「人となったイエス」 ピリピ人への手紙二章一ー十一節

 さきほど読んでいただきましたピリピ人への手紙の二章には、キリスト讃歌といわれているおります、讃歌が記されております。それは二章の六節からのところです。ここは最新の訳では、パウロの言葉としてではなく、昔から伝えられてきた言葉として、段落を変えて、おかれています。
 「キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした。このため、神はキリストを高くあげ」と歌われております。
 
 ここで、イエスはわれわれ人間と同じ者になってくださったというのです。

 イエスがわれわれと同じ人間になったということは、どういうことでしょうか。
 
へブル人への手紙の二章一七節から、こう書かれております。 
「イエスは神の御前において憐れ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点において、われわれと同じようになってくださった。事実、ご自身試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けて苦しんでい人たちを助けることができる者となってくださったのだ」と書かれているのであります。また四章の一五節では、「この大祭司はわたしたちの弱さに同情できないかたではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同じ試練に会われたのです」と書かれています。

 イエスは罪を犯さなかったというのです。それは罪の一かけらもなかったということなのか、その心のなかにいっぺんの曇りもなく、邪悪な心がひとつもない、いわば、聖人のような人だったのだろうか。

 前に遠藤周作というカトリックの作家が「おばかさん」というイエスをモデルにした小説を書いたことがありましたが、その「おばかさん」は、全くのお人好しで、善人で、というような人物として描かれていたと思います。イエスもそういうまったくの善人で、聖人のような人だったのだろうか。

  バッハのマタイ受難曲の冒頭の合唱で、イエスは「罪も穢れもなく、十字架につけられ」と歌うところがありますが、イエスはそのように穢れもない人間だったのだうか。
 
 イエスが、人間なったということは、人間のなかでも、最高の人間に、罪を犯したことがなく、穢れのない、それこそ、中世の人がよく描いたような、後光がさしている聖人のような人として、この世に生まれたということなのでしょうか。

 もし、そうだとしたら、そういうイエスは、われわれと無縁の人間になってしまうのではないだろうか。われわれの憧れの対象としてのイエスであったとしても、われわれの弱さを思いやることのできるとは、到底思えない、人間のなかでも、最上位に位置する人間になられたということなのでしょうか。

  わたしは、中学生の時に、そこがキリスト教の学校だったために、そこではじめて、聖書にふれたのですが、その時に、最初に印象に残った聖書の言葉は、いわゆる山上の説教といわれるなかで、イエスが語られた言葉であります。「心の清いものは、神を見る」という言葉であります。そして次に衝撃的な言葉としてわたしを捉えた言葉は、「情欲を抱いて女を見るものは、心のなかで、すでに姦淫を犯したのである。右の目が罪を犯させるなら、えぐりだして、それを捨てなさい」という言葉でした。

 イエス・キリストというかたは、なんと心の清い人なのだろう、情欲を抱いて女を見たこともない、なんと清い人なのだろう、自分もそういう人間になりたいと思いました。
 しかし、そういうイエスは、われわれの憧れの対象の人であったとしても、そういうかたは、われわれの弱さを本当に知ることのできる人間なったと言えるのだろうか。

  イエスは試練にあって苦しまれた、とへブル書は書いているのです。
  試練に会うということはどういうことでしょうか。その前の句には、「イエスはわれわれの罪を償うために、われわれと同じように、なってくださった」と書かれているのです。

  罪なかんかと無縁な人間、聖人のような人は、もともと試練なんかに会わないし、たとえ、試練に会ったとしても、平然としてそれを乗り越えているのではないか。しかし、イエスは、試練にあって、われわれと同じように、苦しまれたのだと、へブル書は書いているのです。
 苦しまれたということは、試練にあって、罪を犯しそうになって苦しんで、そして、それに打ち勝ったということではないか。

 イエスが、われわれと同じ試練に遭われたということは、たとえば、イエスは「情欲をいだいて女を見るものは、心のなかで、すでに姦淫をしたのである」と言われたあと、イエスは、「右の目がそのように罪を犯すなら、右の目を切って捨てよ」といわれておりますが、これは実に激しい言葉であります、実に生々しい言葉であります、そういう試練に会われたということであります。

