いつものように考える(仮説)
「苦痛」や「きつい」や「つらい」や「しんどい」は、心身などのバランスが崩れることから起こるのではないかと思った。
いじめがつらい理由は沢山あるが、今日は2つ挙げてみる。
いじめ加害者からの悪意ある様々な攻撃により、体と心のバランスが崩れる。理由が不明である攻撃は、いじめ被害者の心身を著しく破壊する。
体を傷つけられると、傷が出来て疼く。心も同じように疼く。
体の傷は時間の経過により消えていく場合がほとんどである。
しかし、無視や消しゴムかすによるいじめ犯罪の場合、心の傷として長い間、いじめ被害者を苦しめてゆく。
心の傷は体の傷と違い、長い間流血を続ける。一度は傷口が塞がったとしても、とあるきっかけで簡単にそれは開いてしまう。
ひとつ目の理由は、何度も繰り返し書いて説明した通り、このように心の傷は長年本人に苦痛やしんどさを与え続ける。
2つ目の痛みとは、受動的に他人から与えられた痛みであるということだ。
あまりクローズアップされることの少ないが、この受動的な痛みというのがとてもやっかいなのではないかと思うのである。
自らすすんで、つらいこと、大変なこと、苦手なことに挑戦すること。茂木さんの「偶有性の海に飛び込め!」という言葉にもヒントがあると思っている。
しんどいかもしれないなと思っても、自分からポーンと飛び込んでしまうことで、そこで経験した嫌な思いも苦痛も納得できる。
主体的苦痛は、受動的苦痛と痛みの度合いは同じに近いと思う。
同じ苦しみでも自分で決めたことだから挑戦を続けられるんだろうと思う。
いじめがいけない理由は、ほとんどが受動的苦痛であるからだ。
しかし、例外がある。受動的苦痛を主体的苦痛に変えてやれと思い、いじめ被害者は時々、どうせいじめられるなら主体的にいじめられてみようと試みるケースがある。
私の場合も主体的にいじめられてやろうと工夫をしていた。しかし、いじめの場合に限って考えると、これは非常に危険が伴う。なぜ危険なのかと言うと、明るく振る舞ったり、笑顔を見せたりしていると時々は成功し、いじめ加害者は少しの間、いじめることを忘れる。
しかし、この場合、無理して明るく振る舞ってみたり、笑顔を見せたりしていても、その行為を否定されてしまうことも多々あるだろう。
その場合、好意的にいじめ加害者を見ようとしているため、彼らからの否定の言動を「真実」であると錯覚し、自分の笑顔も明るさも優しさをも、自分自身でしっかりと否定してしまうのだ。
これがやっかいなのである。これをやると心の傷は複合的に痛みを増していき、それはあらゆる角度に成長してしまい自分自身をがんじがらめにしてしまう。
二番良いのは殴られようが無視されようが、真剣に「やめろ!」とか「恥ずかしくないのか!」と正義の怒りを持って激しく反論することが一番、心の健康を維持できる。
三番目に良いのは、主体的にいじめられることだと思う。
かなりあとでつらい思いはするが、主体的な方がいい。
一番良いのは、いじめる子の相手をしないようにすること。そして、自分の苦手な挑戦に日々取り組むことが一番良い。
運動が苦手な人は運動を、勉強が苦手な人は勉強を、親孝行が苦手な人は親孝行を、そして、自分が夢中になれる世界で最大限の努力を費やすことが大切だと思います。
だから、今いじめが少なくなってたりする人の中で自分から洞窟を背負ってやろうという、心意気を発揮する強さが自分の中に残っているのなら、私は言いたい。
わざと、自分で自分を大きな苦痛が起きる場所に飛び込んでみよう。
自分の中にある完成されつつある自分のペースをわざとぐちゃぐちゃになるくらいに頑張ってみよう。
あなたが最大限に自分の力を発揮することが、世の中への大きな貢献へつながっていくと思います。