「軽々しい悔い改めではなく」ヨハネ福音書二一章一五ー
 

 コロナウイルスのお陰で、自宅謹慎を強いられています。毎日、テレビづけです。今のテレビはおもしろくないので、昔放映されたドラマの録画をとりだしてみています。

 山田太一の「ナイフの行方」を久しぶりにみました。これで三回目かもしれません。

 わたしは山田太一の作品では、「早春スケッチブック」が一番好きで、山崎努が演じる役のセリフ、「おまえたちはありきたりの人生をおくっていていいのか」という罵声に心うたれました。
 しかし、今回あたらためて「ナイフの行方」を観て、山田太一の作品では、これが一番ではないかと思うようになりました。

 主人公を演じる松本幸四郎のセリフと演技に圧倒されました。

 ドラマの筋はこういうものです。人生に絶望したある青年が自分をナイフで刺して死のうとして街を歩き出す。そのうちに、自分一人で死んでもつまらないので、だれでもいいから、人を刺して殺して、そして自分も死のうとして街をあるく。
 道を歩いている婦人や乳母車を引いている若い婦人を刺そうとする。その殺気だった目に気づいた松本幸四郎が扮する根本という老人が、それを阻止しようとする。すると彼は根本に向かってナイフをふりあげる。根本は合気道の達人で、彼を合気道で倒してナイフをとりあげる。しかし警察には連行しないで、わざと足を蹴って骨折させて、自分の家にかくまう。

 根本は一人住まい。彼を二階の部屋に閉じ込めて、足の骨折が治るまで、一ヶ月、彼をかくまい、彼をなんとか立ち上がらせようとするドラマです。

 老人の世話をする子供連れの若い家政婦とのふれあいを通してでも、青年はだんだんと心が癒やされていく。そして一ヶ月ほど経って、足の骨折も治って自分の足で歩けるようになって、もう大丈夫だからといって、その家を出ようとする。
 
 そのような彼に、根本はかつて四十数年前に経験したある出来事を、同じ経験をした津川雅彦扮する丹波という老人を自宅に呼んで、今まで誰にも語ろうとしなかった経験を静かに語りだす。

 青年海外協力隊として、南米に行った経験を話し出す。そこは独裁者が支配していた。そしてその独裁者を倒すための計画を立てた。現地の人のなかにもそれに賛同する者がいて、地下組織ができていた。そのためには、いままで対立していた町の人と村の人が一体となって、独裁者を倒す計画を練る必要があった。

 ある夜、その計画に賛同する町のリーダーと村のリーダーが会う時がきた。リーダーは二人、それに根本と丹波。月明かりの日だった。歩いていると背後にだれかがついてくる。それも一人や二人ではない。何十人もの人たちがリーダーの背後についてきていた。それは町の側も同じだった。

 リーダーが小さな池の前で、握手を交わして、独裁者を打倒するために協力すると思っていた。しかし、あっというまに、その月明かりのなかで、町の人たちと村の人たちが乱闘になり、全部の人が死んだ。百人の人たちが誰一人残らず殺されていた。
リーダーが言うには、「俺たちには長い物語があるのだ」という。町の人と村の人との間には、長い長い確執、ものすごい深い恨みがあったというのです。独裁者の殺し合いを憎みながら、殺しあっている。人間はわからない。
  
 月夜のもとで突然起こった殺戮を根本たちは見ることはできなかった。ふたりは逃げ出した。

 その経験をふたりはどうしても思い出したくなかった。思いだせないのだというのです。四十年にもわたってである。

 その経験を、青年に語ろうとする。根本は青年にいう。「誰かれかまわず刺そうとしたあんたが、たかが一ヶ月でケロリと忘れて元気になりました。ひとりで生きていきます。そんな事信じられるか」という。

 町と村のひとたちの間にあった確執はもう何十年経ってもなくならなかった、それなのに、たったひとつきで、忘れてケロリとして立ち直ったいう青年に、「おまえは人を殺そうとした自分をひと月で忘れるんだ。元気です、と言って笑っている。軽いんだ」というのです。

