「十字架による罪の赦し」       イザヤ書五十三章
                                      ローマ書三章二一ー二六節

 
 私が松原教会で一番最初に説教したときに、それはまだ赴任まえのいわば挨拶的な礼拝での説教だったと思いますが、わたしはこういう話を最初にしたと記憶しております。

 わたしが牧会しておりました大洲教会での出来事です。教会員の妹さんが近くに住む青年に学校の帰り道で犯されて殺されてしまったという事件がおこりました。姉は教会員でしたので、その妹さんも何回か礼拝に出席したこともあって顔見知りでした。

 その知らせを受けて、教会の青年たちを連れてさっそくお見舞いにかけつけました。どう対応していいかわかりませんでした。そのなかでも、殺された娘さんのお母さんはしっかりとしておりました。

 そのお通夜での出来事です。その日が教会の祈祷会だったために、わたしは出席できませんでしたが、青年会のひとたちがそれに出席しました。その様子を後で、青年たちから聞きました。

 その通夜の席に、娘さんを殺してしまった青年の両親もかけつてきたそうです。そのときに、その両親は土間に土下座して「赦してください、赦してくざたい」と何度も何度も頭をさげたそうです。その時に、殺された妹の姉さんが、「妹を返してくれ」と絶叫したそうです。そうしたら、殺された娘さんの母親がその姉の頬をたたいて、「そんなことをいうものではありません」とたしなめたということであります。

 わたしはその通夜の様子を青年会の青年から聞かされのですが、そのとき、人間の犯してしまう罪によって起こるさまざまな姿を思い知らされたのであります。

 ひとたび犯された罪は、犯された遺族の立場からすれば、どこまでも「妹を返してくれ」と、償いを求める。しかし罪を犯してしまったほうからいえば、どんな償いをしても、もう償うことはできない、ただ土下座して「赦してください、赦しください」と謝るしかないのだということであります。

 そして、娘を殺された母親の思いであります。なんとかして、必死に赦そうとする、その姿であります。

 いちど犯してしまった罪は、ただ、ただ、赦してもらう以外にない、どんなに償いをしても償うことはできない、ただ、ただ、もう「赦してください」と願う以外にないのであります。

 わたしがそのことを学んだのは、東京神学大学の教授でありました竹森満左一が、使徒信条の解説書なかで、「罪の赦し」の項目のなかでの一節の文章でした。

 竹森満左一はこう書いているのです。
「罪のもっとも大切な点は、罪を犯したら、神に対しても、人間に対しても責任ができることだ。だから罪を犯した者は、悔い改めて良い生活をしようとしてみても、何にもならない。なぜなら自分がしたことに対して、償いをしていないからだ。償いは訂正ではない。やり直しではない、文字どうり償いをすることだ。そのことになると、人間には、どうにもならない。自分が、他の人に与えた目に見える、あるいは、目に見えない損害をどうやって償うというのか。まして神に対してはどうしたらよいか。
 責任をつぐなうただひとつの道は、赦してもらうことだ。すべての人に対していちいち赦してもらうことはできない。ただ、神に赦してもらう、それしかないのだ」という文章です。

 「罪はただ赦しもらうしかない」、その言葉は、わたしには衝撃的でした、そしてその言葉に出会って、わたしは罪のなんたるかを初めて知った思いがしました。

 われわれはただただ神様に対して「赦してください」と願うことしかできない、そのために主イエス・キリストの十字架の赦しがあったのだと悟ることができたのであります。

 わたしが松原教会でしてきた二六年の間の説教は、「罪は赦してもらうしかない」この一点だけを説教してきたように思います。それ以外にないのだ、我々が悔い改めて良い行いをしようが、どんなに熱心な敬虔深いお祈りをしようが、そんなものは自分の犯した罪の償いにはならない、ということです。

 「罪はただ赦してもらう以外にない」この事実を少しでも曖昧にしてしまう、律法主義的な生き方、良い清らかな生活をしなくてはならないとか、熱いお祈りの生活をしなくてはならないとか、そういう生き方をわたしは勧めることはしなかったのではないかと思います。

 「罪はただ赦してもらうしかない」という事実は、罪を赦してもらうわれわれ人間の側のことであります。
 
 「罪を赦す」立場のほうでは、その罪を赦すために、大変な過酷な償いを果たしてくださっているのであります。

 パウロはこう言っているのです。罪を赦してもらうわれわれの方では、「無償で」つまり「ただで」「価を払わないで」ということであるが、その背後では、「キリストによるあがない業があるのだ。そのお陰で、われわれのほうでは、無償で義とされたのだ。神がキリストを通してつぐないを果たしてくださった、その恵みによって、その恵みを信じることによって、罪の赦しはわれわれに明らかにされたのだとパウロはいうのです。

