この記事は2020年2月から8月まで掲載した一連の「元エホバの証人二世の回顧録」を再掲載したものです。
一部に、加筆、修正を行っています。
母とフランズ兄弟
私が高校を卒業した1982年のある日、それは日本支部よりの一本の電話で始まりました。
当時のものみの塔聖書冊子協会の会長、フレデリック.W.フランズと一行の関西での接待を頼めないか。という依頼でした。
これまでにも外国のベテル関係者や宣教者の親族らの京都案内を頼まれる事はよくありました。
もちろん「無償の奉仕」としてです。
まだ父の仕事が順調でなかった時も経済的に苦しかった時もどんな時も両親は精一杯のもてなしをしていました。
京都祇園の「都をどり」の青いお皿が家に何十枚もあった程です。(笑)
しかし今回は、フランズ兄弟、バリー夫妻とイズラブ兄弟。そして秘書を連れて3日間の日程で京都、姫路、大阪〔扇町プールでの特別大会〕の随行を依頼されたのでした。
日程はその後、(確か広島を経て)海老名ベテルの献堂式へと組まれていました。
海老名ベテルの建築は1979年に着工し、4年の歳月を経て1982年5月に献堂式を迎える事になっていたのです。
既に私たち家族全員(兄を含む)と母の叔母達に、ベテル宿泊付きの献堂式への招待状が届いていました。
日本への訪問の前後に、彼らは韓国ともう1カ国を訪問していると聞かされます。
その接待には
私と妹にも参加して下さいと特別にお願いされたのです。
その意味は後になって分かるのですが、当初は「なんで私たちまで行くの?」ぐらいにしか考えていませんでした。
おそらく「沢山の取り巻きに囲まれて移動する会長を、遠巻きにサポートする自発奉仕」ぐらいにしか思っていませんでした。
嬉しいというより、何をすれば良いのかわからないのに、付いていかねばならない事が緊張感を高めていました。
両親はフランズ兄弟と直接交わるのはこれで3回目で、バリー兄弟とはもっと昔から彼が日本支部の監督になる以前からの旧知の仲でしたから、そこまで驚きはしなかったとは思います。
バリー兄弟は知り合った当初は表象物に預かっておらず、のちにパンとぶどう酒に預かる天的クラスとなった時、メルバ姉妹が大変悲しみ、母はみんなで話を聞いて慰めたと話していました。
そんな事もあって両親には頼みやすかったのだと私は思っていました。
この後、色々な意味で驚いたフランズ兄弟との関わりをお伝えします。
フレデリック・W・フランズ
1893〜1992
ものみの塔聖書冊子協会4代目会長
以下Wikipediaより抜粋
歴代会長[編集]
- チャールズ・テイズ・ラッセル(1884-1916)
- ジョセフ・フランクリン・ラザフォード(1917-1942)
- ネイサン・ホーマー・ノア(1942-1977)
- フレデリック・ウィリアム・フランズ(1977-1992)
- ミルトン・ジョージ・ヘンシェル(1992-2000)
- ドン・オールデン・アダムス(2000-2016)
- Robert Ciranko (2016–)



