「赦してあげなさい」  ルカ17章1-4節

 主イエスは「もし兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しも、七回、『悔い改めます』といって、あなたのところにくるならば、赦してあげなさい」といわれました。

 これは考えてみれば、大変ことであります。一日のうちに七度罪を犯しても、悔い改めたら、赦してあげなさいというのです。一日のうちにです。一日のうちにに罪を犯し、悔い改め、それを七度繰り返すということですから、罪を犯し、悔い改め、その悔い改めた言葉の舌のかわかないうちに、罪を犯し、それを七度も繰り返すというのです。

 そのような悔い改めが本心からでた悔い改めでないことは、あきらかなことです。見え透いた口先だけの悔い改めであることはあきらなのです。それでも「赦してあげなさい」というのです。

 ある人が言っていたことですが、「赦すということは、徹底的に赦すということだ、中途半端な赦しは赦したことにはならない」といっているのです。

 主イエスも、ペテロが「主よ、兄弟が罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」質問したのです。そうしましたら、イエスは「あなたに対していっておく。七回どころか、七十倍までも赦してあげなさい」といわれたのです。
 
 赦すということは、徹頭徹尾ゆるさなければ、それは赦しにはならないということであります。

 そのような赦しをわれわれは行うことがてぎるでしょうか。それは神様だから、イエス様だからできることであって、われわれ人間には、到底できることではないと思います。

 神にはできる、われわれ人間には、とうていできないことだ。しかし、そうだろうか。われわれ人間もそのようなことをしたことがあるのではないか。自分の子供にたいしてどうだろうか。

 われわれも自分の子供が過ちをしたときに、叱る、そのとき、子供は「ごめなんさい」と口にだしていう。しかし子供はその舌のかわかないうちに、また過ちをしてしまう。そして親は叱る、そのときにまた子供は、「ごめなんさい」と謝る。親はその時にも子供を赦してあげる。そんなことを一日のうちに何度もしてきたのではないか。それこそ、一日のうち、七どもくりかえしてきたのではないか。

 われわれも自分の子供に対して、七回どころか、七十倍赦してきたのではないか。

  しかし、妻がいうには、子供に対しては、「許した」というよりは、「あきらめだ」といわれました。

 確かに、そうかもしれません。しかし、あきらめて、育児放棄するのではなく、なお受け入れ、愛していくということでは、これはこれで「ゆるし」だと思います。

 創世記に出てくるノアの大洪水のあとの、聖書の記事です。神はこう思われたというのです。
「人に対して大地を呪うことは二度としない。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。わたしはこの度したように生き物をことごとくうつことは二度としない」といわれたのです。

 神はもう「あきらめた」というのです。人に対してどんな罰をくだそうが、人はかわらない。人間の考えることは、幼いときから悪いからだ、もうあきらめた、しかし、人を見捨てないというのです。

 これはもう立派な「あきらめ」です。しかしそれでも人間を見捨てないというのです。これが神の赦しなのだというのです。

 そしてその徴として、「雲のなかに虹を置く」これが神がどんなことがあっても人間を見捨てないという徴だというのです。

 親はどんなに子供が過ちを犯そうが、それをゆるしていく、見捨てないのです。

 そしてそのようにして、子供は成長していくのではないか。われわれ自身がそのようにして大きくなっていったのではないか。

 そのようにして成長してこなかった人は、どこか傲慢な人間になったり、どこかゆがんだ人間になっていくのではないか。

 赦されて育った人は、自分の弱さを知っている、自分の罪を知っている。そしてそれを赦し、うけいれてくれた人がいる、それがその人を謙遜にさせるのではないか。

 前に、ある大きな教会の長老が自分の子供に殺されるという事件があって、大きく報道されたことがあって、それはクリスチャンに、わたしにも大きな衝撃でした。そのかたは学者で有名人だったので、世間に与えた衝撃は大きなものでした。クリスチャンの親が子供に殺された。その人は厳格に子供を教育したということだったようです。その青年は親から赦されて育つということができなかったのではないかと推察するのであります。

 人は、誰かに赦されてはじめて、育つことができる。そしてそのようにして、自分が赦されて生きることを知った人間は、自分自身をもまた赦せるようになるのではないか。

 わたしは若いときに、誰れの言葉か忘れましたが、「大事なことは、自分を憎んで人を愛することだ。人を愛するということは、自分を憎むことなのだ」という言葉にひかれて、一生懸命自分を憎もうとしました。