 罪が赦される、その背後には、なんらかの大いなる犠牲、つぐないがあったのだということであります。
 
 イスラエルの王ダビデは、自分の部下ウリヤの妻バテシバを奪って姦淫し、妊娠させてしまいました。ダビデ王はバテシバが妊娠したことを知ると、それが発覚することを恐れて、卑劣な手段でその夫ウリヤを殺してしまいました。そして知らん顔を決め込んでおりました。王様なんだから、これくらいの事はどうと言うことではないと高を括っていたのであります。

 しかし、神はそれをゆるしませんでした。神は預言者ナタンを送ってその罪を明らかにしました。ダビデはその自分の犯した罪に気づき、悔い改めました。それに対して、神はその罪を赦すといわれました。

 しかし、ただ赦したのではなく、預言者はこう言うのです。「神はおまえの罪を取り除く。おまえは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして神を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるおまえの子は必ず死ぬ」と告げるのであります。

 ダビデの罪は赦されたのであります。しかし、その背景には、我が子の死という償いがあったのであります。

 ダビデは我が子が重い病気になると、必死にその病がいやされることを神に願います。しかし、その願いにもかかわらず、子供は死んでしまいます。すると、ダビデはたたぢに、身を洗って香油を塗り、衣を替えて、主の家にいって礼拝をしたのであります。

 ここの箇所を竹森満左一は説明して、「ここには悲しみはある、しかし不平はない、悔いもない。ただ神のなさることにすべて委ねるだけだった」と言っているのであります。

 自分の犯した罪に対して、一つの償いがあった、我が子の死という犠牲があったのです。「無償で赦される、ただで赦される」その背後には、犠牲があった、償いがなされていたということであります。

 イザヤ書五十三章は、「主のしもべ」「苦難のしもべ」といわれていて、これは後のイエス・キリストのことを預言したものだといわれております。
 後にこういうメシアが現れるだろうという預言であります。
このメシアは「見るべき面影はなく、輝かしい風格もなく、好もしい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」。

 しかし、彼がそのような醜い姿をしているのは、われわれの醜さを身代わりに負ってくださっているのだというのです。神はわれわれを裁くかわりに、その僕にすべての罰を負わせたのだ。彼のもっている醜さ、彼の受けている傷、それは実はわれわれが受けるべき傷なのだ、そのことがわかったときに、われわれはすいやされ、救われるのだと預言するのであります。

 「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされたのだ」とこの預言者はいうのです。聖書のなかでも、この言葉くらい不思議な言葉はないと思います。

 われわれの病がいやされるのは、薬によるのでもなく、手術によるのでもないのです。肉体の傷ならば、薬でいやされるかもしれません。しかし、われわれの心の病、罪という病は、そんなものではいやされないのです。

 ただ、「彼の受けた傷、本当はわたしが負わなければならない罰という傷、その傷を彼が負ってくださった、その傷によってわれわれはいやされるのだ」というのです。

 旧約聖書にある「償いの思想」の最後に、それのとどめとして、神の子イエス・キリストの十字架の償いの死があったということを聖書はわれわれに伝えるのであります。

 わたしは引退してからは、テレビづけですが、そのなかでも夜わたしが好んでみるのがサスペンス劇場、いわゆる刑事物であります。見終わったあと、いつも思うのは、ああ見なきゃ良かった、こんなくだらないドラマをみて、という感想なのですが、しかしそのなかでいつも思わさせられるのは、被害にあった遺族の悲痛な悲しみと怒りであります。

 無垢な娘が理不尽に暴行されて殺されてしまう、それは遺族の立場からすれば、殺した犯人に対しては、到底赦すことなどできない、復讐心でたえぎっている光景であります。たとえ、犯人が捕まって死刑になったとしても、到底その罪を赦すことはできないだろうな、という痛切な悲しと怒りであります。

 そういう光景をみていると、わたしは死刑廃止論などということを安易にいえるものでないことを知るのであります。

  ある時、そのテレビの光景を見ていて、ふと、思ったのは、もしその時、その罪を赦すことができるとすれば、罪を犯した人に対する罰を、誰かが身代わりに引き受けてくれた人がいる、そういう事実を信じることができたとしたならば、どうだろうかと、ふと思ったのです。

 そしてその罰を引き受けてくれた人は、自分自身は罪を犯したことがないのに、罪を犯した人間の罰を、黙々と引き受けてくれた、その事実を知り、その事実を信じることができたとしたら、あるいは罪を赦してあげることができるかもしれないと思いいたったのであります。

 もしその人がイエス・キリストの十字架の償いというものを信じられたならば、その罪を赦してあげることができるかもしれないと思ったのです。

 わたしの任地で起きた事件、娘さんを無残にも殺されてしまったお母さんが、「妹を返してくれ」と悲痛な叫びをあげるその姉をたしなめて、歯をくいしばって、娘を殺してしまった青年の罪を赦そうとした背後には、このイエス・キリストの十字架の償いを信じていたからではないかと思い至ったのであります。

