契約しているケーブルテレビの作業員が機器の回収にみえた。テレビの後ろはほこりだらけ。お恥ずかしい限り。『あっごめんなさいね。テレビの後ろはもう何ヶ月も拭いてないの。そこは未知の世界にしているの。ごめんな』と言いました。作業員のお兄さんは『いいですよ~』と軽く言ってくださいました。
穴があっても入れないけど穴があったら入りたかった!まあいいか~しゃあないなあ!とまたここでいつもの口癖。楽天的な私。お気楽な私。
空が高くどこまでも青空が続く・・ベランダに出て洗濯物を干す。足元に太陽が差し暖かい!洗濯物を干せるしあわせ・・遠くの景色を見渡せるしあわせ。小さな何気ないしあわせに気付くこと
今日一日に感謝すること。誰かに愛されていること。愛する人達がいること。今、自分がここにいるということ。
小さなしあわせは大きなしあわせの 何倍も何倍もしあわせを運んできてくれる。
からだは不自由だけど
こころは自由だから、
わたしは、これからも、わかっているようでわかっていないほんとうの自分探しの旅をつづける。
今日、目覚め起き上がり立ち上がれたことに感謝
午後からも元気にいきます。
2500年前、お釈迦様は「人間の 苦 とは、思いどおりにならないこと」と見抜かれたそうです。

苦の本質は、「最初に “思い”ありき」で、「思い」がなければ、「思いどおりにならない」ことがなくなる。「思い」が強ければ強いほど、人間の生活は苦しく辛くなる。
「思いどおりにしたい」のに「思いどおりにならないこと」が「苦」だからで。「思いどおりにしたい」というのを「執着」といい、「思いどおりにする」のではなく「受け入れる」。これを「悟り」と呼ぶそうです。そして受け入れることができれば、楽になるらしい。
そしてまた、
幸せとは「手に入れるもの」ではなく「感じるもの」と言っている人がいて、
「感じること」「気づくこと」、「感じた」人、「気づいた」人にのみ帰属して「幸せ」が生まれる。 私達は、幼いころから「足りないものをリストアップし、それを手に入れること」を教え込まれてきて、それを手に入れたらはじめて「幸せ」であり、手に入れなければずっと「不幸」のようにと、教えられてきたところがあり…
でも、今朝も自然に目覚めたこと、食べることができた、飲むことができた、トイレも行けた、歩けた、目が見えた、音が聞こえた、寒さが感じられた、自分自身で呼吸できた、多数の人と同じように目が二つあること、耳が二つあること、鼻の穴が二つあること、口が一つあること…数えていったらキリがない。
こういったことがすべて「幸せ」なのだと思う。私が「感じた」ものが「幸せ」なんだと言っておられます。