青春リアル
教師からの体罰は駄目で、同級生からのいじめはOKって何だよそれ。
強制の中からも自主性は生まれると思います。
例えば、登校日。これは強制です。出席日数というあまりにもシビアな強制があります。「失敗するたびに再チャレンジのチャンスがある」という視点から考えるとどうだろうか。
登校するかどうかで、ものすごく悩みます。
今の制度には、おまけも何もありません。
とっても苦しんだ上で、学校へ行くか行かないかを決めていると思います。
そうやって悩んで苦しんで、学校に行けた時の気分は自信に満ちている顔をしているのではないでしょうか。自然な笑顔も産まれるんじゃないでしょうか。
授業だって強制です。
ダンスや武道も始まったのかな。それもある意味では強制です。
強制の中で何かが生まれると思います。
授業中に勝手に教室外に出ないことも強制のひとつかもしれません。
授業内容も、決められたものを学んでいくことになります。小学生の頃から、そんな強制の中で生き抜いてきた。いつの間にか、その当たり前が強制だとも思わなくなり、知らず知らずのうちに大きなストレスがかかっているのかもしれません。
強制の緩和=選択の自由とは限らないけど……。
いじめをしてしまう子を更正させなければならない。
いじめをしてしまうような子にならないための新条件でもあると思う。
私は放送回を見逃してしまい、マジ語りの正しいイメージがつかめていないから、私なりに膨らまして書いてみます。真剣10代しゃべり場!という番組をイメージしながら今回は考えてみます。十代の人が10人くらいいて、マジ語りをしあい、時には厳しい反論も生まれてという番組があった。
1人がトピックを立てて、はじめにその1人が短い文章で、私はこう思いますが皆さんはどうですか?と問いかける。
これはテレビの前でしゃべる事だし、10人もいないくらいのメンバーが、1人1人、週替わりでしゃべっていく。そこには、1人有名人の大人のゲストが入っている。
マジ語りでも、「頑張りたいです!」というのもあれば、「学生時代は頑張りたくない!」というマジ語りもあるかもしれない。
そうなると基本的にマジ語りは、議論の場所ではないということになる。
反論したいのをぐっとこらえて話を聞かなくてはならない場所。
私がイメージしやすいのは、1人ずつ席を立って、投げ掛けられた課題に対して思うところを述べていく。一言、二言なので時間はかからないがマジ語りとは程遠いものとなる。
変に空気を読んでしまい、ありきたりの答えを出してしまう。「○○さんと一緒です」と三人続いてしまったり、別にありませんと、下を向いてすぐに座ってしまったり。中学生といえば、偏見が過ぎるかもしれませんが、反抗期真っ只中の人間が教室にぎゅっといる状態とも言える。
反抗期にうまく向き合えている子もいれば、コントロール出来ていない子だっている。もちろんそれは情けないとかではなく当然かとも思う。反抗期の自分でも止められない暴走。
「性」に対する正しい認識を親から教えてもらえる子もいるが、親子間でそういった話がしにくい状態にある子もいると思う。
反抗期がホルモンバランスが崩れる時だとしたら、暴走している子も、その暴走の被害にあっている子も、ホルモンバランスが崩れている時期だと思う
私の通った中学には、県下の名門校のひとつと数えられる部活があった。とても厳しい愛される名物教師がいた。私は在籍していなかったが、いじめっ子の多くはこの部活に入っていた子が多かった。今思えばかなりハードな練習を積んでいたのだろう。彼らの気持ちになって考えることは何百回とやってきた。彼らの気持ちになると、子どもが、「ウイーン」と両手を広げ飛行機の物まねをしている感覚に似ていると思う。解放感みたいなもので、
「ヒューン、ヒュヒューン」
