遅めの夏休み② | 落ちこぼれ宮仕え人のブログ

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前回に引き続き、夏休みについて書きます。

22日は、熊本に遠出してきました。ずばり熊本城を見にいきたかったので、ちょっと足を伸ばしてみました。博多駅交通センターから九州産交の高速バスに乗って、熊本交通センターまで。博多駅→天神→福岡都市高・九州道→益城→熊本のルートで、2時間ちょっとかかりました。バスを降りて、歩いて10分くらいに熊本城があります。まず目に飛び込んでくるのが、加藤清正公の像です。
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加藤清正は、戦国武将として有名です。もともと豊臣秀吉の家臣でしたが、秀吉没後は徳川家康に仕えて、関ヶ原の戦いでは、東軍として戦いました。とりわけ、羽柴秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、「賤ヶ岳の七本槍」と称され、武勲をたたえられました。しかし、この武勲のおかげで有力大名になりましたが、徳川家康から目を付けられるようになり、清正の没後、加藤家は改易され、熊本を後にしました。

加藤清正は、秀吉の朝鮮出兵の都合で、肥後国の領主となり、熊本城に入りました。その頃から、城を整備し、現在のような熊本城を築きました。清正は、城作りの名人と呼ばれています。難攻不落の要塞のようで、美しい景観を擁しています。特に、優れているのは、石垣の組み方です。日本三大名城の一つに挙げられています。(ほかの二つは、姫路城と名古屋又は大坂城です。)
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現在の熊本城は、大天守と小天守(下の写真)は戦後に建てられた鉄筋コンクリート造の建物です。天守は西南戦争において焼失していましたが、昭和35年に再建されました。

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熊本城でもっとも好きな建物が「宇土櫓」(下の写真)です。この建物は、西南戦争でも焼失せず、創建当時のままであると言われています。加藤清正の時代のものと言われていますが、資料が残っていないため、わからないとのことです。中に入ると、狭くて急な階段があって、いかにも戦争のために作られた建物であるということがわかります。特に、天守や櫓は、高くて見晴らしのいいもので、遠くを監視する役目がありました。したがって、大勢の人が出入りするものでもなく、ましてや人が生活する建物ではなったのです。時代劇では殿様が天守に上っているカットがありますが、本当はめったに天守には上らなかったようです。殿様は「本丸」という建物にいたのです。
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熊本城を一通り巡ってきました。行って気づいたことは、朝鮮人が多かったという点です。~ニムシダァって言ってました。まぁ、朝鮮人の方が常識があっていいです。シナ人は困ります。マナーを知らない民族・人種ですから。自分中心主義(中華思想)のクズどもですから、何を言ってって無駄でしょうけど。だから、尖閣諸島も沖縄も自分のものと言うんでしょうね。まったく呆れて、ものも言えません。暴戻シナに屈してはなるまいと思うのですプンプン

今日のところは以上です。また、書きます。ではパー