kontextのブログ

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言いたい事を言いたい、というブログなんですが……。
なかなか難しいですね。
どちらかというと、メンタル系だと思います。

Amebaでブログを始めよう!
 ここ数日間にわたって書いたものを、読み直しました。
 恐ろしい……恐ろしくつまらない。というか、何を言いたいのかよく分からない。
 何も表現できていない。
 干物です。こんなのは干物です。
 カサカサに乾燥した、記憶のミイラなのです。

 どう書けばいいのか。
 文章力の問題なのか、構成力の問題なのか、ネタというか事件の問題なのか。

 だめだ。独り言にすらなっていない。
 もう死にたい。

関係ないですが、年末に大英博物館に行ったら、エジプトのミイラがたくさんありました。
古代エジプトではミイラが大流行しており、人間のミイラだけでなく、動物のミイラもたくさん作られていました。
牛や猫、鷹などのほか、魚、ウナギ、小さなクロコダイルのミイラなんかもありました。
魚のミイラって、要するに魚の干物……。
小動物はどれも専用の可愛らしいケースに入っており、ファッションというか、お守りの一種だったっぽい。

 砂漠で餓死したら、ミイラっぽくなれそうです。
 問題は踏ん切りがつくかどうかです。生存本能に対して、意志の力が試されている。
 国境の地雷を踏むよりは、強情な私なら、砂丘の裏でテント張って居座るだけの餓死が適していると思う。実際、ジブラルタルを渡ってしまえば、あとは南下するだけ。バイクは墓石になるからちょうどいい。
 もう少し時間はある。
 父の脳内世界は、何かおどろおどろしいもので出来ているのです。
 強迫観念があって、常に緊張してなくてはならない、常に戦時でなくてはならない、常にサバイバルでなくてはならない、と。(彼の背景にあるものに関しては、別の記事で書きます)

 私が幼児の頃、エチオピアで大飢饉があったんです。
 新聞に、餓死寸前の子供の写真が載りました。黒人の子供。栄養失調で腹だけが異常に膨れている。蝿がたかった顔には、半開きの虚ろな目と口。まさに地獄絵図。
 父はその地獄絵図を、切り抜いた。
 私と兄の、ちょうど枕元に見える位置に貼りました。
「これを見ろ。おまえたちは恵まれている。誰のおかげか、忘れるな」
 父は、父の偉大さを教育したかったのです。
 アフリカの子供の写真を貼った初日は、この写真に向かって正座させられました。二時間だった気がする。
 でも私は、自分が恵まれているとは、ひとかけらも思いませんでした。
 生きているのか死んでいるのか分からない子供、異常に膨らんだ腹、あの目。それに、なんの落ち度もない私が折檻されている理不尽さ……。アフリカの子供と見詰め合って、恐怖と疑問だけを感じました。
 このように、父の教育はことごとく別の効果を発揮したのですが、彼はそれを知ろうともしない。知ったら、もっと激しい折檻で頭脳の底まで矯正しようとしたでしょう。

 こういった見当違いは父の基本姿勢です。
 あるとき説教の最中に、「なんだその目は!」と怒鳴られました。直後、反抗的な目をしたという罪状で、マンションの地下の自転車置き場に曳きずられていきました。
「この野郎、一人前に父に意見があるのか!俺を打ち負かしたら聞いてやる。やれ!」
 剣道の竹刀を持たされた。親子で果し合い?が始まりました。
 時代劇大河ドラマのようなことを、父は本気で考えていました。なので、こっちも本気でかかる以外にない。
 でも私は病弱な小学校二年生であり、父の竹刀で好きなだけメッタ打ちされました。
 倒れていると、
「サボるか!いい加減なヤツには、容赦しないぞ!」
 そう怒鳴られて、本当に容赦なく叩かれる。そこでまた立ち上がって、突きかからないといけないのです。
 漫画のようにピキーンと私の才能が目覚めてくれたら良かったのですが……現実は非情です。最後はうずくまった背中をバシバシ叩かれました。
 父は興奮して我を忘れており、子供を打ちのめす事を明らかに楽しんでいた。サディストだから、しかたありません。

