「人となったイエス」 ピリピ人への手紙二章一ー十一節
さきほど読んでいただきましたピリピ人への手紙の二章には、キリスト讃歌といわれているおります。それは二章の六節からのところです。ここは最新の訳では、パウロの言葉としてではなく、昔から伝えられてきた言葉として、段落を変えて、おかれています。
「キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした。このため、神はキリストを高くあげ」と訳されております。
ここで、イエスはわれわれ人間と同じ者になってくださったというのです。
イエスがわれわれと同じ人間になったということは、どういうことでしょうか。
へブル人への手紙の四章の一五節から、こう書かれております。
「この大祭司はわたしたちの弱さに同情できないかたではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同じ試練に会われたのです」と書かれています。
イエスは罪を犯さなかったというのです。それは罪の一かけらもなかったということなのか、その心のなかにいっぺんの曇りもなく、邪悪な心がひとつもない、いわば、聖人のような人だったのだろうか。
前に遠藤周作というカトリックの作家が「おばかさん」というイエスをモデルにした小説を書いたことがありましたが、その「おばかさん」は、全くのお人好しで、善人で、というような人物として描かれていたと思います。イエスもそういうまったくの善人で、聖人のような人だったのだろうか。
バッハのマタイ受難曲の冒頭の合唱で、イエスは「罪も穢れもなく、十字架につけられ」と歌うところがありますが、イエスはそのように穢れもない人間だったのだうか。
イエスが、人間なったということは、人間のなかでも、最高の人間に、罪を犯したことがなく、穢れのない、それこそ、中世の人がよく描いたような、後光がさしている聖人のような人として、この世に生まれたということなのでしょうか。
もし、そうだとしたら、そういうイエスは、われわれと無縁の人間になってしまうのではないだろうか。われわれの憧れの対象としてのイエスであったとしても、われわれの弱さを思いやることのできるとは、到底思えない、人間のなかでも、最上位に位置する人間になられたということなのでしょうか。
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確かに、罪を犯したことがなくても、罪を犯した人の弱さを思いやることはできるかもしれません。たとえば、自分の息子が人を殺してしまったというときに、その母親は自分自身は人を殺したという経験がなくても、人を殺してしまった息子の弱さを思いやることはできると思います。それは母親は息子を愛しているからです。
ある人が、「想像力のない人は、愛することなんかできない」と言っておりました。想像力というのは、イマジネーションという意味の想像力です。なにかを作り上げるという創造力とは違います。想像力というのは、相手の立場にたち、相手を思いやることのできる心です。それがなければ、相手を愛することなんかできないのです。
息子を愛している母親は、自分自身は、人を殺したことがなくても、人を殺してしまった息子の弱さを思い、その息子と同じ思いになり、罪を犯してしまった息子の弱さを思いやることはできる思います。
人を殺した経験をした人だけが、人を殺した人間の弱さを思いやることができるというわけではないと思います。逆に平気で人を殺すことをした人間、人を殺すことのできる人間は、罪に鈍感なだけで、決して人の弱さなど、人を殺してしまった人間の弱さなど思いやることなんかできるはずはないのであります。
イエスもそういう意味でわれわれ人間を深く深く愛しておりましたから、われわれ人間の弱さに同情できたことだろうと思います。
しかし、「イエスは、罪を犯さなかったが、あらゆる点でわたしたちと同様に試練に遭われた」ということはどうでしょうか。
試練にあうということは、罪を犯しそうになってしまう、そういう誘惑にさらされてしまうということではないでしょうか。
罪なかんかと無縁な人間、聖人のような人は、もともと試練なんかに会わないのではないか。
試練にあうということは、罪を犯しそうになって、それに打ち勝つということであります。
イエスが、われわれと同じ試練に遭われたということは、たとえば、イエスは「情欲をいだいて女を見るものは、心のなかで、すでに姦淫をしたのである。右の目がそのように罪を犯すなら、右の目を切って捨てよ」といわれましたが、イエスも一度は、情欲をいだいて女を見てしまった、そしてその右の目を切って捨てたいと激しく思った、そういう試練に会って、それに打ち勝って、罪を犯さなかったということなのではないか。
