「神の前にひれ伏し、神を拝むー死後、愛する者との再会はあるのか」

               ヨシュア記五章一三ー一五節
               ヨハネ黙示録二一章一ー五節


 キリスト教の葬儀で、死者との最後の別れは、火葬場に死者を送る時です。ある時、ある牧師が突然賛美歌を歌い出しました。賛美歌の405番「神と共にいまして、行く道を守り、あめの御糧もて、力を与えませ。また会う日まで、また会う日もまで、神の守り、汝が身を離れざれ」と歌いだし、みんなもそれに併せて、歌い出しました。キリスト教葬儀のなかで、もっとも感動的な慰めの場面であるかもしれません。

  「また会う日まで」と死者に向かって歌う。しかし、本当に死後、愛する者との再会はあるのだろうか。

 聖書のどこを捜してもそんなことを約束しているところはないのです。愛する者との再会があるならば、憎んでいる人、あるいは、憎まれている人との再会もある筈です。しかし、われわれはそんなことは考えようともしない。ずいぶん身勝手な思いではないか。

 聖書のどこを捜しても、死後、愛する者との再会の約束や期待を促す箇所はないのです。賛美歌にはあります。たとえば、第一編の四八九番などは、「やがて会いなん、めでにしものと、やがて会いなん」と繰り返し歌われております。
 あるいは、四○五番の四節などであります。それは賛美歌であって、聖書的根拠はないのです。

 ヨハネ黙示録二一章には、ある意味ではわれわれの死後の世界が描かれております。そこには一言も愛する者との再会などには言及されていないのです。
 そこでは「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」(ヨハネ黙示録二一章一ー)と言われているだけで、神とお会いすると約束されているだけで、すでに死んだ愛する人との再会などということは一切言及されていない。

 パウロは、われわれは、終末のときは、「顔と顔とを合わせて見ることになる」と書いております。誰と会うのか、神様と会うのです。 リビングバイブルでは、「面と向かって、神様の完全な姿を見るのです」と訳されております。(コリント第一 一三章一二節)

 聖書には、死後、愛する者との再会など関心をもっていない。神がすべてにあって、すべてとなってくださるというところに、喜びと救いを見ているのです。。

 ヨブが死後望んだ事は、「わたしを贖うかたは生きておられ、ついには、塵の上に立たれる。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見る」(ヨブ記一九章二六ー二七節)ということであって、愛する家族との再会など一つも望んでいないのです。

 ただ一カ所、死後、愛する者との再会を望んでいる箇所があります。それはダビデが息子が死んだことを知った時に、こう言っている。「わたしはいずれあの子のところに行く」と言っています。しかし、これはダビデの願望にすぎない、神の約束ではないのです。

 わたしも現役ときには、葬儀のときには、とくに、幼い子を亡くした親に対しては、死後の再会を否定するようなことは口にだしてはいえなかった。子を亡くした親にとっては、神とお会いすることなどではなく、愛する子との再会だからであります。

 テレビでときどき、結婚式の場面で、外国の神父とか牧師が司式をする場面で、牧師が新郎新婦にこう誓約をせまるところがあります。「あなたはその健やかなときにも、病むときにも、この人を愛し、敬い、この人を慰め、この人を助け、死があなたがたを分かつときまで、堅く節操を守ることを約束しますか」と誓約させるのです。
 わたしはあるとき、この場面で、「おやっ」と思ったのです。「死があなたがたを分かつときまで」という誓いの言葉です。
 これは少し日本人には合わないと思ったのです。どういうことかといいますと、日本人の感覚では、たとえ、死が夫婦の絆を切り離そうとしても、もしそこに愛があるなば、死もふたりの愛の絆を断つはことはないと思うのではないか。「死があなたがをわかつときまでは、節操を守れ」という誓いの言葉は、日本人にはなじめない気がしたのです。死んだらもう節操をまもらなくてもいいのか、死んだら、もう愛の絆は断たれるのかと思ってしまうのです。

 そして改めて、式文を取り出してみましたら、われわれの用いる日本キリスト教団の式文には、「死があなたがたを分かつときまで」という言葉はないのです。その代わりかもしれませんが「いのちの限り、堅く節操を守ることを誓いますか」になっているのです。
 これは面白いところです。われわれ日本人の感覚では、死ですら夫婦の愛の絆を切り離せない、死後を超えて愛の絆は続くと考えている、だから、日本人は、無理心中ということが行われるのでないかと思います。おそらく、外国には、無理心中というようなことは誰も思いつかないのではないかと思うのです。死後の再会など考えていないからであります。