 勉強も、看守による捕虜の洗脳のようでした。
 テストの点が悪い時など、母から連絡がいきます。すると父が、「教科書を持ってこい!」 と叫ぶ。
 ひとつ誤答したら、一発殴り、罵倒する。あるいは制限時間をオーバーしたら折檻。勉強なのか、イジメなのか、まったく分からない。緊張感でまともに考えられない。とにかく殴られないようにするのみです。
 それに加えて父の場合、単に問題に答えればよい……では終わらないのです。
 たとえば英語。同じ読み間違えを続けたら一発殴るのは当然ですが、直訳しか認められない。
「お前が意訳など百年早いんだ!バカタレが、いい気になりやがって!」
 直訳しかさせてもらえないのですが、直訳では日本語にならないのです。
 しかし、「お前にはそれで充分なんだ!」 と怒鳴る。直訳すると父は喜びました、「やっと身の程が分かってきたか」 と。頑なに、「コイツはバカだから、バカのための基本だけ叩き込む」 と考えているのです。
 ひたすら時間が過ぎ去ってくれるのを待つだけ……では済まないのです。結果を出さないとエンドレスなので、積極的に参加しなくてはいけません。恐怖のため進んで洗脳に参加する捕虜のように、私は必死で直訳します。

 私は勉強が嫌いでした。本当に大嫌いでした。絶対勉強なんかするもんか、と思っていました。反面、勉強しなくてはならないという非常に強烈な義務感がありました。勉強しない選択肢など、人間には存在しない。これが当時の「呪い」で、勉強以外の何をやっていても罪悪感しか感じないのです。そのため、自分が劣等生であるという事が、毎日、毎時間、毎分、毎秒、証明され続けるのです。
 学校の授業中は、かくれて奇妙な行動をとりました。算数の時間には社会科の教科書を読む。理科の授業では国語の教科書を、国語では算数を……といったように、いつもまったく別の教科書を読んでいました、ごく自然に。別の教科書は、ただ別だというだけで、面白いように思ったのです。もちろん成績が上がるはずもなく、無駄な雑学?が増えるだけでした。

 ある連休のことです。
 私と兄は中学校の中間試験を控え、父の監視下で勉強の日々でした。
 その日はたまたま、母親は朝から外出。昼ごろになり、父も出かけました。
「ゴルフの練習に行く。夕方帰る。サボるんじゃないぞ」
 ということは、ようやく監視の目から逃れ、息抜きができそうです。
 どうせまた明日も閉じ込められる。そこで兄と共謀して、私は篭城用のお菓子を買いに出ました。チャリンコをこいで、娑婆の空気はうまいっ!とか言いながら。30分ほどして、私が買い物から帰って来ると……
 家の前に、父がいる!玄関前の路上でゴルフの練習をしているではありませんか!なんで!?血の気が引いた。
 父の顔面は激怒に震えていた。しかし、抑えた声で言いました。
「お前らの考える事なんざ、その程度だ」
 激怒しつつも、勝ち誇っていたのです。バカなガキどもの裏をかくなど、このように簡単というわけです。父の支配力の誇示のために、わざわざそんな計略を講じたと思うと、私は絶望的な気持ちになりました。
 でも父は慢心したのか、折檻はありませんでした。買った物をすべて没収され、再び部屋に閉じ込められました。

 父のセリフの「お前」を、ひどい表現で申し訳ないですが「ユダ公」とか「非国民」と置き換えても、全然違和感がない。キャラ的に。

 父のようなスパルタ教育を、「これだ!」と喜ぶ人はいるでしょう。子供の性格によっては、適している場合もゼロではないかも知れません。
 ですが、適不適を見抜けなかった場合、次のような結末を覚悟すべきです。
 確か小学校六年生か、中学一年生だったと思います。学校で配られたプリントで、アンケートがありました。家に持って帰って、親と一緒に書かないといけないものです。
 アンケートに、「尊敬する人は誰ですか」 という項目がありました。
 困った事に、私にはまだ尊敬する人がいなかった。それどころか、「尊敬ってどういう意味だよ!どういうレベルから尊敬って言えるんだよ!」 と、国語的に悩むバカっぷり。頭脳の中に、尊敬という概念がなかった。私は脳の発育が遅かったんです。
 でも、何か書かなきゃいけないので、その頃好んでいた小説家の星新一さんの名前を書きました。
 すると!お待ちかねの大激怒です。
「誰だこれは!こんなのが、お前の尊敬する者なのか!情けない!まったく嘆かわしい!他にいないのか!言え!言ってみろ!」
 机と紙をバンバン叩いて、怒鳴り散らす。「こんなの」って、ひどくないですか?きっと戦国武将の名前でも言っておけば良かったのでしょう、本当に失敗した!と思った。
 著わした書物の内容ではなく、その本人の生き様をお手本にしたいという人物、それが尊敬する人なのだと父は怒鳴りました。やっと私は、さっきの国語的な悩みが解消された気がした。そして、では誰を「お手本」にするのか?新たな悩みが発生しました。
 しかし、ここで母親登場し、予想外の展開を迎えます。
「お父さんです、と言ってみたら?少しはお父さんを喜ばせてあげても」
 ……お母さん、それは演技指導でしょうか。
 私は硬直した。父は、初めから選択肢に入ってなかったのです。だって父のイメージは、ナチスの猟犬か、収容所の看守なんですよ。尊敬とか……どう結びつけていいか分からず、私は混乱しました。
「誰が食わせてやってると思ってんだ!」 と、毎日のように怒鳴って、殴ってばかりいる父です。食わせてもらっているという意味では、もちろん感謝すべき道理ですが…… しかし……感謝を強要すればするほど、素直に感謝の気持ちなど起こらないのが心理です。自分で作った子供のくせに、そんなにイヤなら、捨てるなり殺すなり施設にでも預けろよ……と思ってしまうのです。なんと言っても、すでに彼は一人抹殺しているのですから。(そのことは、別の記事で書きます)
 尊敬する人は父です、と言え。私は不気味な馴れ合いに加担できない。散々に殴り、罵倒し、全裸で放置させておきながら、尊敬?子供にお世辞を強要するのか?そうまでしてガキに尊敬されたいのか?あからさまな嘘で喜べるバカって、有り得るのか?見慣れた人の中に未知なる人格を見て、寒気がしました。
 私は、絶対に言うものか!と心に誓いました。たぶん殴られる、と歯を食いしばって来るべき瞬間に備えた。殴られる方がマシなのです。言ったら自分がダメになる気がしたのです。
 緊張感みなぎる沈黙の後、父は憤懣やるかたないといった調子で、「もういい!」 とあきらめました。

