「悔い改めなければ、滅びる」 ルカ一三章一ー九節


   「総督ピラトがガリラヤ人を彼らの生け贄に混ぜた」というのです。これはピラトがガリラヤ人を理不尽に殺した、そういう事件があったようであります。
 それを人々は、そのガリラヤ人がそんなひどい目にあったのは、きっと彼らがなにか特別に悪いことをしたからだ、その因果が、たたって、その罰としてそのような悲惨な目にあったのだと考え、そういう噂がひろまったことのようです。

 われわれは人がなにか理不尽な不幸な出来事に襲われた時に、自分は安泰なのに、その人がそのような災難にあったのは、きっとなにか特別な理由があって、つまり、その人が悪いことをしたから、そうなったのだと考えて、自分がそうならなかったことになにか安心しようとするのであります。

 イエスはそういうわれわれの身勝手な考えを痛烈に批判して、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」といわれたのであります。そして、もう一つ、シロアムの塔が倒れて十八人の人が死んだ事件を取り上げて、同じことを語るのであります。
 イエスは、因果応報的な考えを「決してそうではない」と否定しておられるのであります。
 
 この記事を読んでいて、わたしがとても不可解な思いをするところがあります。
 それは「あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる」というイエスの言葉であります。
 「同じように」というのです。「同じように」ということは、あのピラトによって引き起こされた理不尽な虐殺に逢うということであり、シロアムの塔が倒れて十八人の人のように、それらの人々と「同じように」ということであります。
 そうなりますと、その人たちは、悔い改めなかったので、そのような災難にあったのだ、それと、「同じように」ということになってしまって、なにか割り切れない思いをわたしはもってしまうのであります。

 つまり、ここでは、一度は、因果応報的な考え、つまり、「悪いことをすると、その罰として、災難がふりかかる」という因果応報の考えを一度はを否定しおきながら、その考えを完全に退けていないということになります。

 「悔い改めなければ、滅びる」ということは、逆にいいますと、「滅びたのは、悔い改めなかったからだ」ということになります。

 イエスは、他人の問題ではなく、自分自身の問題として、「自分がこのような悲惨なことになったのは、自分の罪の結果だと考えろ」と警告を発しているということであります。

 われわれは、なにか理不尽な重い病気にかかったときに、なにか罰(バチ)があたったのではないかと思うことがあるのではないか。自分がなにか悪いことをしたからですかと神様に問いたくなるのであります。

 そんなことを医者にいったら、笑われると思います。そんな非科学的なことを考えるのかと言われて、笑われると思います。しかし信仰者ならば、一度は真面目にそう考えるのではないでしょうか。

  もちろん、なにか大きな災害が起こって、大勢の人が悲惨な目に遭って死んでしまう、それはその人たちが何か悪いことをしたからだと、考えることは間違いであります。
 
 イエスが終末の裁きについて述べている箇所で、こう言っております。「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は、連れて行かれ、もう一人は残される」と言っている箇所があります。ここで「連れて行かれる」というのは、いわば洪水に見舞われて死ぬということであります。その場合、連れて行かれるほうは悪人で、連れ去られなかったほうは善人だいう価値判断は、ここでは一切言われていないのです。
 つまり、偶然そうなるといわんばかりなのです。わたしはここを読む時に、とてもほっとするのです。たまたま、そうなるのだと言っている、まるで偶然そうなるのだいっているようで、わたしはとてもほっとするのです。

 なぜ、わたしはほっとするのかといいますと、神様の支配するところには、偶然などといものはない、すべては計算どおりに支配されるのだと考えがちですけれど、そうなったら、とても息苦しい気がしますが、ここに「偶然」という要素が入ってくると、なにか神様の支配にもゆるやかさがあるのだと感じて、神様の支配の豊かさを感じて、わたしはほっとするのであります。

 ともかく、大洪水とか、大震災によって死んだ人に対して、因果応報の考えを導入してはならないことは確かです。

  しかし、自分自身の問題として、大きな不幸に見舞われたときに、そこに自分の罪のことを考え、悔い改めめなかったから、そういう目にあったのだと考えること自体は、決して間違った考えではないということであります。

 いわゆる罰(バチ)が当たるということであります、、それは、究極的には、死んだときに地獄に落とされる、という考えであります。
 
 自分自身のことを言ってもうしわれけありませんが、わたしは小さいときから、なぜか地獄が怖かった。自分の家が特別に仏教の家であったわけではないのですが、なんの影響かわかりませんが、わたしは地獄の存在を大変リアルに感じていました。笑われるかもしれませんが、わたしは大学生のときまで、自分の心のなかに地獄の存在をリアルに感じておりました。人にはそんなことを言ったらわらわれますからいいませんでしたが、それはわたしの人生に大きな影響を与えておりました。

