「神の憐れみによって生きる」 創世記二二章一ー一四節
                                      ローマ書十二章一ー三節

 
 ある時、神はアブラハムの信仰を試されました。アブラハムに、「おまえの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地にゆけ。そしてわたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす捧げ物として献げよ」と命じるのです。

 「おまえは神に従うために、我が子を殺すことができるか」と、アブラハムの信仰を試したというのであります。
 
 アブラハムはそれに従いました。そしてイサクを神に捧げるために、殺そうとして、刃物をとりました。
 刃物をとったということは、それはもうイサクを殺したと同じであります。

 そのとき、主の使いがアブラハムに言いました。「その子に手をくだすな。おまえが神を畏れる者であることが、今わかった。おまえは自分のひとり子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかったからだ」と告げます。

 そのとき、アブラハムが目をこらして見回すと、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行って、その雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす捧げ物として捧げた。

 それで人々はそこを「主の山に備えあり」というようになったというのであります。

 神はアブラハムに対して、自分の子を殺して神に捧げよと、理不尽に服従させようとしました。しかし、神はなぜ、アブラハムに対して、それを最後まで遂行させないで、それをやめさせたのでしょうか。

 なぜ神はそれを途中でやめさせたのか。

 もし、アブラハムがわが子イサクを焼いて殺して神に捧げたとしたら、アブラハムの信仰はどうなっていたでしょうか。彼は自分の信仰を誇ったのではないか。自分はこんなにまでして神に服従しようとしたといって、自分の信仰と自分の強靱な意志と自分の行為を誇ったのではないか。

 のちに、アブラハムが、息子のイサクから「お父さん、あのとき、あなたはわたしを殺そうとしましたね」といわれたとしたら、アブラハムはどう答えただろうか。それはアブラハムにとっては、自分は我が子を殺そうとしたのだと、彼の生涯の自分のトラウマになっていったのではないか。
 しかし、アブラハムは息子からそう問われたときに、彼は息子にこう答えたのではないか。「イサクよ、そうだ、確かにわたしはおまえを殺そうとした。しかしわたしはそのとき、同時にもう自分自身も殺そうとしていたのだ」と堂々と答えたのではないか。

 確かに、アブラハムはそのとき、我が子を殺すと同時に、自分自身も殺そうとした。たがらアブラハムは我が子に対して、堂々としていられたのではないか。つ
 このとき、アブラハムは、何よりも自分を殺して、神に従おうとしたのであります。アブラハムは、自分の自我を殺して神に従うとしたと思います。

 しかし、自分の自我というものは、自分で殺せるものでしょうか。自分で自分の自我を殺したとしても、自分の自我を殺したという「自分が殺したのだ」という自分の自我は残ってしまうのではないか。

 このとき、神がアブラハムに対して我が子を殺させなかったのは、そのアブラハムのいわば天晴れな信仰、立派な信仰を捨てさせようとしたのではないか。
 
 神はそのアブラハムの信仰と行為、その自我を捨てさせたのであります。そしてその代わりに雄羊を神は用意しておられた。その雄羊を捧げ物として捧げさせたのであります。

 その捧げ物は、神が用意し、神が備えた捧げ物であります。神は、その神が用意した捧げ物を捧げて、アブラハムを神に服従させようとしたのであります。

 神はアブラハムが自分の信仰、自分の意志、自分の行いによって神に従っていこうとする信仰をやめさせたのであります。 
 そうして、神は、神が用意してくださった供え物、つまり神の憐れみによって、それを信じて、神に従う道をアブラハムに示したのであります。そのようにして、神はアブラハムの信仰を試したのであります。
 
 アブラハムの信仰がまさに絶好調のとき、その信仰が最大限に高揚したときに、神はそのアブラハムの信仰を捨てさせて、
「おまえは自分の立派な信仰によってではなく、ただ、ただ、神の憐れみを信じて、神に従いなさい」と諭したのであります。

 その山の上で備えてくださった捧げ物は、あのゴルゴタの山の上に備えてくださった、十字架で死んでくださった神のひとり子イエス・キリストという供え物を指し示すものであります。

 つまり、われわれが自分の信仰の熱心さや、自分の意志の強さや、自分の立派な行為によって神に従い、生きようとするのではなく、あくまで、神の憐れみによって、イエス・キリストの十字架の死の贖いによって示された神の憐れみによって、われわれは生きなくてはならないということであります。

 われわれが生きることができるのは、ただ自分の立派な信仰や、自分の強靱な、自分の立派な意志の力なんかではないのです。

 われわれが生きるためには、だれかの助けが必要なのだ、その助けとは、少し大げさにいえば、誰かの犠牲、誰かが犠牲になってくれて、われわれははじめて、生きることができるのだということであります。