 この「尊敬する人事件」を境に、私の不服従が多くなり、比例して折檻が激化しました。生意気なガキの心をへし折ることが教育の目的になり、本当に捕虜収容所のようになっていった。
 そのことに、誰も異を唱えなかった。兄は完全に対象からはずされ、私というターゲットが完成したのです。

 父のスパルタ式について、戦国時代なら当たり前とか、タカ派の意見もあるでしょう。
 しかし、それならば、虐げられ恨みを抱いた者が食事に毒を盛る、寝首をかく、敵と共謀する、という事も覚悟すべきです。実際、私は何度も考えた。父親を抹殺することを、具体的に計画しました。父の単身赴任を機に、実行しないで済むようになったのですが……。
 子殺しを正当化するとき、親殺しも正当化される。逆もまた然り、です。
 私と父は、本当は殺し合いすべきでした。手段を問わず。

 殺し合いを避けるなら、こんな家の場合は、むしろこの言葉に従うべきでした。

「もはや愛せざるときは、そを通過せよ」



 また何か書きます。
 私にとって父のイメージキャラクターは、ナチスの猟犬であり、捕虜収容所の看守でした。監視、罵倒、尋問、折檻といった父の得意技。それでいて世間体は良かった。
 猟犬サイドと、看守サイドの両面から記述しようと思います。

 私が 「サンタ狩り」 と呼んでいる事件があります。
 ある日、父は急にクリスマスを憎むようになったのです。
 その年のクリスマス直前、「今年からクリスマスは止めだ!」 と一声吼えました。以降、我が家からクリスマスは消えた。
 クリスマス中止の理由は、「お前らも、もうそんな年齢じゃないだろうが!」 との事です。私は小学校三年生でした。
 まさに「狩り」。ツリーやお飾りをかき集めてゴミに出すオペレーションが、唐突に開始しました。
 私たちを尋問し、クリスマスグッズのありかを聞き出す。母親も動員して、血眼になって自宅を家宅捜索しました。見つけ次第、没収、廃棄。没収、廃棄。
 本当に意味が分からない。
「これで全部かっ!まだあるんじゃないのか!」
 こうなると、特に大切にしていたわけでもない小さなサンタの飾りなんかが、とても重要なものに思えて、思わずポケットに隠してしまうのです。しかし父の捜査に例外はありません。
「おい、隠してないだろうな」
 ガキの浅知恵などお見通しなのです。凄まれたら、出さないわけにはいきません。
 その行動は、まさにナチスの猟犬でした。どこから秘密指令を受けていたのか、母でさえ知りません。