  われわれはどうして死後愛する者との再会を望むのだろうか。それはいうまでもなく、その人を深く愛しているからであります。その人を愛してやまないからであります。死んだ我が子を、死んだ親を、死んだ連れ合いを深く深く愛しているからであります。
 
 愛は、ひとりの人、あるいは、ある特定の人を愛することによってしか、その愛の深さをあらわすことができないからではないかと思います。この人だけを愛するという愛しかたによってしか、深い愛は示されないからだと思います。
 神はそういう愛しかたをお許しになり、いや、そういう愛しかたをわれわれに教えることによって、われわれに愛を教えようとしたのであります。
 そうでなければ、一夫一婦制というものは、なりたたないと思います。どの人をも同じように愛するということでは、一夫一婦制も、家族もなりたたないと思います。

 ユダヤ教でも、もちろん、われわれキリスト教でも神はわれわれに一夫一婦制を命ぜられているのであります。一夫多妻制を許そうとはされなかったのであります。ですから、聖書では、姦淫というものを絶対的な罪として示しているのであります。

 愛は、この人だけを愛するという愛し方で、愛の深さをあらわすことができるのであります。

 イエスがご自分の死を覚悟していたときに、ひとりの女が高価な香油をイエスに注いだ。そのとき主イエスはこの女の行為をどんなに喜んだか。弟子たちは、なぜこんなことをするのか。その香油を売って貧しい人たちに施せばいいのにと非難した。その時イエスはこういわれたのであります。
 「なぜこの人を困らせるのか。わたしによいことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときによいことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできる限るのことをしたのだ」といわれて、イエスはこの女の愛を喜ばれたのであります。
 イエスは、死を前にしたイエスは、この女の愛を喜ばれたのであります。貧しい多くの人を愛する愛よりも、ただひとりイエスだけを愛するというこの女の愛を喜ばれたのであります。

 愛は、すべての貧しいひとを愛するというでは、慈善事業に終わってしまって、それは愛ではなくなってしまうのであります。この人だけを愛する、この時のこのイエスだけを愛するというこの女の行為に、イエスは深い愛を感じて喜ばれたのであります。

 愛はいつも、この人だけを愛するという形でしかその深さを示すことができないのであります。その深い愛を示すことができる人がまた多くの貧しい人を豊かに愛することができるのではないかと思います。

  われわれの信じている神は、唯一の神であります。ただ一人の神であります。このかたを信じ、このかただけを信じなさいと、神はわれわれに命じておられるのであります。他の神々を信じたり、敬ったりしてはならないというのです。わたしは妬みの神だから、他の神々を拝むなというのです。
 
 ただ一人の神、このかたを信じ、このかたに従っていくことによって、われわれは愛というもの、愛の深さを知ることができるのであります。

 そのような愛しかたをしているわれわれが、愛する者を失ったときに、死後、愛する者との再会を期待し、望むことは、しごく当然のことであるかもしれません。

 しかし、聖書には、なぜか死後、愛する者との再会をわれわれに期待させるようなことはしないのです。その約束をしている箇所はどこにもないのです。

 聖書は、死は、われわれのそうした人間の愛の絆を断ち切るのだと教えているのであります。

 パウロは、死が切り離すことができないのは、人間どうしの愛ではなく、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを切り離すことはできない」と、ありますように、死が切り離すことができないのは、イエス・キリストによって示された神の愛だけであります。

 主イエスは、復活をこの世のしがらみをそのまま持ち出した人に対して「この世の子らはめとったり、嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活する人々は、めとることも、嫁ぐこともない。この人たちはもはや、死ぬことない。天使に等しい者である」(ルカ二十章二七節以下)といって、この世の人間関係を死後の世界に持ち出すことを戒めているのであります。


 神は、なぜわれわれに、死後、愛する者との再会を期待させたり、その約束をなさらないのか。
 それはわれわれの人間どうしの愛のなかに潜んでいる罪の姿を知っているからではないか。

 家族の愛、あるいは、夫婦の愛の絆は、確かに美しいものかもしれない。しかしその家族愛は、やがて自分の家族だけを愛する愛に転落してしまうのではないか。自分の家族の一員が少しでも傷つけられたとき、われわれは黙っていない。復讐に心が燃えるのではないか。

