2013年、水月湖の年縞データは、放射性炭素年代測定の較正データの世界基準に採用された。
その結果、上の写真のように、多くの古代の土器や考古学の年代が、より正確に算定し直され訂正されている。
具体的には、過去に4万年前と見積もられた試料には±420〜1000年の誤差が見込まれていたのが、水月湖データの導入後、誤差は±84年にまで近づいた。

2020年、日本の年輪データの解析手法の進歩に伴い、京都府宇治市の平等院鳳凰堂の柱や、長野県宮田村の埋もれ木のヒノキが、中国のフールー洞窟の石筍などと共に新たなデータに加わり、IntCalに採用された。

水月湖の年縞データもそのまま継続し、現在もIntCalの最も重要なデータに位置付けられている。

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前回の記事では、水月湖の年縞データが、炭素14測定法の年代測定の精度を上げる事に著しく貢献した事をお伝えしました。

皆さんは、この貴重な水月湖の年縞データが最初に提出された1998年の国際会議では不採用だった事を知って驚かれるかも知れません。

そのハラハラさせられる経緯をレポートしましたのでお読みください。


5.年縞チームの不屈の努力


🔵 初めの挑戦〜北川データの存在

「水月湖にどうやらすごい年縞があるらしい」…これが最初に分かったのは1991年の事でした。

環境考古学者、安田喜憲氏は、三方湖周辺の縄文遺跡「鳥浜貝塚」から出土する花粉から、過去の環境を復元する研究者でした。

彼のチームは三方湖の湖底を調査しましたが、水深わずか2m、流れ込む川からの濁流もあり、きれいな年縞は見つかりませんでした。

そこで隣の水月湖の調査も行おうという事になったのです。
その時、国際日本文化研究センター(日文研)の北川浩之さん、中川毅さん等、若い研究者がこの調査に参加し、20mの鋼菅から美しい連続したしま模様の泥が発見されたのでした。
この試料を若い研究者達が、2年の歳月をかけて解析し、それが毎年毎年形成された年縞であると確証されたのが1993年でした。

そしてついに1993年末〜1994年にかけて、水月湖の最初の本格的なボーリング調査が行われました。
その時は、一体どれくらいの深さまで年縞が続いているのかもまだ分からなかったので、「通常」の方法で、1メートルずつ掘削を繰り返しながら進んで行ったのです。

その結果、45mもの連続した年縞であると判明した時の彼らの驚きは想像に難くないでしょう。

途中で予算が足りなくなった安田教授は、川崎地質株式会社に800万円の借金をしている。
取り出された年縞は「泥」特有の糠味噌の様な腐敗臭がしたという。
また、何万年もの無酸素状態からいきなり酸素に触れた年縞は、短時間で酸化し、錆た黒色に変わると同時に、乾燥するとバラバラになったという。


当初、水月湖の年縞はどのように活用できる素材なのか、明確なビジョンが見えていた訳では無かったのです。

この採掘に立ち会っていた若い研究者の中に、水月湖の年縞が持つ価値に強い方向性を見出した人物が1人いました。

それは当時まだ20代の名古屋大学の大学院生だった「北川浩之氏」でした。
彼は「14C年代測定のものさし」を念頭において水月湖のこの膨大な量の縞模様を見つめていたのです。

それから丸5年間、彼は不眠不休で、この年縞データの分析にあたります。
測定装置も今ほど進化しておらず、炭素14測定の前処理ルーティンも、彼の手作りで一式を作りあげたほどでした。
年縞を1枚1枚数え上げ、枯葉の化石を取り出し化学的処理を施し測定する…この気の遠くなる作業を彼は大学院生として別の分野の論文も書きつつ、独りでやり遂げたのです。28〜33才までの5年間でした。

1998年、2月8日。
アメリカの権威ある科学雑誌サイエンスに、彼は論文を発表します。

ところが、同年1月1日。
北川に先んじて、アメリカ コロラド大学の研究者、コンラッド・ヒューエンは、ベネズエラのカリアゴ海盆の年縞データの論文を同じく権威ある科学雑誌ネイチャーに発表していました。

カリアゴ海盆は、カリブ海の南部、ベネズエラ沿岸にある。海盆の外側は列島と浅い海によってカリブ海本体からは区切られているが内側は巨大な坑のように深い。
ベネズエラ北部には明瞭な雨期と乾期があるため違う堆積物が蓄積されて美しい年縞がたまっていた。

この二つのデータと、更にいくつかの候補になるデータが揃って、1998年の国際放射性炭素会議は開かれたのです。

会議では北川データだけが、他のデータより「年代数値が若い」事が指摘されました。そして彼の水月湖のデータが非常に質の良いものであることは間違いなく認められたにも関わらず、結果不採用となったのでした。

再び開かれた2003年の国際放射性炭素会議に於いても、水月湖のデータは参考資料となり、採用されませんでした。

このままでは水月湖の年縞は、宝の持ち腐れになってしまう…
研究者達の不屈の挑戦が始まりました。


🔵 もう一度掘る

国際会議の出した結論は本当に正しかったのだろうか。
数年後、彼らはある年輪のデータの登場により、もう一度、客観的に北川データとヒューエンのデータを正確に比較する事が可能になります。