「イエスは情欲をいだいて、女を見たことがあるのではないか」なんてことは今わたしは教会の現役から離れて引退しているから言えるんですね。現役のときには説教のなかでこんなことはなかなか言えなかったのです。言いたくなかったのです。そんなイエスに対するイメージをもちたくなかったし、それを信徒に伝えることはできなかったのです。
イエスも情欲をいだいて女をみたことがあったのではないか。しかし、イエスはその欲情と激しく闘って、姦淫という罪を犯さなかった、それが「この大祭司は、罪を犯さなかったが、あらゆる点でわれわれと同じ試練に遭われた」ということなのではないか、だからこそ、イエスはわれわれの弱さに同情し、同情できたのではないか。
ヘブル書では、「イエスは罪を犯さなかった」とは書いてはいますが、「イエスは罪と闘わなかった」とは書いていないのです。つまり、イエスは罪と激しく闘って、それに打ち勝って、罪を犯さなかったのだ、それがイエスの地上での生きた姿だったのではないか、と思うのです。
同じヘブル書で、イエスはこの地上でこういうように生きたのだと記されているところがあります。
ヘブル人への手紙五章七節のところですが、「キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげて、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いをとをささげ」とあります。
これは、われわれ人間の罪に対する激しい憤り、深い悲しみのなかで、激しい叫びと涙をながしたということかもしれませんが、しかしそれは単なるわれわれ人間に対することだけでなく、ご自身のなかにある罪との激しい闘いのなかで、激しい叫びと涙を流したということなのではないか。「ご自分を死から救う力のかたに」というのです。「他人を死から救う力のあるかた」というのではないのです。「ご自分を死から救う力のあるかたに」祈ったというのです。
そうでなければ、どうしてイエスはあらゆる点で、われわれと同じ試練に会われたと言えるでしょうか。
イエスは宣教を開始するときに、荒れ野にいって、四十日間、昼も夜も断食をしたというのです。それはちょうど日本の禅僧のように、座禅を組んだり、あるいは山のなかにこもって荒行を行ったようなものかもしれません。
しかし、聖書はそのあと、イエスはどうしたかといいますと、「昼も夜も断食したあと、空腹になられた」と書いているのであります。「空腹になった」というのです。仏教のように修養をつんだり、荒行をつんで、仙人のようないわば聖人になったというのではなく、「空腹になった」「お腹がすいてたまらなくなった」というのです。聖書は実にリアルであります。イエスはわれわれ人間とまったく同じなのです。
パンが欲しいと切実に思ったのです。そのイエスの思いにつけ込んで、悪魔は、もしお前が神の子ならば、これらの石に命じてパンにしてみよ」と誘惑したのです。しかしイエスは自分の空腹と激しく闘って、その誘惑に負けないで、「人はパンだけで生きるのではない。神の口からでる一つ一つの言葉によって生きるのだ」といわれたのです。
これが、イエスは罪は犯さなかったが、あらゆる点でわれわれと同じ試練に遭われ、そうしてわれわれの弱さに深く同情し、同情できて、われわれのために執り成しをしてくださったということなのであります。
イエスはその罪とどのように闘われたか。
イエスはご自分の弱さと悪戦苦闘しながら、涙をながし、ただひたすら、「自分を死から救う力のあるかたに祈りと願いをささげて」、罪を犯さなかったということなのです。
われわれは自分の中にある罪と闘うときに、ただ自分の意志の力とか、禁欲するとか、そんなことだけでは到底自分のなかにある罪と闘うことはできないのです。もちろんそうした意志の力、努力、禁欲、節制するということは必要であります。しかしそれだけで、われわれは自分の中にある罪と闘うことなどできないのです。そのように闘いながら、くじけそうになり、そして実際になんどもくじけながら、そのときに激しい叫び声をあげ、涙を流しながら自分を罪という死のの中から救いだしてくださる神に祈りと願いを捧げて、罪を克服できるのであります。
イエスがわれわれ罪びとの一人として、われわれの弱さにまで、身を低くしてこの世にきてくださったのは、われわれがそのようにして、罪と戦う道を教えるために来られたのであります。
イエス・キリストは、そのように自分のなかにある罪の思い、女を見て情欲をいだいてしまう思い、空腹になられて、パンが欲しいと思ってしまう、あるいは、高いところから飛び降りて、何か奇跡を起こして大衆を導きたいという誘惑をおぼえてしまう、富と権力で民衆を導いていきたいという誘惑に駆られてしまう、そういうわれわれと同じような試練に会い、身をもってそのような試練に会い、その罪と激しく闘い、叫び声をあげ、涙を流しながら、父なる神に祈りと願いを捧げて、罪を犯さなかったのであります。
そういうイエス像を想像することは、救い主イエスを貶めることなのでしょうか。
