「ただひたすら、十字架の死へ歩むイエス」
                                    マルコ一五章三二ー四二節
                                   

 主イエスは、ただひたすら、十字架の死へと歩んだのではないか。そういう意味では、最初に書かれたといわれているマルコによる福音書、それをもとに書かれたマタイによる福音書の受難の記事が実際に歩んだイエスの姿を示しているのではないか。

 ルカによる福音書には、二三章三九節以下の叙述は、ある意味では、神学的創作ではないか。

 そこでは、イエスと一緒に十字架にかけられたふたりの犯罪人のことが書かれている。ひとりの犯罪人は「おまえはメシアではないか。それなら自分自身と我々を救ってみよ」と、イエスに悪態をついているが、もうひとりの犯罪人は、それをたしなめ、「おまえは神をも恐れないのか。同じ罰を受けているのに。われわれは自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしていない」といい、「イエスよ、あなたがあなたの御国においでになるときにには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」といわれた、と書かれているのです。

 しかし考えてみるまでもなく、十字架のうえで、そんなやりとりができるはずはなく、ましてそのやりとりを聞くことなどできる筈はない。

 ヨハネ福音書では、十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に「婦人よ、ごらんなさい。あなたの息子です」といい、弟子に「見なさい。あなたの母です」といわれた。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った、と記されている。

 ここでも、十字架のうえで、そんなやりとりができるはずはない。イエスの母マリアは、他の福音書では、不思議なことにイエスの母マリアがいたという記述はない。「マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた」と記されている。
 なぜ、マルコ、マタイには、イエスの母マリアがいたと書かないのか。他の婦人たちの名前を書いているのに。それは、イエスの母マリアは実際にそこにいなかったからである。
 それはマリアがイエスを見捨てたのではなく、我が子の悲惨な死をみることはできなかったからではないか。

 それなのに、ヨハネによる福音書には、イエスの母マリアがそこにいたと記しているのである。

 これらのルカによる福音書、ヨハネによる福音書の十字架上の記述は、いわば神学上の創作なのではないか。

 十字架の道を歩むイエスは、もうただひたすら、自分のことだけを考え続けたのではないか。「自分のことだけ」というと語弊があるかもしれない。自分に託された自分の使命のことだけという意味である。

 自分がなぜ十字架で死ななければならないのか、ただひたらす、そのことだけを考えつづけたのではないか。一緒に十字架につけられた犯罪人のことも、自分の母のこれからの心配など考える余裕などひとつもなかったのではないか。

 自分のことだけ、というのは、自分がなぜ十字架で死ななければならないのかということである。イエスはもちろんそのことはわかっていた。

 罪を犯した人間は死ななければならないということ、そして罪を犯した人間を救うためには、その罪をだれかが死をもって償わなければならないことを知っていた。

 死を犯した人間は、死をもって償う、それは旧約聖書に明確に、厳しく記され、命ぜられていることである。そこでは、父母を呪う者、ただ口先で呪っただけでも、死ななければならないと命ぜられている。まさか実際にそんなことが行われたわけではないだろうが、それほどに罪に対する罰は厳しかったということである。

 罪は無償で赦されるものではなかった。罪は死をもって償わなければならない、これは厳しく命ぜられていることなのである。それほどに神は罪を憎んだ。

 旧約聖書では、死刑という制度は明確であった。今日、死刑制度廃止がキリスト教では当たり前になっているけれど、本当にそれは聖書的だろうか。もちろん、死刑には、冤罪という問題があるから、死刑というものは、問題があることはあきらかである。あるいは国家という名のもとに、殺人ということが許されるかという問題もある。

 しかし、そうした問題があっても、なお死刑制度というものが存続する背後には、人を殺した者は死を持って償わなければならないという思いが厳然としてあるからである。
 自分の子を無残にも殺された遺族が、その殺人を犯した犯人が、裁判で無期懲役になったときに、それに不満をもち、死刑にしてくれと絶叫する思いは痛切である。被害者遺族にとっては、自分の子を殺した犯人が死刑になってもなんの得にもならないのである。しかしそれでも死んで償ってほしいと叫ぶのである。

 人を殺した者は、死をもって償う、償わせなくてはならない。そのために、復讐という情念がほとばしる。

 しかし、復讐という私的リンチでは、復讐の思いは連鎖していく。一倍の復讐はやがて七倍の復讐を引き起こし、七倍の復讐を正当化してしまう。だから聖書では、「目には目を、歯には、歯を」という律法が生まれた。片目を潰されたら、相手の片目だけを傷つることにとどめなさい。それ以上の復讐はしてはいけない、という戒めである。