 山田太一のこのドラマには、回想シーンがひとつもない。あの大変な出来事も、回想シーンではなく、ただ松本幸四郎と津川雅彦との語り口で、語ろうとする。そこがこのドラマをとても深くしている。回想シーンにしてしまうと、単なる過去の出来事になってしまうからだとある人が解説していました。
 しかし、それを回想シーンではなく、自分の言葉で語りだすということは、この出来事が単なる過去の出来事でなく、自分自身のなかに深く深く根付いたものになっているということだというのです。

 人間はそうやすやすと変わるものではない、人間はそうやすやすと悔い改めることなんかできない、そんな口先だけの悔い改めは軽すぎると山田太一はいいたいのです。

 そして私が思い出したのは、ペテロの悔い改めのことであります。

 彼は主イエスが「自分は十字架で死ぬ、殺されることになる、そのときにおまえたちはみな私に躓く、『わたしは羊飼いを打つ、すると羊はみな散ってしまう』からだ」と、イエスは弟子たちに告げる。

 するとペテロは「いや、自分だけは躓きません。たとえあなたと一緒に死ななくてはならなくても、わたしは躓きません」と誓う。するとイエスは「今夜、鶏が二度鳴く前に、おまえは、三度わたしのことを知らない」というだろうと告げる。

 そして事実、ペテロはイエスが捕らえられたとき、イエスを見捨てて逃げようとし、「おまえはイエスの仲間だ」といわれたときに、「いや、違う、わたしはあの人のことを知らない」と三度にわたって、否認する。すると鶏が鳴いた。

 この時、ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないというだろう」といわれたイエスの言葉を思い出して、外に出て、激しく泣きだした。

 この予言をイエスはただ自分の予知能力を誇示するためにペテロに言ったのではない。ペテロがイエスなんか知らないと、自分を裏切ったとき、イエスはすでにそのことを知っていて、そのペテロの弱さを見抜き、そのペテロのために祈っていることをペテロに思いだしてもらいたかったからである。

 そして、ペテロはこのとき、ただ鶏が泣く前に三度イエスを裏切るというイエスの予告の言葉を思い出しただけではなく、同時にイエスの言われた言葉、「わたしは羊飼いを打つ、羊はみな散ってしまう」という言葉も、思い出した筈である。

 羊飼いがいま死のうとしている、自分の前からいなくなろうとしている、それならば、羊は散る、羊が躓くのは、必然である。躓かないほうがおかしいのである。それなのにペテロは羊飼いがいなくなっても大丈夫だと自分を誇っている、ペテロはその自分の愚かさにも気がついた筈である。

 そのペテロがイエスの十字架と復活を語る宣教者となって、教会を作り上げていったのです。

 ペテロは悔い改めたのである。しかし、不思議なことに、聖書はペテロがいつ悔い改めたのか、いつ悔い改めたことを告白したのか、ひとつも書こうとしないてのある。

 ペテロは聖霊を与えられたあと、人々に語った。そして最後に「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主として、メシアとなさったのです」と語った、人々は心うたれ、わたしたちはどうしたらよいですか」と尋ねると、ペテロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪の赦しをいただきなさい」というのです。

 しかし、ペテロ自身はいつ悔い改めたのだろうか。ペテロはいつ口にだして、悔い改めたのだろうか。

 パウロは「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」と言っているのである。

 ただ心のなかで信じていればいいというのではない、やはりはっきりと口で告白しないと救われれないのです。

 ペテロはそれをいつしたのだろうか。そのことについて聖書は書こうとしない。

 ペテロは三度まで主イエスなんか知らないと否認したのである。それならば、主イエスにお会いしたときに、そのことについて何かをいってもよさそうである。しかし、聖書はペテロがそのことについて口にだして、謝罪したことなどひとつも書こうとしない。

 ペテロは主イエスを裏切ったことを知ったときに、外に出て激しく泣いたのである。それは彼の心のなかで消すことのできない心の傷として残っている筈てある。

 ペテロは主イエスに、いつそのことについて謝罪したのだろうか。聖書はそのことについて記していない。ただそのことを暗示させる記事がある。

 ヨハネ福音書二一章の記事てある。

 復活の主イエスが漁をしている弟子たちの前に現れたときに、弟子のひとりがペテロに「主だ」といったときに、ペテロはそれまで裸だったのに、上着をまとって船から湖に飛び込んだという記述である。