 楽しみ=幸福=軟弱と決め付けて、敵視していたフシがあります。
 まだ私が純真だったころ、小学校二年くらいだったと思いますが、父の誕生日にプレゼントしたんですね、ハンカチを。最近の子供のようにたっぷりお小遣いをもらってなどいません。コツコツ貯めた小銭で買ったのです。その日はご馳走でした。
 ですがプレゼントした二分後、まったく無関係な些細なことで、父は激怒。怒鳴り散らす。食事抜きだ、正座だと、いつもの折檻コース。珍しく母が父をなだめに入ったのは、やはり誕生日という特殊な事情によるのでしょうか。
 その事件が発生するまで、私は、誕生日や父の日、母の日には自主的にプレゼントしていました。でもイヤになってしまいました。そうすると、母がしつこく 「家族愛」とやらを説いてくるようになりました。このため、しばらくは半強制的な形でプレゼントの儀式は継続したのです。
 でも、だんだん立ち消えになります。お祝い事を否定する者に、お祝いをして何になるのか。
 長じて私は「買収」という言葉を学びました。つまり、あのとき私は父の「買収」に失敗したのだと、そう考えても合点がいきます。父は、「ご機嫌取りも、買収もムダだ。ガキが小賢しい真似しやがって」 と言いたかったのではないか。
 真相は誰も知りません。

 サンタ狩りのように、見せしめとして物を捨てられるのは、非常に辛かったです。
 あるとき私は、お笑い小説を読んで、くすくす笑ってたんですね。これに腹を立てた受験生の長男様が、勉強に集中できないと申し立てた。
 父は激怒。
 なぜか家の階段を降りたところで、それは行われました。
 私の本を取り上げて、「お兄様の受験に協力しないのか!」 と怒鳴る。
「こんなくだらんモノは、いらないだろう! いりません、と言え!」
 叫びながら父は本を投げ、床に叩きつけ、踏みにじった。「そんなものは、いりません」 と私に言わせようとして、躍起になりました。
 私が言えずに泣き出すと、本の綴じ目から真っ二つに裂いた。
 何度もブチブチと千切り、放り投げる。千切っては投げ。こうしてやる!ほら、いらないだろう!と、見えない何かに復讐するように、徹底的に本を破壊した。
 父の顔は怒りに歪んでいましたが、どこか楽しそうでもあった。忘我するほど興奮しているのです。今なら分かりますが、サディストなんですね、父は。
「次に兄の邪魔をしたら、ただじゃ済まさんぞ」
 さっきまで読んで笑っていたはずの、かつて本だった紙くずが、バラ撒かれた。
「掃除しろ」
 私は自分で掃除させられ、自分でゴミ箱に捨てました。

 ところで私はレゴブロックが好きでした。いや、好きというか、ほとんど逃避してたんですね、この遊びに。
 知能の発達が遅かったのか、中学生になってもやめない私を、もちろん父が許すはずもない。
 猟犬的な才能を発揮し、私を尋問して徹底的に家宅捜索し、かき集め、私の目の前でゴミ捨て場に出しました。

 兄もまた、父に物を破壊されていました。
 兄は手癖が悪く、よく私の貯金を盗んでいましたが、親の金まで盗んでいたようです。あの凶暴な親からよく盗む気になるよなぁ……ってのは置いといて。
 そうやって貯めた金で、趣味のカメラの望遠レンズを密かに購入していた。
 これが嗅ぎつけられ、没収されたのです。
 父は庭に出て、兄の望遠レンズを、狂ったように何度も石に叩きつけた。割れる音と飛び散るレンズの破片。イヤなものを見た。いちおう、私は親切にも兄に教えてやりました。レンズ割られてるよ、と。兄は、「知ってる」 とだけ言いました。

 こんな風にして、常に父は獲物を追い求め、噛み殺していました。
 何が彼をそうさせるのか……ハッキリした事は分かりません。
 父は、タクシーに乗車していたときに追突事故に遭い、むち打ち症になったことがあります。確かにその時期から暴力のグレードは上がり、折檻の理由はただの言いがかりになりました。(その下地は以前から充分すぎるほどあったのですが……)
 事故が原因だから我慢しろと、母は事あるごとに私たちを諭しました。
 もちろん受け入れられません。
 私は家を出てから、二十代の初めから半ばにかけて、都内でバイク便をしていました。危険な仕事で、出来高制のため、金のため、無茶ばかりしていました。 死と隣り合わせのスリルが快感で、失敗して死んでもいいやと思っていたのです。しかも暴走するほどお金がもらえる。私は仕事に熱中しました。
 このとき、単独、自損のほかに、幅寄せで潰される、ワゴン車の横腹に突っ込む、左折巻き込みなど、大小あわせて、多い年には、年間14回の交通事故を経 験しました。骨折などはありましたが、走りかたが狂ってたこと以外は後遺症もありませんでした。仕事以外でも、骨を4本同時に骨折する事故に遭いました が、性格が凶暴になどならない。
 車に座ってて、むち打ち症?
 それで凶暴になっただと……?

 次は、収容所の看守としての父について書きます。