 わたしは中学の時にキリスト教の学校にはいって、聖書に初めて触れましたが、聖書にも、地獄の存在というものがはっきりと書かれていて、恐れおののいてものであります。
 「情欲を抱いて女を見るものは、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられないほうが、あなたに取って益である」とあって、わたしは、恐れおののいたのであります。

 聖書に触れ、キリスト教を知ってから、ますます地獄の存在というものが、わたしの人生に大きな影響を与えました。地獄の存在が恐ろしいために、わたしは悪いことはできませんでした。といって、善いことばかりしてきたわけではありません。悪いことはできませんでした。それは善のために善をするということではなく、ただ地獄に落とされるのが怖いためにそうするのであって、すべては自分のため、なのです。人を愛するとか、人になにか善いことをするためではなく、ただただ、自分が地獄に落とされないためにそうするのです。そんなものは愛でもなく、善でもないのです。
 
 キリスト教信仰に入るには、二つのパターンがあるのではないかと思います。一つは、クリスチャンホームに育った人の信仰の入り方です。それは、いつも、「神は愛なり、神様はいつもわたしを見守ってくださる」、そう教えられて信仰生活に入る人であります。

 そういうクリスチャンホームに育てられた信仰者の姿をみると、とても自然で、その愛の表し方が豊かで、おおらかで、わたしはとてもうらやましく思ったものであります。

 もう一つの型は、わたしのように、地獄がこわくて、ただその地獄に落とされないために、信仰に入るというパターンです。

 自分が地獄に落とされないために信仰に入る、よいことをする。それは、すべてが自分のために、よいことをする、自分自身の利益のために人を愛する、というような生き方をしてしまう。それは「行いによって義とされる、行いによって救われる」という律法主義的なキリスト教になっていくのであります。

 そんなときに、わたしはある牧師に出会って、「あなたのキリスト教は律法主義だ、そんなのはキリスト教ではありません」と、真っ向からいわれて、わたしは目からうろこが落ちて,初めて神の愛というものがわかったのです。

 その神の愛が本当にわかるまでには、それからも紆余曲折がありました。わたしはパウロが神様から受けた言葉、「わたしの恵みはあなたに十分に与えられている、わたしの力はお前の弱さのなかでこそ、十分に与えられるのだ」という言葉に出会って、あるがままの自分でいいのだということがわかって、神様はわたしの弱さ、私の汚れを受け入れて、許してくださる、その神の愛に触れて救われたのであります。

 そうしましたら、不思議なことに、わたしはいつのまにか、地獄の存在、地獄の恐怖というものが全くなくなってしまったのであります。地獄のことを考えなくなったのであります。

 しかし、最近になって、わたしは地獄の存在、罰が当たるという恐れというものをそんなにあっさりと、捨て去っていいのだろうかと思うよになったのであります。

 地獄の存在の怖さから信仰に入るという入り方は、それほど間違っていないのではないかと思うようになっているのであります。地獄の存在、その恐怖をあっさりと捨て去っていいのだろうか。捨て去ることができるものなのだうろかということであります。

 それが今日の聖書の言葉であります。「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」という言葉であります。
 「滅びる」というのです。つまり罰が当たる、究極的には、地獄に落とされるということであります。
 
 現代人は、おそらくもう地獄の存在なぞ、誰も信じてはいないだろうと思います。地獄のことなど言い出したら、笑われるだろうと思います。

 「神は死んだ」と宣言してから始まったわれわれの世界、それはとくに欧米を中心にした文明社会ですが、ただただ自分の生活の便利さを追求し,ただただ自分の欲望を満たす方向しか考えなくなって発展した、この文明社会、は、発展途上国の人々に災害をもたらし、そればかりか今、自分たちの社会自体を破滅する方向に進んでいるのではないか。恐ろしい環境破壊によって、地球そのものの破滅と、進んでいるのではないか。

 最近、ある本を読んでいて衝撃をうけました。そこでは、こう書かれておりました。
「地球資源が有限であることを知りながら、欲望に任せて地球資源を奪い続けてきた結果、もし八十億人といわれる現在の人類全員が、今の普通の日本人の暮らしと同じ生活レベルを望むとしたら、地球が三個を必要とする」と書いてあつたのであります。

 今のわれわれ日本人の暮らしを全人類がし続けていれば、環境破壊が続いて、この地球は滅びるというのであります。

 ただただ自分たちの生活の便利の追求し、欲望を追い続けて、森林破壊をし、核爆発を利用して原発を作っていったら、地球は滅びるというのであります。今、恐ろしいのは戦争よりも、環境破壊ではないか。現在起こっている大規模な山火事、大洪水、それをもはや止めることができない状況になっている。