 創世記四章には、レメクの復讐の歌が載っている。
「わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐ならば、レメクのための復讐は七十七倍」。
 
 「目には目を、歯には歯を」という戒めは、あの七倍の復讐の論理の歯止めのためなのである。しかし、それも「歯を傷つけた者には、歯だけを折るだけにとどめよ」という復讐の連鎖を止めるための戒めだったのだが、それはやがて、それを逆手にとって、「歯には歯をもって復讐してもよい」という論理にすりかえられてしまった、復讐を正当化する論理に変えてしまったのである。それほどに私的リンチという復讐はエスカレートしてしまう。

 それで、イエスは「目には目を、歯には歯」という戒めがあるが、しかし、「悪人に手向かうな。右の頬をうつものには、左の頬をもむけよ」といわれて、復讐を正当化する論理を食い止めようとされたのである。

 旧約聖書にある死刑という制度は、人間に罪を抑制させるためのものではない。人を殺したら、死刑になって、死ななければならないから、人を殺ろさない、などという人はいないだろう。死刑制度は人に殺人を抑制させるためのものではない。

 旧約聖書に記されている死刑制度は、罪を抑制するための教育的効果をねらったものではない。そうではなくて、いわば神のための制度なのである。

 ノアの洪水のあと、神はこう言われる。それまでは植物だけが人に許された食物だったけれど、動物を食べることも許した。そのあと、神はこういわれる。
「しかし、肉をその命である血のままで、食べてはならない。あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復する。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは命のために、報復する。人の血を流すものは、人に血を流される。神が自分のかたちに人を造られたからである」(創世記九章)というのである。

 ひとりひとりの命は、神がお造りになった命だ、神がこよなく愛されている命だ、その命を壊す者を、神は許さないというのである。
 だから神は死刑制度を容認するというのである。それは、神ご自身のための制度なのである。

 神はそれほどに、われわれひとりひとりを愛しておられる、その神が愛している命を傷付け、奪う者を許すことはできない、罪を犯した人間には、神はあくまで償いを求めるというのである。
 神は罪を憎んでおられる。それは神の正義なのである。罪は死をもって償わなければならない、これが神の正義である。

 罪を犯した人間がただちに死ぬわけにはいかない、そのために、罪を犯した人間が死ぬ代わりに、罪のない仔羊を身代わりに燔祭として捧げるといういけにえの儀式がおこなわれるようになった。

 しかし動物をいけにえとしてささげるという儀式は、やがて形骸化していって、その儀式さえ行えば、罪は赦されるのだという安易な罪の赦しの思いがひろがっていった。

 そのために、神は「生け贄をよろこばれない、神の受け入れられるいけにえは、砕けた魂、砕けた悔いた心だ」と言われるようになったのである。

 罪の報酬は死である。その死を誰が負うか。どんなに清らかそうに見える仔羊を生け贄として捧げても、それは形骸化していった。それは罪の阻止にはならない。それは安易な罪の赦しになるだけだからである。

 では、誰がその死の償いをするのか。それは神ご自身がするというのである。
 神が神ご自身の愛する神のひとり子であるイエスにそれをさせようとするのである。そうすることによって、人間に罪の重さを知らせようとするのである。

 神ご自身が罪に対する罰を引き受ける、そうすることによって、神の正義を貫き、人間に罰を与えないで、その罪を赦そうとするのである。神の正義は、神の愛として示そうとされたのである。

 イエスはそのことを思い続けて、ゲッセネマネの園まで来た。そしてイエスは、最後に父なる神にぶつけるのである。「アバ、父よ、あなたにできないことはありません。どうかこの杯をわたしから取りのけてください」と祈った。

 このとき、イエスは「悲しみのあまり死ぬほどである」といわれる。十字架の死が恐ろしいというのではない。悲しい、というのである。屠られる仔羊として死ぬということは、神に見捨てられて死ぬということだからである。あれほど愛している父なる神から切り離される、見捨てられる、だから死ぬほどに悲しいというのである。

 われわれは、神から切り離される事、神に見捨てられることを悲しいと思うだろうか。怖いと思うかもしれない。しかし、悲しいと思うだろうか。怖いと思うのは、ただ自分が神から捨てられて地獄におとされるから怖いだけの話なのである。

