「聖霊によって生きる」  使徒言行録二章


  今日は聖霊降臨日です。ペンテコステとも言われております。ペンテコステというのは、ギリシャ語で、五十という意味です。これはユダヤの祭りで、過越の祭のあと、五十日目に行われるお祭りで、五旬節とも言われております。

 その日に、イエスの弟子たちに聖霊が下って、それからイエスの弟子たちが神様からの力を得て、イエスの死と復活という神の大きな働きを述べ伝えはじめて、そこから教会ができあがっていったということで、ある意味では、教会の誕生日にも当たるわけです。

 その様子は、使徒言行録の二章に記されております。復活したイエスが四十日の間地上でご自分の姿を現してから、天に昇られましたが、そのときに、弟子たちに十日待ちなさい、あなたがに聖霊が下って、力が与えられると約束して、天に昇られたのであります。

 そしてその十日が経った日、五旬節の日、ペンテコステの日に、弟子たち一同が一つになって集まっていたときに、突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響きわたった。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話したというのであります。

 そのとき、このエルレサムには、天下のあらゆる国々から帰ってきた信心深いユダヤ人たちが住んでいたが、この物音に大勢の人が集まってきた。そしてだれもかれも、自分の故郷の言葉で話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんでいった。
 「話しているこの人たちは、みなガリラヤ人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。これはどうしたことか。彼らがわたしたちの言葉で神の偉大なことを語っているのを聞くとは」と言って、みな驚き、とまどい、「いったいこれは、どういうことなのか」と互いにいいあったというのであります。

 これが聖霊降臨日の出来事であります。

 弟子たちという集団に、聖霊が降った、なにか神秘的といえば神秘的な出来事、神の大きな働きが見えるようにして起こり、そしてそれによって、あの弱い弟子たちが強くされて、イエスの福音を述べ伝えはじめ、そこから教会が誕生したのであります。

 そしてこの出来事は、旧約聖書の創世記にある、あのバベルの塔の出来事と関連があるのだということであります。

 バベルの塔とは、創世記十一章にある記事ですが、そこの始まりの言葉は「世界中は同じ言葉を使って、同じように話をしていた」という言葉から始まっております。そして人々は考えた。ここは口語訳でよみますと、「町と塔を建てて、その頂を天にとどかせ、そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」となっております。「レンガを作り、それをよく焼いて、天まで届く塔のある町を建て、その頂きを天に届かせて、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」といった。
 それを見て主なる神は言った。「彼らは一つの民、みな同じ言葉を話しているからこのようなことをし始めたのだ。これでは彼らが何を企てても、妨げることはできない。降っていって、直ちに、彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしてしまおう」と、主なる神はお考えになったというのです。
 
 主なる神はそこから人々を全地に散らされたので、彼らはこの町の建設、つまり天にまで達する高い塔を建てる計画をやめさせられたという記事であります。

 この記事だけをよみますと、これがなぜ神の怒りをかったのかよくわからないかもしれませんが、ここはリビングバイブルをみますとこうなっております。「永遠の残る記念碑として、天にも届くような塔の神殿を造り、自分たちの力を見せつけてやろう」と訳されております。

 つまりここでは、人間が自分たちの力で天にまで上がって、もう神様なんか必要としない文明の地を造ろうではないかと考え始めたということであります。人間がもう神様なんかいらないと考えはじめたというのであります。

 その発端が、同じ言葉、同じように話をしていることから始まったのだということであります。それで主なる神はその言葉をばらばらにした、バベルという言葉は、バラルという言葉、「混乱させる」という言葉からきているのであります。

 世界中が同じ言葉では、なぜいけないのか、主なる神はそれをどうしてとてつもない危険なこととお感じになったのかということであります。

 われわれは世界中が同じ言葉だったならば、どんなによいかと思いたくなります。そこではすぐ意思疎通が行われ、こんなに便利なことはないのにと思いたくなるのであります。

 しかし、同じ言葉を語るということは、同じ思想をもつということであります。同じ考えをもつということであります。そしてそれ以外の思想をもつことを排除するということであります。それがどんなに危険なことかということであります。
 
 他の思想をもつことは許されない、それは独裁者が民衆を支配する時にすることであります。

 かつての日本がそうでした。戦時中がそうでした。「鬼畜米英」「欲しがりません、勝つまでは」、という標語をわたしは今でも鮮明に覚えております。まず言葉による統制が行われました。そのようにして、天皇を神に祭り上げ、天皇を利用したのであります。人間の天皇を神にして、独裁体制を確立したのであります。ドイツでは、「ハイルヒットラー」でした。

 一つの思想に統一するためには、まず言葉の統一を強行するのです。思想統制は、言語統制だったのです。

 人間が独裁者になる、人間が神になるためには、まず言葉の統制が行われたのです。思想は一つでなければならないのです。これがどんなに危険なことかということであります。

 そして創世記のあのアダムから始まった罪の歴史は、このバベルの塔にて、天にまで達する塔を建てて、自分たちが神になり、もう神の必要としない文明を作り上げようということになったのであります。アダムから始まった罪は、ここに頂点に達したのです。