 日本の国を愛するわれわれの愛国心は、やがて、日本の国だけを愛する愛に転落して、そしてそれはどんな悲惨な結果になったかをわれわれはいやというほど経験してきたではないか。

 イスラエルが自分の国を愛する愛は、やがて、自分の国だけを愛する愛に転落し、少しでも自分の国に害を加えるものに対しては、その何十倍の攻撃をしているのであります。「歯には歯」どころのことではなく、七倍、七十倍の復讐の連鎖をうみだしているのであります。それが現在のイスラエルの姿ではないか。

 人間どうしの愛、その絆のなかにどんなに深く罪が潜んでいるか。

 主イエスはそのことをご存知でこういわれたのであります。「私よりも父母を愛するものは、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛するものも、わたしにふさわしくない」。
 イエスは家族愛のなかにひそんでいるエゴイズム、その自己中心的な罪の姿を見抜いているのであります。

  それでは、われわれがただ一人の神のみを愛するときに、そこに同じようなことが起こらないのか。たしかに、旧約聖書を読んでいるときに、神は、自分以外の神を拝む者に対して厳しく裁かれることが書かれております。そのために、旧約聖書を読んでいれば、いやというほど他の神々を拝む者に対する裁き、まるで神が復讐するかのように裁かれることが記されております。

 この世界には、自分の信じている神をめぐっての宗教戦争というものが、絶えないのであります。そのために、しばしば聞かれるのは、だから唯一神の信仰の宗教は危険だといわれるのであります。日本のように多神教のほうが平和だといわれるのです。しかし、その日本が同じようにひどい戦争を引き起こしているのであります。多神教の民族のほうが平和をもたらすなどとは到底いえないことはあきらかであります。

 しかし、われわれが信じるこの唯一の神は、われわれを愛するために、われわれを救うために、ご自分のひとり子を十字架につけて、殺すことした神、つまりご自分を犠牲にしてわれわれを愛したかたであります。
「神はひとり子を賜ったほどにこの世を愛された」という神であります。この世を愛されたというのです。ただイスラエルの国だけでなく、「この世」を愛されたというのです。

 だら安心して、われわれは、主イエスキリストの父なる神を信じ、この神を崇め、従うことができるのであります。このかただけを愛することによって、愛を学ぶことができるのであります。この唯一の神だけを愛することによって、多くの人々、他の民族のひと、他の宗教を信じている人をも受け入れ、愛することができるのであります。なぜなら、このわれわれが信じている唯一の神は、ひとり子のイエス・キリストをたまわったほどに、この世、すべての人を愛されたかただからであります。
 
 旧約聖書のヨシュア記五章一三に、こういう記事があります。モーセが死んで次の指導者になるヨシュアがエリコの地にいたときに、そこに抜き身の剣を手にした男が彼の前にたった。ヨシュアはその男が抜き身の剣をもっていたので、すかさず「あなたはわたしの味方か敵か」と尋ねました。すると彼は、それにはなにも直接こたえずに、こういうのです。「いや、わたしは主の軍の将軍だ」と答えるのです。それでヨシュアは、地にひれ伏し、「わが主は、この僕になにを告げようとするのですか」と尋ねました。すると主の軍勢の将はヨシュアにこういうのです。「お前の足から履き物を脱げ、お前の立っているところは、聖なるところだ」と告げるのです。ヨシュアはその通りにした。
 ヨシュアがこれから、あのかたくなな民を率いて、敵と戦い、約束の地に、向かうときに、まずしなくてはならないことは、今までお前を支えているかに見えた履き物を脱ぎ捨てよ、というのです。この世のしがらみを捨てよ、そうして聖なる神の前にひれ伏せと命ぜられたてのであります。

 わたしは、大変衝撃的な思いをしたパンフレットがあります。それは以前吉祥寺教会の牧師をしていた竹森満佐一の書いた「礼拝」というパンフレットであります。
 それは東京神学大学が出版しているものなのですが、そのなかで、竹森満佐一牧師がこう書いていたのです。