それまで信頼のおける年輪データは1万1850年前からであったが、2004年に1万2410年前からの年輪データが整備された。つまり560年分の答え合わせが可能になったのである。

中川教授達は、オックスフォード大のコンピュータで一晩中計算結果を待ち、出た答えは、カリアゴ海盆の年縞データが、より正しい数値を示していたのです。

いったい何が問題だったのか。
彼らはもう一度出発点に戻ります。

ここで表面化したのは、北川データの元になった年縞は、採掘の際、途中でわずかにちぎれた不完全な年縞だったという事実でした。

掘削の技術は、当時最高水準ではありましたが、同じ場所の同じ孔の年縞を掘り続けるなら、1メートルごとに掘り進む度に、その接点となる継ぎ目は乱れる訳です。

その継ぎ目にある数年分の年縞は、数センチずつ失われ、45mあるはずの連続した年縞の回収率は95%をやや下回っていたのでした。(1mにつき5㎝→年縞にして70年分が失われていた)

この95%という数値は消して低い回収率ではなく、むしろ掘削の技術は最高レベルである。通常のボーリング調査であるなら十分すぎる回収率であった。

次なる掘削の際は、なんとしてもこの問題を解決しなければ、意味がありませんでした。

2004年、中川毅さんは、イギリスのニューカッスル大学で教鞭を取っていました。
彼はイギリス政府に、着任から3年間だけ応募出来る新人向けの研究補助金として「水月湖の年縞研究」を申請したのです。

ところがイギリス政府は「日本の研究者のコミュニティの同意が得られていない」という理由(日本の宝に他国が勝手に手をつける事がはばかられる為)で、1度目の申請は却下されてしまいます。
2年目、彼は恩師である年縞研究のリーダー安田教授に一筆したためでもらって(実は本人が書いたらしい)2度目の申請を行います。
2005年、イギリス政府から1100万円(インフレ率も加算)の補助金をようやく手にした彼は、水月湖の2度目の掘削に挑むことになりました。

1993年と同じ方法では、年縞の取りこぼしは防ぐ事は出来ないと分かっていました。
中川さんは、掘削の位置を少しずらして数カ所で互い違いに孔(あな)を掘り進めるように工夫します。
何本かのパイプが、お互いの継ぎ目をカバーし合って、後から照合すれば連続した年縞になるように工夫したのです。

パイプの長さも前回の1mから2mに変更した。するとパイプを引き抜く際に、その真下の部分が真空状態になり年縞が大きく崩れる現象が引き起こされた。試行錯誤の末、彼らはパイプの外側に凹凸をいくつも施し、パイプの脇を水がすり抜けられる様にした事で真空問題を解決する。この他にも降水後に湖の水位が増して深度が狂うなど、沢山のトラブルを一つ一つ乗り越えて、ようやく連続したきれいな年縞を湖底から採掘したのである。

掘削を行なったのは、長崎にある西部試錐(しすい)工業でした。
本来なら、一度の採掘にかかる費用は4700万円なのを、手持ちのイギリスからの補助金のわずか1000万円で行ってくれたのです。
しかも互い違いに場所をずらして掘り進めたため、実際は4回も掘削を繰り返していました。

それは、このデータが揃った時に、全世界が受ける恩恵とその学術的価値を信じて下さった、西部試錐工業の北村社長のおかげだと中川教授はのちに述べています。

引き上げたばかりの年縞は、その場でパイプから外して、直ちにその縞模様のつぎ合わせを確認しなければなりませんでした。
しかし水月湖の周囲にはそのような施設もなく、プレハブを建てようにも予算がなく、若狭町の運動会のテントを借りて観光駐車場で猛暑の7月〜8月に研究者は汗だくで作業に当たります。
取り出した年縞を真夏に保存するための専用の冷蔵庫を買うお金もありません。
彼らは地元の漁協の冷蔵庫の隅っこに保管スペースを借りました。
こうして全てのサンプルが手元に揃ったのは2006年の事でした。


この後の経緯は、前の記事で取り上げた通りです。
まず年縞の縞模様を一枚ずつ数えるために、2カ国の違う研究者がそれぞれ別の手法で取り組みます。
結果が一致しなくても誤差としてそのまま持ち越し、他の研究グループのデータと照らし合わせ統計学的な処理を施すことでこの計数誤差のキャンセルを試みます。

オックスフォード大学のラムジー教授は、彼の大学のサーバーを2週間独占するほどの大規模な計算を実行する。
彼はその為のソフトウェアまで開発して水月湖の膨大なデータセットの年代目盛の誤差を、五万年で±169年にまで改善させた。

全ての計算の終わった2012年2月から急いで論文を準備し6月に投稿。

同年7月13日にパリのユネスコ本部で開催された、国際放射性炭素会議の総会で、ほぼ全会一致で、水月湖のデータを中心とした新しいIntCal(イントカル)がついに採用されたのでした。

北川さんの最初のデータが不採用になった時から14年。安田教授の最初の年縞発見からは21年の歳月が流れていました。

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愚直な作業には時間がかかる

とはいえ、この様な地道な研究が日本で、そして福井県の水月湖のほとりで30年前から行われてきた事を、私はこれまで知りませんでした。
「盲信」の対極にある、この「謙虚で地道な誠実さ」に私は深い尊敬と安堵の念を覚えました。 

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次回もお楽しみに…