 しかし、自分を憎むなんてことは到底できることではないのです。たとえできたとしても、自分を憎んで人を愛したとしても、人を愛したとき、その愛はどこかゆがんだ愛になるのではないか。

 本当は、真に自分を愛することができない人は、人を愛することはできないのではないかと思います。

 ここでいう自分を愛するということは、自分に惚れ込んで自画自賛するというようなナルシストのことではないのです。自分の過ちを知り、しかもその自分を赦し、その自分を受け入れてくれる人がいることを知って、自分自身もまたその弱い醜い自分をも赦し受け入れて生きるということです。

 自分を愛するということは、自分を自分でも受け入れるということです。自分を受け入れることのできない人は、どこかゆがんだ人になっていくのではないかと思います。

 主イエスがどんなにわれわれひとりひとりを愛し、受け入れてくださっているか、この自分も愛してくださっているのです。
 そうであるならば、その自分を憎む必要などひとつもないのです。そのように神に愛され、主イエスに愛され、そして親に、あるいはだれかに愛されている自分を、自分もまた受け入れ、愛していくのです。

「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」といわれたのです。「自分を愛するように」です。

 自分を愛することのできない人は、隣人を愛することはできないのです。

 主イエスは、姦淫を犯した女に対して、「みんながこんな女は石で打ち殺せ」と騒いでいたときに、イエスだけは、「わたしはあなたを罪に定めない、あなたの罪を赦す」といわたあと、その女に対して「これからは、罪を犯さないように」といわれた。
 それはこれから、神に赦された自分を自覚して、赦された者として、自分自身を受け入れ、自分自身を大切にして行きなさいという励ましの言葉だったのではないか。

 われわれは誰かに赦され、そしてその赦しを自覚していないと、われわれは生きることもできないし、人を正しく愛することもできないのではないか。

 主イエスは、「七回どころか、七の七十倍まで赦しなさい」と言われたあと、一万タラントを主人から赦された者が自分に百デナリの借財をもっている人間の借金を赦してあげることのできない者を主人は赦すことができずに、牢獄にひきわたした話をし、「人が心から兄弟を赦さないならば、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と語った。

 一万タラントを許された者は、それを許された者は、それを赦しとしてうけとめないで、ただもうけものをしたと思っただけなのではないかと思います。

 神の赦しを、そして人の赦しを、赦しとしてうけとめられない人は、どんなに惨めな人生を送ることになるかということであります。

 今、世界をコロナが覆っている。それはまさにノアの大洪水のように世界を脅かしている。これをただちに、神の裁きの予兆のように考えるのは軽率かもしれない。なぜなら、コロナの悲惨は、先進国の富裕国よりは、貧しいいわば後進国のほうが大きいからです。

 しかしコロナの脅威が全世界をおびやかしていることは紛れもない事実である。しかし、それでもわれわれにはまだ希望をもつことができる。なぜなら、われわれはまだ「虹」みることができるからです。まだまだ神様に完全に見捨てられていない希望をもつ事できるのではないかと思います。

 いや、われわれはただ「虹」をみることだけに、希望をいだくことができるのではないのです。
 神はただわれわれの罪に絶望して、あきらめて、もうゆるしてしまおうと思われたからではないからです。

 神の赦しは、そんな頼りない「あきらめ」にもとづいた「ゆるし」ではないのです。

 イザヤ書53章には、「主のしもべ、苦難のしもべ」が預言されています。
 われわれの罪を身代わりに引き受け、ご自分の死によって、その罪を担い、ほふられた仔羊として死んでいくことによって、われわれの罪を赦してくださる、「主のしもべ」が現れると預言されているのです。

 それは「あきらめ」という「赦し」ではなく、われわれの罪を神のしもべが自ら担い、神みずからが罪人のひとりになって死んでくださった、そのようにしてわれわれの罪を根底から「赦す」という神の愛が啓示されるということであります。

 その預言は、主イエス・キリストにおいて実現したのであります。

 主イエスのの十字架の赦しにおいて決定的に、そして徹底的に、われわれに示されたのであります。

 われわれはこのイエス・キリストの十字架の赦しによって、赦されて生かされて生きていきたいと思います。