 そしてその助けは、その犠牲は神が備えてくださったのだということに気づくことが大切なのであります。

 ここで、不思議だなと思うことがあります。どういうことかいいますと、主の使いは、アブラハムに「我が子イサクを殺すな」とは命じましたが、その代わりにあの雄羊を殺して捧げよとは口にだしては命じてはおられないということです。

 確かにそれは、神がその雄羊を用意しておられた、備えてくださったものであります。神が備えてくださったものであります。
 神はそのことを口にだしては、つまり、「わたしがおまえの子イサクの代わりに、雄羊を用意しておいてあげたから、それをイサクの身代わりに捧げなさい」と口にだしては、言っておられないのです。
 そのことに気づくが気づかないかをアブラハムに任せられた。それに気づくということが、われわれの信仰なのではないか。そのことに気づいて生きるようになるということがわれわれの信仰なのではないか。

 われわれは、あの雄羊、それは究極的には、イエス・キリストの十字架の贖いということですが、その十字架によってわれわれの罪が赦され、われわれは生きることができるようになったのであります。

 われわれが信じようが信じまいが、われわれがそれに気づこうか気づくまいが、イエス・キリストの十字架の贖いという事実はあるのです。大事なことは、それに気づくかどうか、それを信じるかどうかということであります。そして、それに気づき、それを信じるかどうかは、われわれに任せられているのです。

 アブラハムはそれに気づいたのです。そして「主の山に備えあり」という信仰をもつことができたのであります。

 先日、ある雑誌に、五木寛之という作家と、ある女優との対談の記事を読んでいたら、こういう事を五木寛之が言っておりました。彼が石原慎太郎と対談したときに、自力が大切か、他力が大切か、つまり自分の力でけで生きるという自力か、神仏に頼るという他力が大切かという話になった。

 そのときに、石原慎太郎こういった。宮本武蔵が巌流島での佐々木小次郎との決闘にいくときに、途中、神社の前をとおりかかった。そこで、手を合わせようしてはたと気づいた。「こうやって神仏の力に依存するというのは、すでに負けたも同然だ。ここは自力だ、自力で勝たなくてはならない」と、思った。神に依存するなどとしてはいけないと思い直して、決闘に挑み、勝った、だから自力が大切だという意味のことをいった。

 それに対して五木寛之がこういったというのです。「自力でなくちゃダメだと気づかせたものこそ、他力の声、つまり神の声だ。神社の前で、手を合わせようとして、そしてそれをやめた、そうさせたのは神社という存在だ、つまり、その他力の声に動かされて自力で戦って勝った。他力は自力の母なんだ」と言ったというのです。それに対して石原慎太郎は「また君はそんなことを言って、人を騙す」と言って笑った、というのです。

 われわれが生きるのは、自力か他力ということです。神を信じるということは、もちろん、他力なのです。しかし、それならば、われわれはなにもしないのか、われわれは何も努力しないでいいのか、まるで夢遊病者のように、洗脳されて生きていればいいのかといえば、そんなことではないことは、われわれはよく知っていると思います。

 信仰生活には、努力が必要です。それこそ、なんでも神任せなどと無責任な生き方をするわけではないと思います。われわれは自分で決断し、自分で判断し、自分で行動するのです。しかしわれわれ信仰者は、その背後に神の導きがあることを信じてそうしているのです。それこそ、他力は自力の母なのではないかと思います。

 われわれ信仰者も、誤解されるかもしれませんが、ほとんどの場合、いわば自力で、自分の力で生きている、生きようとしているのです。だからわれわれは始終挫折し、転び、倒れるのです。しかしパウロがいっているように、そのたびに立ち上がるのです。
「われたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方にくれても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されてもほろぼされない」のです。

 われわれ信仰者も行き詰まるのです、挫折し、始終倒れるのです。しかし、そのたびにわれわれは、そこからたちあがることができるのです。
 なぜか。われわれがどんなに行き詰まって、倒れても、そのわれわれを立ち上がらせてくださるかたがおられることをわれわれは知っているからです。
 われわれは、「その神の宝を我々人間という弱い土の器の中にもっている」のです。「その計り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでない」ことを知っているのです。たからわれわれはたちあがることができるのです。われわれを立ち上がらせる力は、自分のなかにはない、しかしわたしを越えたところにあることをわれわれは知っている、信じているのです。

 「だから私たちは落胆しないのです。たとえ、「わたしたちの外なる人が滅んでも、内なる人は日々新たにされていくことをしっているのです。

 われわれ信仰者も努力して生きているのです。しかし、その努力もまた神が私に努力させてくださっていると信じて努力して、自分の力を信じて、いわば自立して歩き、生きているのです。神の支えを信じているからであります。他力は自力の母なのであります。