われわれはイエスの姿を、あの中世の画家たちが描いたような後光をさしたイエス像のなかに神の子イエス、救い主イエスの姿を見ようとしていいのだろうか。
そんなイエスがどうしてわれわれと同じ試練に会われたイエスだといえるでしょうか。
福音書をみますと、イエスはただ一度、栄光に包まれた時があったことを記しております。それはいわゆる「山上の変貌」といわれている記事であります。イエスが弟子たちにご自分の十字架の死の予言を語られたあと、八日たったのち、イエスは三人の弟子たちを連れて、山に上って、祈っていた時、突然イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白になって、栄光に輝いたというのです。そのときに、モーセとエリヤが現れ、イエスと語りあっていた。
これはまさにイエスに後光がさした時であります。しかしそのとき、イエスがモーセとエリヤと語り合っていたのは、イエスがエルサレムで遂げようとする最期のことを語りあっていたのだと、ルカによる福音書は記しているのであります。
あの十字架の上でみじめに死んでいくイエスこそ、後光がさしてくる神の子イエスの姿だと福音書は語るのであります。
イザヤ書には、後のメシアを預言したといわれる「苦難のしもべ」の歌が預言されておりますが、そこでは、「この人は、見るべき面影はなく、輝かしい風格もこのもしい容姿もない」と記されているのであります。「彼は軽蔑され、人々に捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っていた」というのです。それは決して後光がさしている聖人の姿ではないのです。
われわれと同じ一人の罪人になりきった救い主の姿を預言しているのであります。
フィリピ書では、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ姿になられた。人間の姿で現れ、へりくだり、死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順であられ」と記されているのであります。
イエスは決して聖人としてこの地上の生活を送ったのではないのです。われわれの一番低いところまで、降りてきてくださって、われわれと同じ試練にあい、われわれの弱さを身をもって知ってくださったのです。だからこそ、このイエスはわれわれがどう祈っていいかわからなくなったときにも、われわれと共に苦しみ、うめきながらわれわれの祈りを父なる神にとりなしてくださるのであります。
イエスは、ゲッセマネの園で、こう祈るところがあります。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っているところがあります。
イエスはそれまで弟子達に三度にわたって、自分は十字架で殺されるんだと予告しておりながら、このときに、この期に及んで、自分を十字架につかせないでくださいと父なる神に祈っている。そのかたわらには、あの弟子のペテロもいた。ペテロは眠くてもうろうとしていたのかも知れませんが、ペテロは、このイエスの祈りの言葉をどのような思いで聞いたのだろうか。
イエスが、自分は十字架で殺されるんだと弟子達に告げたときに、ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」というのです。神の子であるメシアがそんな死に方をしてはいけないと思ったのです。そのときに、イエスはペテロになんと言ったか。「サタンよ、退け、お前は神のことをおもわないで、人間のことを思っている」といって激しくペテロを叱責しているのです。
そうしますと、この時、イエスがまさにペテロに対して「サタンよ、退け」といって叱責した、その同じことをイエスはここで父なる神に祈っているということになるわけです。この「わたしを十字架につけないでください」という訴えは、まさにサタンの思い、つまり罪の思いだとということになるのです。
イエスはここで決定的に罪を犯しそうになっているのだということなのではないか。ペテロはこのとき、このイエスの祈りの言葉をどのような思いで聞いたのだろうか。
もちろん、ペテロがメシアが十字架で殺されるなんてあってはならない、と思ったことと、イエスがこのとき「自分を十字架につけないでください」と祈ったこととは、その内容はまったく違っておりました。ペテロはただ人間的な思いで、メシアは栄光の勝利の道を歩むべきだと思ったのに対して、イエスはそんな浅はかな思いで、「十字架につけないでください」と祈ったのではないのです。
このとき、イエスは罪人のひとりになりきって、「罪ある人間が救われる道は、ほかにないのですか」と必死に神に訴え、父なる神に祈ったのであります。
父なる神の答えは、「おまえは罪人のひとりになりきって、十字架につきなさい」というものでした。罪の報酬は死だからであります。罪人に成りきるということは、十字架で処刑されるように、死ななければならないということだからであります。