 これは、一度は、情欲を抱いて女を見てしまった人間だけが、言える言葉なのではないか。イエスも一度は、情欲をいだいて女を見てしまった、それを痛烈に恥じて、そのような目を切り捨ててしまいたいと激しく思ったということではないか。試練に会うということはそういうことではないか。
 イエスもそういう試練に会って、それに打ち勝って、罪を犯さなかったということなのではないか。

 「イエスは情欲をいだいて、女を見たことがあるのではないか」なんてことは今わたしは教会の現役から離れて引退しているから言えるんですね。現役のときには説教のなかでこんなことはなかなか言えなかったのです。言いたくなかったのです。そんなイエスに対するイメージをもちたくなかったし、それを教会員に伝えることはできなかったのです。

 しかし、へブル書が描くイエス像は、われわれと同じ試練に会われたのだ、だからわれわれの弱さを知って、われわれに同情し、われわれをとりなし、われわれを助けることができる大祭司となってくださったのだと記すのであります。

 ヘブル書では、「イエスは罪を犯さなかった」とは書いてはいますが、「イエスは罪と闘わなかった」とは書いていないのです。つまり、イエスは罪と激しく闘って、それに打ち勝って、罪を犯さなかったのだ、それがイエスの地上での生きた姿だったのではないか、と思うのです。

 同じヘブル書で、イエスはこの地上でこういうように生きたのだと記されているところがあります。
 ヘブル人への手紙五章七節のところですが、「キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげて、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いをとをささげ」とあります。

 これは、イエスが、われわれ人間の罪に対する激しい憤り、深い悲しみのなかで、激しい叫びと涙をながしたということかもしれませんが、しかしそれは単なるわれわれ人間に対することだけでなく、ご自身のなかにある罪との激しい闘いのなかで、激しい叫びと涙を流したということなのではないか。「ご自分を死から救う力のかたに」というのです。「他人を死から救う力のあるかた」というのではないのです。「ご自分を死から救う力のあるかたに」祈ったというのです。

 そうでなければ、どうしてイエスはあらゆる点で、われわれと同じ試練に会われたと言えるでしょうか。

  イエスは宣教を開始するときに、荒れ野にいって、四十日間、昼も夜も断食をしたというのです。それはちょうど日本の禅僧のように、座禅を組んだり、あるいは山のなかにこもって荒行を行ったようなものかもしれません。

 しかし、聖書はそのあと、イエスはどうしたかといいますと、「昼も夜も断食したあと、空腹になられた」と書いているのであります。「空腹になった」というのです。仏教のように修養をつんだり、荒行をつんで、仙人のようないわば聖人になったというのではなく、「空腹になった」「お腹がすいてたまらなくなった」というのです。聖書は実にリアルであります。イエスはわれわれ人間とまったく同じなのです。

  パンが欲しいと切実に思ったのです。そのイエスの思いにつけ込んで、悪魔は、もしお前が神の子ならば、これらの石に命じてパンにしてみよ」と誘惑したのです。しかしイエスは自分の空腹と激しく闘って、その誘惑に負けないで、「人はパンだけで生きるのではない。神の口からでる一つ一つの言葉によって生きるのだ」といわれたのです。

 これが、イエスは罪は犯さなかったが、あらゆる点でわれわれと同じ試練に遭われ、そうしてわれわれの弱さに深く同情し、同情できて、われわれのために執り成しをしてくださったということなのであります。
 
 イエスはその罪とどのように闘われたか。
 イエスはご自分の弱さと悪戦苦闘しながら、涙をながし、ただひたすら、「自分を死から救う力のあるかたに祈りと願いをささげて」、罪を犯さなかったということなのです。