 神は雄羊を用意してくださいました。雄羊を準備してくださいました。それに気づくかどうかは、アブラハムに任せたのであります。

 われわれは神の憐れみによって生きるのです、生きることができるのです。しかし、その神の憐れみの背後には、自分の身代わりに死んでくださるかたがおられる、自分の代わりにほふられてくださった神の子羊が用意されていた、備えられていたのです。主イエスの十字架の死が準備されていたのであります。

 それは具体的にも、われわれのこの世での日常生活においてもわれわれはだれかの犠牲によって、犠牲というとおおげさかもしれませんが、だれかの助けを受けて、だれかの介護によっていきているのです。だからある時には、われわれもまた人を助け、人を介護して生きようとするのであります。

 それでは最後に、そのようにして、神の憐れみによって生きるということは、具体的にはどういう生き方になるかを短く考えてみたいと思います。

 それはパウロがローマの信徒への手紙の一二章で語っているところであります。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」といって語っております。

 パウロは、まず第一に、「自分を過大に評価してはならない」といいます。口語訳でいいますと、「思うべき限度を越えて思い上がるな」といいうこと、つまり、謙遜、へりくだるということなのです。

 キリスト者の生き方の第一は、人を愛するということではなく、謙遜になることだというのです。「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきてす」といいます。

 そして、パウロが、われわれが謙遜にならなくてはならない理由として第一にあげているのは、神の前に謙遜になれ、ということではないのです。人の前に謙遜になれということであります。

 神の前で謙遜になりなさいということは、もう十分言ってきているからかもしれません。パウロはまず人の前に謙遜になれというのです。神の前に謙遜になっても、人の前で謙遜になれない人は神の前で謙遜になったとは決していえないのです。

 そして人の前に謙遜になれ、とパウロがいうときに、大変おもいがけないことに、それは、人間はみなそれぞれ違うからだと、その理由を述べるのです。

 ひとはみなそれぞれ違う、その事実を認めなさいということであります。それぞれの個性を大切にしてあげなさいということです。それは神がそれぞれの人に違った賜を授けているからだというのです。他人は自分とは違う個性をもった存在なのだ、その事実を受け入れることが自分を謙遜にすることなのであります。個性というものは、神が与えた賜なのです。

 個性などというとカッコがいいですが、個性にはいい個性もあれば悪い個性だってあるのです。個性ということは、あの人は自分とは違うのだということです。

 個性を認めるということは、それぞれのその人の生き方を認める、ということです。その人の存在を認めるだけでなく、その生き方も認めるということです。それをパウロは人間の体に例えて、人間の肢体はそれぞれ働きも価値も違う、だから、その個性を認めなさいというのです。それが謙遜になるということの理由だというのです。

 パウロはコリントの信徒への手紙では、コリント教会の分裂の状態を憂えて、互いに批判してはならないと警告し、このようにいっています。
 
 人間の肢体はさまざまあるが、みな同じ価値があるのだというのです。しかし実際歯、人間の肢体の価値は、心臓や脳は一番価値があり、大切な筈です。それに比べれば、小指の爪など価値が低いのです。しかしパウはなぜ同じだというのでしょうか。
 それはもうこのとき、パウロは「役に立つものが尊い」という価値観をすてているのです。この世の社会は「役に立つものが尊い」という価値観です。しかしその価値観を教会にまで持ち込んでしまうと教会の分裂を引き起こす。パウロは「同じキリストという体」に属しているから尊いのだというのです。

 「役に立つものが尊い」という価値観でわれわれは支配されすぎていないか。

 キリスト者は一律であってはならないのです、個性的でなければならないのです。その信仰のあらわしかたもそれぞれ違っていいのです。個性的な信仰生活ということであります。真面目な人は真面目ななりに、そしてだらしない人はだらしないなりに信仰生活を送ればいいのです。

 そして次に、パウロは愛しなさいというのです。まずへりくだり、謙遜にならなくては、真実の愛を現すことはできないのです。そしてその愛は「兄弟愛を持って互いに深く愛し、互いにあいてを尊敬し」というのです。「互いに愛し、尊敬しあうことと」が大切だというのです。それは
 一方的な自己犠牲的な愛ではなく、お互いに愛し合う愛であります。そして「愛には偽りがあってはならない」といい、「泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜びなさい」と、互いに愛し合うことを勧め、そして、最後に「復讐してはならない」と勧めるのであります。
 これが神憐れみによってわれわれが具体的に生きる道なのであります。