 それで主なる神は、全地の言葉を混乱させ、彼らを全地に散らされたのであります。
 
 少し先取りして話しますか、そのあと、創世記はアブラハムの召命の記事が始まり、一つの民族を通して、神のみこころを伝えようされたのであります。

 全世界を直接対象にするのではなく、一つの民を選んで、その民を通して神のみこころを伝えようとされて、アブラムを選んだのであります。
 しかしその選ばれたイスラエルの民は、自分たちは特別に選ばれたのだと誇りだし、おごり高ぶり、堕落の歴史を歩み始めたのです。
 
 そのために、神はとうとう神のひとり子イエス・キリストをこの地上に送ったのであります。

 神は「彼らは一つの民で、みな一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、それを妨げることはできない」といって、一つの言葉、同じ言葉を乱したてのあります。

 しかし、ペンテコステの日、聖霊が天からくだったときに、弟子たちはそれぞれ違う言葉で語りだしながら、その言っている意味がみなよくわかったというのです。「互いの言葉が聞き分けられるようになった」というのであります。

 それは、一つの言葉に統一して、だからその言っている意味がよくわかったというのではないのです。聖霊降臨という出来事は、一つの国語に統一されたという出来事ではないのです。あのバベルの塔の前の状態にもどったということではないのです。

 弟子たちの語る言葉、それぞれの国の言葉なのです、それでもそれを聞いた人々はみなその意味がよくわかった、意思疎通ができたということなのであります。
  
 それは一つの言葉に統一されたということではないのです。人間の思いが一つに統一されたというのではないのです。違った言葉をもちながら、違った思想や考えをもちながら、意思疎通ができるようになったということなのです。なぜなら、人々は聖霊に満たされた弟子たちの言葉によって、「神の大きな働き」を聞いたからです。

 「神の大きな働き」とは、そのあとのペテロの説教をみるとわかりますが、簡潔にいえば、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神の大きな愛が示された、そのことがよくわかったということであります。

 愛が与えられることによって、相手を愛そうという愛の心が与えられて、どんなに違った言語でも、どんなに違った思想の持ち主でも、相手の言い分をよくきこうとする愛が与えられた、そのことによって、意思疎通が生まれたのです。
 そのようにして、あのバベルの塔で起きた言葉の混乱が克服されたということであります。

 使徒言行録では、聖霊を受けた弟子たちは、「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話した」と記されていおります。そこに集まった人々も「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いてあっけにとられ、驚いたと記されております。

 ここは、文字どおりに読む必要はないと思います。たとえば、ここに日本人がいた場合、弟子たちがいきなり、日本語を話しだしたとなってしまいます。そんなことは考えられないことであります。言語というものは、その国での長い長い歴史を通して形成されたもので、弟子たちがいきなり日本語を語りだしたと受け取るのは無理があると思います。

 それよりは、弟子たちがたとえ、彼らの普段使っているガリラヤの言葉を使って、話をしていたとしても、その言っている意味、つまり神の大きな働きのことを語っているのだなあということがよくわかったと理解したほうがいいと思います。そこにたとえ日本人がいたとしても、弟子たちが日本語で語らなくても、たとえ、それが弟子たちの言葉、ガリラヤの言葉であったとしても、その言葉を理解したということであります。

 このあと、弟子たちを代表してペテロが話し始めますが、ペテロはガリラヤの言葉で話し始めるのであります。しかしそれをみなよくわかったのであります。

 聖書が「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話した」という表現は、これは神学的な表現で、あの聖霊降臨という出来事があのバベルの塔での出来事、神が一つの言葉を乱し、言葉をバラバラにさせて、混乱されたという神の裁きが、ここで、聖霊が与えられることによって、それが混乱ではなく、お互いに愛しあうことによって、どんなに言葉がちがい、思想が違い、思いや考え、趣味や生き方がちがっていても、そこに愛が与えられて意思疎通ができるようになったということを示そうとしているということであります。

 聖霊降臨という出来事は、歴史の上でただ一回起こった、いわばエポックメイキング、画期的な出来事であります。科学は、それが繰り返しおこらなくては、それが正しいとは証明されないようですが、聖霊降臨という出来事は、これは一回限りの出来事なのであります。

 これは神がなさった出来事で、人間が引き起こすことではないのです。よくアシュラムとかいうキリスト教の修養会がありますが、そのプログラムのなかに、「聖霊充満の時」という時間が設定されておりますが、人間がどんなに敬虔な祈りを捧げて、なにか清い心を作ったとしても、それで聖霊を充満させるなんてことはできるはずはないのであります。それは大変傲慢なプログラムではないかとわたしなんかは批判したくなるのであります。