 われわれは、神から捨てられることを怖いとは思うかもしれないが、悲しいとは思わない、どこまでいっても自分のことしか考えない。
 しかし、イエスは父なる神から切り捨てられることを悲しいと絶叫した。それほどにイエスは父なる神を愛していたからである。

 父なる神はそのイエスの祈りに、一言も応えようとはしない、沈黙をまもったままである。イエスがヨハネからバプテスマを受けたときに、「これはわたしの愛する子」という天使を通しての神の言葉があった。あの山の上でモーセとエリヤと話をしているときにも、「これはわたしの愛する子」という言葉があった、それなのにこのゲッセマネの園では、イエスの祈りに父なる神はひとことも応えない。

 イエスは、「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころになさってください」と祈っても、父なる神はなにひとつ応えようとしない。
 
 イエスはその神の沈黙に直面し、ここに父なる神の堅い、そして、深いみこころとご計画を知り、ゴルゴタの道を歩むのである。

 イエスは十字架につけられたのは朝の九時、そして昼の十二時に全地はくらくなって、三時仁及んだ。イエスはその六時間ひとことも言葉を発していなかったと、マルコとマタイは伝えている。
 そして最後に「エリ、エリ、ラマサバクタニ、わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで息を引き取られた。

 イエスはその間、ただひたら自分が本当に十字架で死ぬのか、死ぬことが人間の罪の贖いのために必要なのか、それが本当に父なる神のみこころなのかと考えつづけた。

 十字架の上で、犯罪人の悪態とか悔い改めの言葉など聞く余裕はなかった、それに応える余裕などなかったのではないか。まして、弟子たちに自分の母の老後の世話などを託すなどという余裕はなかったのではないか。

 そしてそれはあのゴルゴタの上の十字架までもつづいた。イエスはその間、ただ、自分は本当に十字架で死ななければならないのか、そのことが本当に人間の救いになるのか、人間に罪の重さを伝えることになるのか、これが人間を救うことになるのか。

 イエスはただ自分のことだけ、自分の託された使命のことだけを考え続けた。そして息を引き取ったのである。

 そして父なる神はそのようにして、罪の生け贄としての仔羊として死んでいったイエスの死を、その贖いの生け贄として受け取った、それが三日後のイエスを死からよみがえらせたという復活の出来事だったのである。

 あのイエスの十字架の死によって、「罪の報酬は死である」という神の義が貫かれ、その罰を、ご自身が引き受けることによって、人間の罪を赦したという神の愛が示されたのである。


 パウロはこう言う。「今や、神の義が示された。それはイエス・キリストを信じる信仰による神の義であった。・・すべての人は罪を犯したために、神の栄光をうけられなくなった、しかし神はいまや、キリストの十字架の死を通して、値なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって義された。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰を持って受くべき、贖いの供え物とされた。それは神の義を示すためである。すなわち、今までに犯された罪を神は忍耐をもって見逃しておられたが、それは今の時に、神の義を示すためであった。こうして神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」(ロマ章三章)
 「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは時いたって、不信心な者たちのために死んでくださった。・・・まだ罪人であったときに、わたしたちのためにキリストが死んでくださったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちはキリストの血によって今は義とされたのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう」(ロマ五章)というのである。

 神の義は神の愛によって示されたのである。

 あの十字架で示された神の義は神の深い愛であったことが復活によってあきらかになった。

 その十字架で示されたキリストの愛が、ルカ福音書に記され、ヨハネ福音書に記されているあの十字架の記事を生み出したのではないか。

 あのルカ福音書が記す犯罪人に対するイエスの言葉「今日、おまえはわたしと一緒にパラダイスにいる」という言葉、ヨハネ福音書にある母マリアを弟子に託した記事は、決して嘘だったのではない。それは十字架の愛が生み出した神学的真実の記事なのである。

 われわれは、福音書を読むときに、これは本当のことだろうかといちいち詮索する必要もないし、そんなことをして福音書を読んでしまったら、福音書を読む正しい姿勢とはいえないだろう。われわれにとって大事なのは、史実ではなく、真実なのである。神学的真実なのである。

 イエスはあの十字架の道行きで、ただひたすら、自分のことだけ、自分の使命、これが本当に神の義と神の愛を示す道なのかと思い続けたのである。