 それは「神は死んだ」と宣言して、この地球は自分たちのものだと思い込み、自分たちの欲望を追い求めた結果こういうことが起こっていることなのではないか。

 「お前たちも悔い改めなければ、滅びる」とイエスはいうのであります。

 われわれは、神の怒りというものを無視していないか。悪いことをしたら地獄に落とす「かた」が存在している、そういう素朴な信仰を失っていいのだろうか。

 われわれは、今、なにもキリスト教でなくてもいいんです、人間を超えたかたの存在を認めるという宗教性というものをとりもどす必要があるのではないか。あまりにも人間中心、人間の便利さ、利益を追求する姿勢を反省することが今必要になっているのではないか。

 われわれは今、「悔い改めなければ,滅びる、悔い改めなければ、この地球は滅びる」、このイエスの警告を真摯に聞く必要があるのではないか。

 環境破壊とか、地球規模のことをいっても、あまりピント来ないかもしれません。それならば、自分の目の前にある「死」「死んだらどうなるのか」ということを考えたらどうでしょうか。死んだあと、地獄にいくのか、それともスムーズに天国に行けるのかと考えたらどうでしょうか。
  
 ずっと以前に、テレビ番組で、モーツアルトのレクイエムと、フォーレのレクイエムを続けて放送したことがあります。
 レクイエムというのは、死者を慰めるミサ曲であります。このモーツアルトのレクイエムとフォーレのレイクエムは、レクイエムのなかでは、一番人気のあるレクイエムであります。

 フォーレのレイクエムは、大変美しい曲です。本当に静かな曲で、慰めに満ちた曲で、特に日本人はこのレクイエムが好きで、自分が死んだときには、この曲を流してくれという人が多いようです。
 しかし、このレクイエムは、当時はカトリック教会からは、これはレクイエムではないと拒否されたそうです。どうしてかというと、この曲には神の怒りがない、神の最後の審判、神の最後のわれわれ人間の罪に対する裁き、神の怒りがないからだというのがその理由のようであります。全くないわけではないのですが、ほんの十六小節しかないのです。

 その批判に対して、フォーレは、自分は自分の母が死んで、その母と残されたわれわれ遺族を慰めるために作ったので、教会から批判されてもかまわないと答えたそうです。

 それに対して、モーツアルトのレクイエムは、もちろん、教会のレクイエムの台本によって作曲したのでしょうが、このレクイエムには、すざましい神の怒りが表現されています。この神の怒り、神の審判に対して、モーツアルトは「このわたしを憐れんでください、わたしを山羊の群れにではなく、羊の群れに入れてください。マクダラノのマリアを赦し、ともに十字架につけたられた強盗を赦したイエスよ、わたしを憐れんでください」と、必死に神の憐れみ、主イエスの憐れみに訴えるのであります。
 
 このレクイエムは、モールアルトが重い病気に見舞われて、彼の死の最後の曲で、このレクイエムも完成できないで、途中で終わってしまっているのです。「涙の日、ラクリモーザ」というところで、病に倒れて筆をおり、あとは弟子が作曲したそうです。
 その「涙の日、ラクリモーザ」といわれているところは、大変静かに美しくこう歌うのであります。
 「その日こそ涙の日、罪ある者が裁きを受け、灰からよみがえる日、あわれみ深い主イエスよ、彼らに安息を与えてください、アーメン」と書きしるされているのであります。モーツアルトはそのように書いて、力つきて筆を置いてしまったのであります。

 このレクイエムを指揮をしたアーノンクールは、アナウンサーのインタビューに答えて、この曲を解説してこう言っているのです。モーツアルトという人は、本当に音楽の天才で、彼はただ音楽を作曲した、彼の音楽は彼の実の人生からなんの影響も受けなかった。彼は彼の母が死んだときも、父が死んだ時にも、その作曲になんの影響も受けなかった。ただただ音楽を作った。
 しかし、このレクイエムだけは別だ。この曲だけは、モーツアルトが自分の死を前にして、切実に神に訴えて書いたもので、この曲だけは彼の実人生が曲に影響を与えたのだといっていたのであります。

 モーツアルトは、三十五歳でなくなりましたが、決して真面目な清らかな人生を送った人ではなかったようです。色事でもまた賭博でも莫大な借金を作って、大変苦労したようです。
 つまり、モーツアルトは決して聖人のような人ではなく、われわれと同じ罪人だった、その人が自分の死を前にしたときに、ただただ切実に頼りにしたのは、神の憐れみだった、主イエス・キリストのあの十字架の罪の赦しの憐れみだった、それだけが彼の救いだったということであります。
 