  われわれは自分の中にある罪と闘うときに、ただ自分の意志の力とか、禁欲するとか、そんなことだけでは到底自分のなかにある罪と闘うことはできないのです。もちろんそうした意志の力、努力、禁欲、節制するということは必要であります。しかしそれだけで、われわれは自分の中にある罪と闘うことなどできないのです。そのように闘いながら、くじけそうになり、そして実際になんどもくじけながら、そのときに激しい叫び声をあげ、涙を流しながら自分を罪という死のの中から救いだしてくださる神に祈りと願いを捧げて、罪を克服できるのであります。

 イエスの語ったたとえ話にこういう話があります。汚れた霊がある人から出ていった。ゆく場所がないので、もとの家にもどったら、そこは空き屋になっており、掃除がされていて、きれいになっていた。そこで悪霊は、自分よりもさらに悪い霊をつれてきて、そこに住み着いたというのです。そしてイエスは、その人の部屋は、前の部屋よりももっと悪くなっている、というのであります。
 これは律法学者の偽善を皮肉った、たとえであります。律法学者、パリサイ人は、一生懸命律法を守り、自分は自分の力で自分を清くしたと思っている、しかしそれは、外面だけ整え、きれいにしただけで、自分を誇るだけの姿に陥っているのだ、それは前の状態よりももっと悪い状態だと言っているのであります。

 このたとえは、マタイとルカにありますが、マタイのほうには、゜掃除がされていて、きれいになっていた、しかし、そこは「空きや」になっているといっております。つまり、そこには、神は不在だというのです、イエスは不在だ、ただただ、自分の自我だけがある、というのであります。
 
 それはまたパウロが体験したことを語っています。「罪がその正体を現すために、善いものを通して、わたしに死をもたらすのだ。良いこをしようとすれば、するほど、そこに悪が入り込んで、自分を死においやるのだ、ああ、自分はなんと惨めな人間だろう。この死に定められた体から誰が救ってくれるであろうか、と嘆くのでありす。そしていきなりその後、パウロは「イエス・キリストを通して、神に感謝する」いうのであります。つまり、イエス・キリストのことを思い出したときに、もう「空きやではなくなった」というのです。

 イエスご自身が自分のなかにある罪を思うときに、「自分のなかにある弱さと戦い、激しい叫び声をあげ、涙をながしながら、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いをささげた」のであります。そのことを我々に教えてくださったのであります。

 イエスがわれわれ罪びとの一人として、われわれの弱さにまで、身を低くしてこの世にきてくださったのは、われわれがそのようにして、罪と戦う道を教えるために来られたのであります。

  イエス・キリストは、そのように自分のなかにある罪の思い、女を見て情欲をいだいてしまう思い、空腹になられて、パンが欲しいと思ってしまう、あるいは、高いところから飛び降りて、何か奇跡を起こして大衆を導きたいという誘惑をおぼえてしまう、富と権力で民衆を導いていきたいという誘惑に駆られてしまう、そういうわれわれと同じような試練に会い、身をもってそのような試練に会い、その罪と激しく闘い、叫び声をあげ、涙を流しながら、父なる神に祈りと願いを捧げて、罪を犯さなかったのであります。

 そういうイエス像を想像することは、救い主イエスを貶めることなのでしょうか。

 われわれはイエスの姿を、あの中世の画家たちが描いたような後光をさしたイエス像のなかに神の子イエス、救い主イエスの姿を見ようとしていいのだろうか。
そんなイエスがどうしてわれわれと同じ試練に会われたイエスだといえるでしょうか。

 福音書をみますと、イエスはただ一度、栄光に包まれた時があったことを記しております。それはいわゆる「山上の変貌」といわれている記事であります。イエスが弟子たちにご自分の十字架の死の予言を語られたあと、八日たったのち、イエスは三人の弟子たちを連れて、山に上って、祈っていた時、突然イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白になって、栄光に輝いたというのです。そのときに、モーセとエリヤが現れ、イエスと語りあっていた。
 これはまさにイエスに後光がさした時であります。しかしそのとき、イエスがモーセとエリヤと語り合っていたのは、イエスがエルサレムで遂げようとする最期のことを語りあっていたのだと、ルカによる福音書は記しているのであります。
 あの十字架の上でみじめに死んでいくイエスこそ、後光がさしてくる神の子イエスの姿だと福音書は語るのであります。