イエスの必死の祈りに対して、神はなにもお答えになりませんでした。その父なる神の沈黙のなかだ、イエスは罪人のひとりになりきって十字架につくことを決意するのであります。
イエスとペテロと決定的にちがっているところは、この時イエスは最後に「しかし、わたしの願いどおりにではなく、みこころのままになさってください」と祈っているということなのです。イエスはここでペテロと決定的に違って、自分の思いと闘い、自分の罪と闘い、サタンの思いを退けて、神のみこころに従っていこうとしたということなのです。そして事実、神のみこころに従って十字架で死んだのです。
それがあの十字架の最後の祈りの言葉、「わが神、わが神、どうじてわたしをお見捨てになったのですか」という祈りの言葉になったのではないかと思うのです。
これは、ある人に言わせれば、イエスにとっては、神はもういない、父なる神に自分は見捨てられたという思いをもったということだといって、おりますが、わたしは、そうは思いません、まさにここにイエスのもっとも深い、神に対する信頼があった、神さまがおられるからこそ「わが神、わが神」と祈り、叫ぶことができたと思うのです。まさにここにイエスの父なる神に対する信頼と思いが現れた祈りだと思います。
ある人がいっていたと思うのですが、イエスは普段は、神に向かって、「アバ」と呼びかけた、「アバ」とは、子供が父親に向かって「お父さん」という呼びかける言葉だというのです。現に、ゲッセマネの園では「アバ、父よ」と呼びかけているのであります。
しかし、この十字架の上では、もはや「アバ」とは呼びかけてはいない、「わが神、わが神」と呼びかけている、これはイエスが我々罪人のひとりと同じ立場になって、父かなる神に祈っている姿だと言っていたのを思いだします。
これは確かに詩編二十二の冒頭の言葉かもしれませんが、これはこのとき、イエスは単なる詩編の言葉を朗読したのではないと思います。自ら一人の罪人になりきって、「わが神、わが神」と祈られたのだと思います。罪人であるわれわれは、とうてい「アバ」父よ」となんて、親しそうに祈ることはできないからであります。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた、イエスは、ルカによる福音書によれば、最後には「すべてを御手にゆだねます」といって、息を引き取られたのです。
「委ねる」ということは、われわれ人間側からいえば、「諦める」ということでもあります。「諦める」というのは、あまり良い響きをもたない言葉であるかもしれません。しかし、われわれ人間側からいえば、自分の行動、自分の意志を断念する、諦めるのです。
山田太一という人が言っておりましたが、今の時代大切なことは、「断念する」「諦める」ことが大事ではないか。なんでも、お金さえつめば解決する、お金さえつめば、高額な臓器移植をして病を治せる、そういう可能性を追い求めて生きればいいというのではなく、そういう可能性があっても、あるところで、それを断念する、諦めるという生き方をいることを現代の人は見失っているのではないかというのです。
「断念する」「諦める」ということは、ある状況においては、立派な信仰的決断ではないかと思います。
死を前にして、われわれは、諦める、それは立派な信仰的決断ではないか、なぜなら、われわれ信仰者にとっては、諦めるということは、神にすべてを「委ねる」ということでもあるからであります。
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イエスは最後まで「わが神、わが神」と叫ばれつつ、そして最後には、「すべてを御手に委ねます」といわれて、息をひきとるこによって、われわれに祈ることのできる神がおられ、われわれが自分の身を委ねることができる神がおられることをわれわれに示してくださったのであります。
神はこの罪人の一人になりきって死なれたイエスをどうされたのか。「見捨てられたのか」、その答えは、このイエスを神が三日後によみがえらせたという事実のなかに示されました。復活という事実が、神は罪人になりきったイエスを見捨てなかった証なのであります。そしてそれは罪人であるわれわれを見捨てないという証なのであります。
罪を犯したわれわれが、あの放蕩息子が父親のもとに帰り、「お父さん」と呼びかけたように、もう一度、われわれは、「お父さん、アバ、父よと祈ることができるようになったということであります。そのようにして、われわれの罪は赦され、神との交わりは回復されたのであります。
そして、もはや、われわれは自分の死の時にも、父かなる神に対して「アバ、父よ」と安心して祈る霊を与えられたのだパウロもわれわれに告げているのであります。
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