 そのお母さんはクリスチャンではありません、「成長の家」の熱心な信者だったと聞いております。「成長の家」という宗教は、いろんな宗教のいいところを寄せ集めて教義にしているということであります。そのなかで、お母さんは、イエス・キリストの十字架の贖いの教えを信じたのかもしれない。イエスという名前は教えられなかったかもしれません、しかし、そういう贖いの信仰を教えられたことがあったのではないか。

 これはわたしの勝手な推測にすぎません。しかし、この贖いの信仰がなければ、われわれは到底人の罪を赦すことはできないと思います。

 
 罪は赦してもらう以外にない、と繰り返しのべましたが、われわれは人を殺したこともなければ、殺そうと思ったこともないかもしれません。そのようなわれわれにとって、罪は赦してもらうほかはないというメッセージは、なにか意味があるのでしょうか。

 罪とはなんでしょうか。罪とはただ人を殺してしまうということなのでしょうか。聖書が伝えようとしている罪とは、単純化していえば、自分を中心にして生きる、そのためには他人を蹴落として、他人を殺してまでして、自分中心にして生きるということであります。罪とは、もっと単純化していえば、自分を誇るということであります。

 旧約聖書にこういう記事があります。
 ある時、神はアブラハムの信仰を試されました。アブラハムに、「おまえの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地にゆけ。そしてわたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす捧げ物として献げよ」と命じるのです。おまえがどれだけ神の命令に服従するかどうかを試すために、神はその理不尽な命令をアブラハムにするのであります。

 アブラハムはそれに従いました。そしてイサクを殺そうとして、刃物をとり、イサク殺して、神に捧げようとしました。
 刃物をとったということは、それはもうイサクを殺したと同じであります。

 そのとき、主の使いがアブラハムに言いました。「その子に手をくだすな。おまえが神を畏れる者であることが、今わかった。おまえは自分のひとり子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」と告げます。

 そのとき、アブラハムが目をこらして見回すと、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行って、その雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす捧げ物として捧げた。それで人々はそこを「主の山に備えあり」というようになったというのであります。

 神はアブラハムに対して、自分の子を殺して神に捧げよと、理不尽に服従させようとした。しかし、神はなぜ、アブラハムに対して、それを最後まで遂行させないで、それをやめさせたのでしょうか。

 もし、アブラハムがわが子イサクを焼いて殺して神に捧げたとしたら、アブラハムの信仰はどうなっていたでしょうか。彼は自分の信仰を誇ったのではないか。自分はこんなにまでして神に服従しようとしたといって、自分の信仰と自分の強靱な意志と自分の行為を誇ったのではないか。

 のちに、アブラハムが、息子のイサクから「お父さん、あのとき、あなたはわたしを殺そうとしましたね」といわれたとしたら、アブラハムはどう答えただろうか。それはアブラハムにとっては、一生自分のトラウマになっていったのではないか。
しかし、アブラハムは息子からそう問われたときに、彼は息子にこう答えたのではないか。「イサクよ、そうだ、確かにわたしはおまえを殺そうとした。しかしわたしはそのとき、同時にもう自分自身も殺そうとしていたのだ」と堂々と答えたのではないか。

 確かに、アブラハムはそのとき、我が子を殺すと同時に、自分の自我も殺して神に従うとしたと思います。しかし、自分の自我というものは、自分で殺せるものでしょうか。自分で自分の自我を殺したとしても、自分の自我を殺したという自我は残ってしまうのではないか。

 神はそのアブラハムの信仰と行為、その自我を捨てさせたのであります。そしてその代わりに雄羊を神は用意しておられた。その雄羊を捧げ物として捧げさせたのであります。

 その捧げ物は、神が用意し、神が備えた捧げ物であります。神は、その神が用意した捧げ物を捧げて、アブラハムを神に服従させようとしたのであります。

 神はアブラハムが自分の信仰、自分の意志、自分の行いによって神に従っていこうとする信仰をやめさせたのであります。 
 そうして、神は、神が用意してくださった供え物、つまり神の憐れみによって、それを信じて、神に従う道をアブラハムに示したのであります。そのようにして、神はアブラハムの信仰を試したのであります。
 
 「主の山に備えあり」という信仰は、神様は最後には我々の願いをかなえてくださるというわれわれの御利益的信仰を保証してくれることではないのです。
  
 アブラハムの信仰がまさに絶好調のとき、その信仰が最大限に高揚したときに、神はそのアブラハムの信仰をやめさせて、
「おまえは自分の立派な信仰によってではなく、ただ、ただ神の憐れみを信じて、神に従いなさい」と示したのであります。