 イザヤ書には、後のメシアを預言したといわれる「苦難のしもべ」の歌が預言されておりますが、そこでは、「この人は、見るべき面影はなく、輝かしい風格もこのもしい容姿もない」と記されているのであります。「彼は軽蔑され、人々に捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っていた」というのです。それは決して後光がさしている聖人の姿ではないのです。

 われわれと同じ一人の罪人になりきった救い主の姿を預言しているのであります。イエスは、イザヤ書は
このかたを「罪人のひとりに数えられたのだ」と記すのです。「聖人の一人に数えられた」のではないのです。

 イエスは、死ぬ間際に、罪を犯しそうになったことがあります。それは、ゲッセマネの薗で祈ったときです。ここでイエスはこう祈ってするのです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っているときであります。」

  これは、イエスが、弟子たちに、ご自分が十字架で殺されるのだと告げたときに、ペテロが「そんなことがあってはなりません」と、言った、その時、イエスはペテロに対して、「サタンよ、退け」と言って、ペテロを激しく叱責した、そのペテロの過ちと同じことを父なる神に祈っているということであります。
 つまり、この時、イエスはサタンの力に負けそうになったということであります。

 イエスは必死にこの時、祈った、このことを多くの聖書の学者たちが、へブル書で、五章で「キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙をながしながら、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いをささげ」とありますが、これはこの時のイエスの祈りの時であると言っているのであります。
 しかし、この時、イエスは、そう祈ったあとに、「しかし、わたしの願いがかなえられることがなく、御心が行われますように」と祈った。そこがペテロと違ったことでした。ここで、イエスは、サタンの誘いを退け、罪を犯さなかったのであります。 

  「自分を十字架につけないでください」というイエスの祈りは、ペテロの思いと似ているようですが、その内容は全く違っておりました。

 ペテロはただ人間的な思いで、メシアは栄光の勝利の道を歩むべきだと思ったのに対して、イエスはそんな浅はかな思いで、「十字架につけないでください」と祈ったのではないのです。自分の栄光なんて、みじんも求めてなんかいないのです。
  この時、イエスは、弟子たちに、「悲しい」と言われたのです。「死ぬばかりに、悲しい」と言われたのです。悲しい、われわれにとって何が一番悲しかといえば、愛するものから離されること、もっとはっきり言えば、愛する者から捨てられることではないかと思います。

 イエスはこのとき、父なる神から、捨てられるかもしれない、そのことを思うと、死ぬばかりに悲しいという思ったのです。
 それは、あの十字架の上で、主イエスが叫ばれた言葉、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたことでもわかることであります。
  もっとも大変残念なことに、一番新しく訳された聖書には、「悲しい」という言葉はなくなって、「苦しい」という言葉になっているのが残念です。わたしはギリシャ語はわかりませんが、どちらか正しいのかわかりません。
 この状況からいえば、ただ「苦しい」というのではなく、「死ぬばかりに悲しい」という訳のほうがいいと思います。

  このとき、イエスは罪人のひとりになりきって、「罪ある人間が救われる道は、ほかにないのですか」と必死に神に訴え、父なる神に祈ったのであります。

  父なる神の答えは、「おまえは罪人のひとりになりきって、十字架につきなさい」というものでした。罪の報酬は死だからであります。罪人に成りきるということは、十字架で処刑されるように、死ななければならないということだからであります。

  そして罪を犯した者は、その償いとして、本当は罪を犯した本人が死をもって、償ぐなわければならないのです。イスラエルの社会では、本人の代わりに罪のない羊に代わってもらって、その羊に死んでもらって、そのつぐないをしてもらわなければならないという考えがあったのです。
 イザヤ書五十三章には、それはもはや、羊ではなく、神が用意する「しもべ」が、その役を引き受けてくれると予言されていたのであります。

