
本心は『そんなわけないだろう』と笑っている人がすごく多い。
私達の満たされていない何かを求める姿勢が、彼らにはどうしても理解不能なようなんです。
理解不能だから、自分たちなりに、『あいつらなんて、結局こうなんだって、きっと』
と決めつけて、自分を納得させるしかないようなのです。
『ただ単に寂しいんでしょ』
とか
『自分を良く見せたいだけでしょ』
とか
『病的に被害者根性が強いね』
とか
『ひがみ・ねたみ・そねみ・八つ当たり』
だと決めつけてしまっている人がとても多いんです。
今回は、解決の糸口はあえて書き加えないままにしておきます。
周りに歩調を合わせて生きる
というのは生きていくなかで大切なひとつではあると思います。
ただ、いじめにあった私達が、自分を押し殺し生きていこうとすると、周囲の人は全く間違った認識を私達に対して持ったままでいることになるのです。
これは、『なんとなく、そんなものかな、世の中なんて』
と、あきらめてスルーしてしまい続けては絶対に、いけないんじゃないかと、私は思うのです。
私はよく、この間を揺れています。
そんなにこだわる必要もないか、と思う日々もありますが、
誤解の溝の深さにゾッとするとき、やはり、しっかり訴えないとシャレにならない!
と思うのです。
これは、ニューハーフの方に対して、
本当は、男性が好きだなんて嘘なんでしょ?
カマッテちゃんマックス状態が、あなたの姿そのものなのよ。イヤーね、そこまで嘘で固めて注目されたいなんて。
と言っているのと同じです。
私たち、いじめ被害者は、まだ、その人間としてコアな部分が認知されていないのです。
wikiで調べてみると
アブラハム・マズローの欲求段階説を低次からあげていくと
生理的欲求(食事・排泄等)
安全の欲求(安全性・健康状態の維持・経済的安定性等)
所属と愛の欲求(情緒的な人間関係等。孤独感・社会的不安の原因)
承認(尊重)の欲求
自己実現の欲求
の5つに大別されます。
晩年には、
自己実現の欲求より高次な
自己超越の欲求
を加えています。
さらにwikiによると
所属と愛の欲求
の説明の始めにはこう書いてある。
生理的欲求と安全欲求が充分満たされると、『所属と愛の欲求』が現れる。
と。
そして、
最初の4つを欠乏欲求、
5つ目を存在欲求と分けます。
自己実現を果たした人は少なく、さらに自己超越した人は極めて少ない。
などと書いてあります。
つまり、低次の欲求が満たされることによって、1つ高次の欲求が現れてくるとwikiから私は読み取りました。
世の中には、いじめ被害者だけでなく、本当に大変な思いを人知れず抱えて生きている人がたくさんいらっしゃいます。
例はあえてあげませんが。
多種多様の大変さを抱えて生きておられる。
私は先に、彼らが満たされている欲求を私たちは満たされておらず、それを手に入れようともがく私たちの姿勢が、彼らには理解できない
と、書きましたが
もしかすると、逆なのかもしれません。
私たちは、既にある欲求は満たされている。
しかし、いじめてしまう彼らは、その欲求を満たされていない。
私たちは、彼らが満たされていない欲求を既に満たし、より高次な欲求が出てきているのかもしれません。
それに対して彼らは、私たちを理解できない。
これは、全くマズローについて知識の無い私が勝手に、当てはめて書いてみただけです。
マズローの考え方は、現在ではより進化しているだろうし、マズローの論を間違いだと指摘する人もいるかと思います。
私はマズローの考え方が『間違いなく正しい』
とは今の時点では思っていません。
マズローの考え出したこのモデルを通して、いじめを考えてみることで、よりわかりやすく、いじめの苦しさについて説明できないか、と思ったまでです。
私達と彼等が、マズローの言う欲求の段階が違っていることに対する、お互いの無理解が、いじめ被害者の正確なパーソナリティーが理解されない理由ではないだろうかと、私は今日の時点では考えます。
さらに付け加えるなら、いじめ被害にあった全ての人が、同じ強い次元の欲求に苦しんでいるとは限らないとも思うのです。
時の経過により、ある人は、同じ所を長い間ぐるぐると回り、ある人は、ある時期から高次の欲求に至る。
突然の病気や怪我、トラブルにより、高次の欲求に満たされている段階から、低次の欲求さえ満たされない段階に突き落とされることもあるのでしょう。
毎日毎時、刻々と、その欲求段階が変化していると考えるのが良いのかもしれません。
私達と彼等では、その変化のパターンが異質であり、共感しにくいと考えると良いのかもしれません。