 「われわれにとって大事なことは、神を礼拝をすることだ、神を崇めることだ、しかし、礼拝とか崇めるというのでは、十分ではない。それは神を拝むことだ、そういうと、異様に感じるのではないか、拝むということは、お寺とかお宮ならありそうなことだが、キリスト教では場違いという気持ちなるのではないか。現に私たちの礼拝は拝むということとは、おおよそかけ離れているように思われる。礼拝はまるで講演会のようで、いっそのこと討論会にでもしたほうがいいのではないかと言い出す人もでてきている。つまり、礼拝とはいいながら、拝むと言う気持ちは全くない。それは、神を信じるということがまるでわかっていないからだ。わたしたちの神の信じ方は、どうかすると、まるで神を信じてやっているのではないかと思われるところがある。理屈を並べて、その上でやっと神のあることを信じているのではないか」と書かれていたのであります。

 神を信じるということは、神を拝むということなのであります。そのためには、今まで自分支えて来た自己中心的な思い、自分を支えている履き物を脱ぎすてなくてはならないのであります。この地上の思いを脱ぎすてなくてはならないのであります。

 われわれは死んで天国にいくためには、この地上のしがらみを脱ぎ捨てなくてはならないのではないか。家族愛とか夫婦愛という絆を捨てなくてはならないのではないか。
  そうでないと、われわれは天国を、終末の時を、聖なる神にお会いして、その神のまえにひれ伏し、その神を崇め、その神を拝むという一番大切なことを見失ってしまうのではないか。そのことを曖昧にしてしまって、愛する家族に再会することばかりに、心がいってしまって、神様とお会いすることなどどうでもいいことになってしまわないか。
 
 死後、愛する者との再会など望む必要は、もうないのではないか。

 フォーレのレクイエムについては、前にもふれたことがあったと思います。それはとてもとても美しい曲であります。とくに日本人はこのレクイエムが好きで、自分が死んだときには、この曲を演奏してほしいと言う人が多いのです。
 しかし、この美しいレクイエムは、最初は教会では拒否されたそうです。これは教会のレクイエムにはふさわしくないと言われたそうです。なぜかというと、このレクイエムには、最後の審判、神の怒りが欠けているからであります。全くないわけではないのですが、確か一六小節しかないのです。だからこれは教会のレクイエムにはふさわしくないといって、教会では受け入れてもらえなかったそうです。
 それに対して、フォーレは、「わたしは教会が受け入れてくれなくてもかまわない、わたしは愛する母の死を悲しんでいるかたかだを慰めるためにこの曲を書いたのだ」といったそうです。
 そのレクイエムの最後は、「楽園にて、イン バラダイス」という曲であります。そこではこう歌われるのであります。
 「天使たちが、聖徒たちが、あなたを楽園に、天国に導いていってください、あの貧しいラザロと共に」と、静かに、大変美しく、切々と歌うのであります。そしてこのレクイエムは終わるのでりあます。
 ここには、あんなに愛してやまなかった母との再会など何一つ望もうとはしないのです。ただ母が天国に導かれていくことをお願いしているのであります。

 死後の世界、この世の終末は、その父なる神がすべて取り仕切ってくださる世界なのです。その世界にこの世のしがらみを持ち込む必要はないし、持ち込んではならないのであります。

 終末を告げるヨハネ黙示録二十一章にはこう記されているのです。
「新しい天と新しい地と見た。最初の天と地は去った。もはや、海もなくなった。見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神みずから人共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとく拭いとってくださる。もはや、死はなく、悲しみも、嘆きもない。先のものはすぎさったからだ」と告げているのであります。

 そうであるならば、われわれはもう古いもの、この世のしがらみを捨てて、新しい天と地を仰ぎ見ようではありませんか。
 神の前に伏し、神を仰ぎたいと思います。それは、わたしひとりで神様を仰ぐのではないのです。確かに、すでに亡くなった愛する者と一緒かもしれません。しかし、もはやもうその時には、ただただ神に顔を向けるのです。神の前にひれ伏すのです。

  このあと、賛美歌の三五五番を歌いますが、そこでは「主を仰ぎみれば、古きわれは、うつし世と共に、とくされゆき、我ならぬ我のあらわれきて、見ずやあめつちぞ、あらたまれる」と歌われているのです。「われ」を捨てて、「われ」というしがらみを捨てて、「我ならぬ我があらわれる」ことを望んで、もうこの世のしがらみを捨てて、新しい天と新しい地を待ちのぞみたいと思うのであります。ここに、われわれの希望と喜びがあるのではないか。