 「彼が刺しつらなかれたのは、わたしたちの背きのため、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和があたえられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされる」、そういう僕を神は用意してくださる預言されているのであります。

 その僕こそ、人となったイエスなのであります。

 われわれの罪は自分の力では克服できないのであります。自分の力で克服できたと思ったときには、後に残るのは「傲慢」という罪であります。
 われわれの罪は、誰かが、わたしの身代わりになってくれる、忍んでくれる、その犠牲、あがないによって、克服され、赦される以外にないのです。
 そのとき、われわれの残されるのは、犠牲になってくださった人に対する、感謝と、自分ではなにもできなかったという謙遜であります。感謝と謙遜だけが残るのであります。

 イエスの必死の祈りに対して、神はなにもお答えになりませんでした。その父なる神の沈黙のなかだ、イエスは罪人のひとりになりきって十字架につくことを決意するのであります。

 それがあの十字架の最後の祈りの言葉、「わが神、わが神、どうじてわたしをお見捨てになったのですか」という祈りの言葉になったのではないかと思うのです。
  これは、ある人に言わせれば、イエスにとっては、神はもういない、父なる神に自分は見捨てられたという思いをもったということだといっておりますが、わたしは、そうは思いません、まさにここにイエスのもっとも深い、神に対する信頼があった、神さまがおられるからこそ「わが神、わが神」と祈り、叫ぶことができたと思うのです。まさにここにイエスの父なる神に対する信頼と思いが現れた祈りだと思います。

 ある人が言っていたと思うのですが、イエスは普段は、神に向かって、「アバ」と呼びかけた、「アバ」とは、子供が父親に向かって「お父さん」という呼びかける言葉であります。現に、ゲッセマネの園では「アバ、父よ」と呼びかけているのであります。
 しかし、この十字架の上では、もはや「アバ」とは呼びかけてはいない、「わが神、わが神」と呼びかけている、これはイエスが我々罪人のひとりと同じ立場になって、父かなる神に祈っている姿であります。

 これは確かに詩編二十二の冒頭の言葉かもしれませんが、これはこのとき、イエスは単なる詩編の言葉を朗読したのではないと思います。自ら一人の罪人になりきって、「わが神、わが神」と祈られたのだと思います。罪人であるわれわれは、とうてい「アバ」父よ」となんて、親しそうに祈ることはできないからであります。

 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた、イエスは、ルカによる福音書によれば、最後には「すべてを御手にゆだねます」といって、息を引き取られたのです。

 イエスは最後まで「わが神、わが神」と叫ばれつつ、そして最後には、「すべてを御手に委ねます」といわれて、息をひきとるこによって、われわれに祈ることのできる神がおられ、われわれが自分の身を委ねることができる神がおられることをわれわれに示してくださったのであります。

神はこの罪人の一人になりきって死なれたイエスをどうされたのか。「見捨てられたのか」、その答えは、このイエスを神が三日後によみがえらせたという事実のなかに示されました。復活という事実が、神は罪人になりきったイエスを見捨てなかった証なのであります。そしてそれは罪人であるわれわれを見捨てないという証なのであります。

 罪を犯したわれわれが、あの放蕩息子が父親のもとに帰り、「お父さん」と呼びかけたように、もう一度、われわれは、「お父さん、アバ、父よと祈ることができるようになったということであります。そのようにして、われわれの罪は赦され、神との交わりは回復されたのであります。
 そして、もはや、われわれは自分の死の時にも、父かなる神に対して「アバ、父よ」と安心して祈る霊を与えられたのだパウロもわれわれに告げているのであります。

 われわれは元気なときには、神から見捨てられることは、それほど悲しいとも怖いとは思わないかもしれません。神に見捨てられるよりは、人に見捨てられることのほうがよほど、怖いし、悲しいと思っているかもしれません。

 しかし、われわれは死に臨むときは、どうでしょうか。そのときに、神はわたしを見捨てない、どんなものも、主イエス・キリストによって示された神の愛からわれわれを切り離すものは、なにもない、というパウロの言葉を思いだすことができるということは、なんという幸いでしょうか。