と、腕を広げてちょこまかと走り回っていると、高速で景色が替わり面白かったりする。スピードをあげるほど視野は狭くなり、高速のカメラワークのような感覚がある。
「ミサイル発射!」
と言ってこづいてみたりして、また別の方向に走り出す。自分が叩いたことなんて覚えていない。
それがエスカレートして、叩く回数を増やしたり、思いっきり強く叩いたりすると、アドレナリンが分泌されるのか、興奮状態となる。視界の狭い飛行機は、集中攻撃を終えるとまた飛び出してしまう。飛行機の興奮状態が止むと今度はその揺り返しで、重く鈍い痛みのある状態になる。イライラしやすく、罪悪感もあり、
「言われなくてもわかってる、うるさいうるさい」
という状態になる。第三者からみたら体も大きくなっている。本当は大きな体の駄々っ子が暴れているにすぎないが、とても凶悪な人間に見える。その遠慮するような視線に底無しの恐怖と寂しさを感じて、自分はもう子どもとしては愛されないと錯覚してしまう。
その恐怖と寂しさを解消させるため、イライラの原因の少しである被害者に過剰な八つ当たりを始める。
「ムカつく」
というのは、被害者に向けられた言葉などではなく、誰にでもある失敗への苛立ちを受け入れてくれるのが、唯一その被害者であったというだけである。
「こいつをいじめるなだと?じゃあ今の俺の苦しみはどうすればいいんだ」
と、気持ちを解放させる場所、つまりはけ口が無くなることで自分がどこに向かうのかがわからなくなって苦しむ。暴力を禁じられたから次は、デマを拡散し、無視を始める。俺たちこそが正常だと言うために、被害者を異常扱いするようにしむけていく。だけどうまくいくはずがない。苛立ちが募り、自分が間違っていたと認めることができない。
そのうち被害者の方がどんどん消耗していく。
飛行機ごっこの段階で教師が「こら!」とげんこつしていると、
「なんで自分はたたかれたのだ?叩かれた原因は何?」となる。そこで「お前の飛行機ごっこで殴ったことで○○君はこんなにひどい怪我をしたんだぞ!」
「あーごめんなさい」
「なんだその謝りかたは。ちゃんと謝りなさい!」
昔ならそうしてきたかもしれないが、暴力を教師に使わせたくない。
げんこつなんかを使わなくても、1時間、授業を加害者に休ませ、別室で話を聞いて冷静に「今君がやっていることがどれほどひどいことなのか」を丁寧に思いやりをもって伝える。
これは小学生のうちからやるといいかも知れない。
1時間もあれば、冷静に話を聞く姿勢も出来るのではないか。
教師であるなら、しっかりとしたマジ語りの手本を示す能力があると思う。
1人が教壇に立って話してしまうと、1人対多数となってしまう。
ヤジが飛び交うかもしれない雰囲気では、緊張もするだろう。
レトリックを学ぶというのが昔のどこかの国ではあったんじゃないかな。レトリックを学び実際に応用するために、それを披露する。レトリックもその各々のルールの中で、自分を表現する。言葉にも、別の意味での説得力がうまれ、印象にも残る。相手の思想に対してダイレクトに責めるのではなく、ルールの中でしゃべれているかどうかという視点が増える。
レトリックを修学させよとか、させなくていいとかを言いたいのではないけど、そう考えていくともう少し具体的なものが見えてくるんじゃないかな。
いじめは絶対いじめた側が悪い。いじめている側の気楽さと、被害にあっている子の深刻さを教師が理解しなくてはならない。これに同意出来ない教師は採用しない。
これは、学校に限らず教えなくてはいけない正義である。そこに異論を差し挟む余地はない。人殺しや泥棒が絶対にいけないことであるのと同じように。議論可能なものと、議論不可能なものを分別する物差しが教師に必要なのかな。だけど、いじめが残酷であると捉えることの出来ない、困った教師が大勢いる。教師を安定した就職先ぐらいの感覚でいるのが私には許せない。
ヒップホップのリリックのようなものを作るのがいいのか。