 わたしは、このモーツアルトのレクイエムとフォーレのレクイエムを立て続けに聴いて、わたし自身は、フォーレのレクイエムでは慰められない、これではとうてい、自分は天国には行ける気にはなれないと痛切に思ったのです。 

 フォーレは、このレクイエムを自分の母の死を慰めるために書いたのです。しかし、モーツアルトは、自分の死を目前にしてこの曲を書いたのです。他人の死ではなく、自分の死を目前にして書いた。その違いがこのように現れたのではないかと思います。

 フォーレは死んで、フランスの国葬で見送られ、多くの人の悲しみのなかで、その死が悼まれたそうであります。
 モーツアルトは、その死は感染病ではないかと疑われ、教会の墓地にではなく、共同墓地に埋葬され、彼の妻もそれに立ち会うことができなかったそうであります。

 神の怒りがないレクイエムでは、レクイエムにはならないのです。

 ホセアの言葉に口語訳でよみますが、「わたしの心はわたしのうちに変わり、わたしの憐れみはことごとくもえ起こっている。わたしはわたしの激しい怒りをもはやあらわさない。わたしは神であり、人間ではない。」(十一章)というのであります。
  イエス・キリストを通して示された神の愛は、われわれ人間の罪に対する激しい怒りがこめられ、しかし、その怒りを愛にかえてくださった愛であります。
 この愛は、人間の罪に対する激しい怒りを愛に変えてくださった愛であります。この愛には怒りがある。 怒りのないレクイエムは、レクイエムにはならないのです。

 カトリックだったら、こういうときには、聖母マリア様が出てきても良さそうであります。「マリア様、わたしを救ってください」と訴えてもよさそうであります。しかし、このレクイエムには、もはやマリアは登場しないのです。マリアでは駄目なのです。

 われわれの罪を担い、われわれの代わりにその罰を引き受けて死んでいってくださったイエス・キリスト、このかたに訴え、祈るしかないのであります。

 悔い改めるということは、悔い改めて、なにか善いことをするということではないのです。悔い改めるということは、このイエス・キリストの憐れみに訴え、「主よ、憐れんでください」と、神のほうに方向転換するということであります。

 このあと、聖書は「そして」という言葉をつけて、悔い改めについて語ります。ブドウ園の主人がもう実のならないイチジクの木を切り捨てようとした。そのとき、園丁が「ご主人さまどうか、切り捨てないでください。この一年わたしが木のまわりを掘って肥やしをやりますから。もしそれでも駄目でしたら、切り倒してください」と、取りなしてくれたという話をイエスはなさるのです。

 この園丁はいうまでもなく、イエス・キリストであります。われわれはイエス・キリストの執り成しに支えられて悔い改めることができるというのであります。

 ここの箇所で、説教者は、おそらくこの園丁は、イエスなのだから、今年、実がならなかったとしても、もう一年待ってくださいと、もう一年、もう一年と執り成し続けてくださるだろうと、説教するのであります。わたしもかつてそのように説教したことがあったと思います。

 しかし、今改めて、この箇所を読む時に、そんな解釈をしてしまっていいのだろうか、と思ったのであります。そんな甘えをわれわれを持ってしまっていいのだろうかと思うのです。ここでは、この園丁は「もし、それでもだめなら、切り倒してください」、はっきりと断言しているのであります。

 つまり、悔い改めには、賞味期限があるということであります。

 パウロの言葉に、こういう言葉があります。
 「神からいただいた恵みを無駄にしてはならない。『わたしは恵みの時にあなたの願いを聞き入れ、救いの日にあなたを助ける』、見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」(コリント第二、六章)とあります。

「今が恵みのとき、今が救いの日だ」、この「今」を無駄にしてはならないというのであります。

 悔い改めというのが、酒を、たばこを止めると言うわれわれの行いということならば、一年、二年の期間が必要かもしれません。

 しかし悔い改めというのは、そうではないのです。自分中心の思いを捨てて、ただただ神の憐れみに頼り、神の存在を信じて、神の恵みの支配を信じるということなのであります。それならば、今、できることであります。今それをしなければならないのです。
 
 悔い改めるということは、もはや自分の業、自分の行いを頼りにして生きることではなく、ただただこの弱い、この醜い自分を赦して愛してくださっている神の愛の支配を信じて生きるということであります。それは、自分が打ち砕かれて謙遜になるということであります。
 そして自分自身が謙遜になれたとき、われわれは自分自身が本当に幸せなになれるのではないか。そして人に対しても優しく接することができて、人を幸せにすることができるようになるのではないか。

 さきほど、ご一緒に交読した詩編の五一篇には、「神の求めるいけにえは、打ち砕かれた霊、打ち砕かれた悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」とあります。