 イエスの弟子たちは、確かに復活のイエスにお会いして、立ち直りました。しかしそれだけでは、彼らは本当の意味で立ち直ることはできませんでした。その復活のイエスはまた四十日後に天に昇られてしまって、彼らの目からはみえなくなったからであります。

 しかし、その弟子たちに、あのペンテコステの日に、神の力の働きが弟子たちの心のなかに与えられた、あのイエスを死からよみがえらせた神の力が、ただ単にイエスだけに与えられたのではなく、自分たちにも、自分たちの心の内部にも、あたえられたのであります。だから、弟子たちは勇気を与えられ、大胆に神の大きな働きを述べ伝えることができるようになったのであります。

 あの時代には、集団的に聖霊が起こったように使徒言行録はその出来事を語っておりますが、それはやはり特別の時代だったので、あの時代の一回限りの歴史の出来事だったと思います。

 しかし、今は、集団ではなく、ひとりひとりの心のなかに神の聖霊が与えられると考えたほうがいいと思います。

 われわれひとりひとりに聖霊が与えられるのであります。わたしはそんな聖霊を受けたことがないという人がいるかもしれません。しかし、具体的に何日の何時何分ということでなくても、われわれがこの日常の生活のなかで、なにか自分の力を越えた力がふと与えられたという経験をしたことはあるとおもうのです。
 自分は生かされて生きている、自分は生かされた、そういう経験をしたことはあると思います。それが聖霊体験というものであります。それはなにも神秘的な出来事ではないのです。

 パウロは、コリントの第一の手紙の十二章で、「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えない」といっております。
 それは逆にいえば、われわれが「イエスは主である」と告白し、信じることができていれば、それは聖霊によるのだということなのです。なにもあからさまに、あえて、聖霊という言葉を使わなくてもいいと思います。

 わたしは説教のなかで、あまり「聖霊」という言葉は使わないのです、聖書に聖霊という言葉がありますから、使いますが、そのときでも、聖霊という言葉を使ったあとは、すぐ「神の見えざる働き」と言い換えているのであります。

 われわれは「生かされて生きる」のだという信仰をもっていれば、それは聖霊を信じて生きるということなのであります。つまり、自分の力だけを信じて生きるのではなく、自分の外から自分の上から思いがけない力が働いて生かされるのだ、そういう時があるのだと信じて歩む、それが聖霊によって生きるということであります。

 ヨハネ福音書には、イエスが「霊によって生きる」ということがどうしてもわからないというニコデモに対して、「驚いてはならない」というのです。「驚いてはならない、風は思いのままに吹く、あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」といっているところがあります。

 霊と風というのは、ギリシャ語では同じ言葉なのです。風が思いのままに吹くように、霊も思いのままに吹くのです。われわれは聖霊を自分の所有物にしてはいけないのです。自分は聖霊が与えられたなどと誇りだすと、聖霊はその人からするりと逃げてどこかに去ってしまうのです。

 聖霊は人間が、われわれが自分の所有物にしてはならないのです。聖霊は風のごとく自由に吹いてくるのです。いつ、どこで吹いてくるかわからない、聖霊は自分の所有物にはできないわけですから、いつも自分を明け渡す用意をしておかなくてはならないのです。

 パウロは、「主の霊があるところには、自由がある」といっております。われわれを不自由にする最大のものは、自分自身であります。自分の自我、自分の自我にとらわれてしまって、自分の執念にとらわれてしまっているとろには、聖霊は働かないかもしれません。
 もちろん、聖霊は神の、主の霊ですから、そうしたわれわれの自我とか執念をうちこわして働いてくると思いますが、しかし、聖霊を信じて生きようとするならば、いつでも自分を明け渡す用意をしながら生きなくてはならないと思います。

 自分にとらわれないで生きるということは、それはいつも人を受け入れ、人を愛していこうとする生き方であります。

 聖霊を信じて生きる生き方として大事なことは、霊の働きは個性的であるということであります。

 あの弟子たちに聖霊が降ったときには、聖霊は「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」というのです。聖霊がくだったときには、集団ヒステリーのような状態におちいるのではなくて、ひとりひとりの上にとどまったというのです。

 それをパウロは、霊の賜はひとりひとりに、その霊の働きが与えられるのだというのです。「ある人には知恵の言葉、ある人には霊によって知識の言葉」というように、霊の賜はそれぞれ個性的にあたえられるというのです。役に立つ個性もあれば、あまり役に立たない個性もあるというのです、しかしあまり役に立たないからといって、排除し、批判してはならないというのです。みなイエス・キリストという同じからだに属しているからだというのであります。

 霊によって生きるとは、個性的に生きるということなのです、そこに自由が生まれるのです。個性が抑圧されて、クリスチャンはみな一律だなんてこは、それは霊によって生きる、霊によって生かされることではないのです。

 聖霊は「炎のような舌が分かれ分かれて、ひとりひとりの上にとどまった、というのです。聖霊のよって生きるというこは、それぞれが個性的に生きるということです、相手の個性を受け入れて生きる、それはつまり相手を愛して生きるということなのであります。