 水の中に飛び込むのならば、上着を脱いで飛び込むのに、彼はこのときわざわざ上着をまとって飛び込んだというのである。ペテロが、主イエスに対して、申し訳ないことをしてしまったという思いを表した記述である。

 そしてそのペテロに対して、復活の主はこういわれる。「ヨハネの子シモンよ、この人たち以上にわたしを愛しているか」と尋ねた。するとペテロは、「はい、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えた。主は三度にわたって、ペテロにいった。「わたしを愛しているか」と。

 ペテロはイエスが三度にわたって、そういわれたので、悲しくなってこういった。「主よ、あなたはなにもかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えたのである。

 このとき、ペテロははっきりと、まざまざと自分が主イエスを三度にわたって否認したことを思い出した筈である。しかし、それでもペテロはこのとき、主イエスに「すみませんでした、もうしわけありませんでした」と、口に出して謝罪してはいない。それはできなかったのである。

 その代わりにこういっている。「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」。
 
 ここでペテロは、率直に「わたしはあなたを愛します」とはいわない、もういえなかったのである。しかし、それでも、なんとか主イエスに自分の愛を伝えたかった、それが「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と、なにか、微妙ないいまわしになってしまったのである。

 つまり、自分がどんなに弱いものであるか、あなたはすべてご存じです、しかしそれでもわたしは自分の弱さをかかえたまま、わたしはあなたを愛していきます」と、ここで告白しているのである。

 ペテロは軽々しく悔い改める言葉など口にしなかった、口にできなかった。ペテロはこれから生涯、自分の弱さを背負ったまま、それでも主イエスを愛し、主イエスに従っていこうとしたのである。

 あの「ナイフの行方」の青年、人を殺して自分も死のうとした青年は、根本という老人に救われてひと月を過ごして、「オレ、変わりました」という。すると根本は、「変わるもんか、人間がそう簡単に変わるもんか」という。

 人間はそう簡単に変わるものではない。軽々しく、口に出して悔い改めましたなどいうものではないし、言えるものでもない。

 現に使徒言行録には、このペテロは異邦人たちとの食事をためらって、尻込みをしたときに、パウロから激しく非難されてしまうのである。ペテロは自分の弱さを完全に克服などできていなっかったのである。

 人間はそう簡単に変わるものではない。人はそう軽々しく悔い改めたなどと口に出すべきではない。

 主イエスはそういう弱さをかかえ、完全に悔い改めることのできていないペテロに対して、「おまえはわたしの羊を飼いなさい」と、ペテロに伝道者、牧者としての任務を与えるのである。

 そして、「おまえは若いうちは自分で帯びを締めてゆきたいところに行ってきたが、これからは、他の人がおまえの両手を縛って、おまえが行きたくないところへとつれていくだろう」といわれるのです。

 これはペテロが最後にどんな死に方をして神の栄光をあらわすかを示した言葉だと聖書は語っている。

 主イエスが自分の死を予言したときに、ペテロは「わたしも一緒に死にます」と、軽々しく口にしたペテロである。自分の意志で、自分の好みで、殉教の死を遂げようとしたペテロに対して、自分の英雄的な意志ではなく、「他の人が」(それは最終的には、神がということである)、神がペテロを殉教の死へとおいやり、神の栄光を示そうとされるというのである。

 復活の主イエスは、ペテロに対して「わたしを愛するか」と、問い、そしてペテロの「わたしは愛します」と、答えたにもかかわらず、主は「わたしもおまえを愛する」とは言葉にだしては答えていない。

 しかし、ペテロは三度まで自分に対して「わたしを愛するか」と、問うてくれた主イエスの呼びかけを聞いて、もう一度自分にやり直しの機会を与えてくださった主イエスの深い愛を受け止めた筈である。そしてペテロはどんなに慰められ、励まされたかわからないと思う。

 このとき、ペテロは自分のなかに深い悔い改めの思いが強くされたはずである。あの軽々しい悔い改めが、深い堅い悔い改めになるのである。愛が人を悔い改めに導くのである。
   
 「ナイフの行方」のドラマの根本老人は、軽々しい悔い改めを口にした青年をカフエをしている友人夫妻に託す。そして根本老人の家にきている若い子供づれの女にも託そうとする。

 愛の仲間を増やしてあげようとするのである。

 愛が、われわれを本当の悔い改めへと導くのである。