 その山の上で備えてくださった捧げ物は、あのゴルゴタの山の上に備えてくださった、十字架で死んでくださった神のひとり子イエス・キリストという供え物であります。

 つまり、われわれが自分の信仰の熱心さや、自分の意志の強さや、自分の立派な行為によって神に従い、生きようとするのではなく、あくまで、神の憐れみによって、イエス・キリストの十字架の死によって示された神の憐れみによって、われわれは生きなくてはならないということであります。

 そのことを信じて生きるときに、われわれは人の罪も、人の過ちもまた赦すことができるようになるのではないか。

 最後にこのことを述べたいのです。
 聖書は、人を殺した犯罪人のために書かれた書物ではないのだということです。実際に人を殺した人のために、福音を伝えようとしたのではないのです。

 「罪の赦し」という福音は、ペテロに対して、パウロに対して伝えられたのです。それはつまり、われわれのために伝えようとしている福音なのです。

 なぜかといえば、福音は、イエスを実際に十字架で殺した大祭司、長老律法学者たち、あるいはピラトのために伝えようとはしていないということであります。

 聖書は、あの十字架の出来事で一番印象深く描いているのは、ペテロの裏切りではないかと思います。ペテロが最後に三度、イエスなんか知らないと、イエスを裏切り、そしてそのことをあらかじめイエスも知っておられたということに気づき、外に出て激しく泣いたという記事であります。

 十字架からよみがえった復活の主イエスがまず最初にご自身を現わそうしたのがこのペテロだったのであります。マルコ福音書には、神は天使を通して、復活の事実を、弟子たちに、そしてなによりもペテロにと、わざわざペテロの名前をあげて、ペテロを名指しして、ペテロに告げよと言われているのであります。

 復活の主は、実際に十字架へと追いやり、手をかけて殺した大祭司、長老たち、ピラトにご自分の復活を示そうとはしませんでした。
 
 自己保身のために、先生を裏切ってしまったペテロ、自分の心の弱さ、自分の卑怯さに泣いて悲しんでいるペテロを励まし、そのペテロに罪の赦しを告げようとされたのであります。

 またテレビの話ですが、この間、ある刑事のドラマをみておりましたら、それは警察の隠蔽工作を告発するドラマだったのですが、警察が自分たちの組織を守るという自己保身のために、隠蔽工作をするのです。
 そのなかでこういうセリフがあったのです。
 「すべての犯罪は、自己保身から始まる」というセリフであったのです。わたしはそのセリフを聞いたときに、「あっ」と思ったてのです。まさにこれはペテロの罪だと。

 そしてその自己保身のために犯した罪に苦しみ、嘆いているペテロのところに、復活の主イエスはなによりもご自身をあらわそうとしたのだということであります。

 パウロもキリスト者たちを迫害したときに、実際に人を殺したことはなかったかもしれません。ステパノが殉教の死をとげたときに、パウロは、実際には石をもってステパノを殺そうとはしていないのです、ただその人たちの服の番をしていただけであります。

 しかし、パウロは使徒行伝には、迫害して人を殺してとはいっていますが、パウロはみずから自分の手で人を殺したことはなかったかもしれませんが、しかし、実際に人を殺し、犯罪に手を染めた誰よりも深く深く自分の罪を知り、嘆き苦しんだ人であります。そのパウロに復活の主はご自身を現し、罪の赦しを宣言したのであります。

 つまり、聖書が問題にしている罪は、語弊をまねくかもしれませんが、われわれの心のなかに深く執拗に染みついている罪、自己保身という罪、自分を誇るという罪、われれの心の内面の罪だということであります。
 まさに、罪の赦しの福音は、何よりもわれわれに伝えようとしているのであります。

 神の憐れみによって生きるということは、具体的にはどういう生き方になるのでしょうか。

 それはパウロがローマの信徒への手紙の一二章で語っているところであります。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」といって語っております。

 まず第一に、「自分を過大に評価してはならない」といいます。口語訳でいいますと、「思うべき限度を越えて思い上がるな」といいうこと、つまり、謙遜、へりくだるということなのです。

 キリスト者の生き方の第一は、人を愛するということではなく、謙遜になることだといいます。そしてその理由は、「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきてす」といいます。

 つまり、われわれが謙遜ならなくてはならない理由として第一にあげているのは、神の前に謙遜になれ、ということではなく、人の前に謙遜になれということであります。それは、人間はみなそれぞれ違うのだ、その事実を認めなさいということであります。それぞれの個性を大切にしてあげなさいということです。それは神がそれぞれの人に違った賜をさずけているからだというのです。他人は自分とは違う個性をもった存在なのだ、その事実を受け入れることが自分を謙遜にすることなのであります。個性というものは、神が与えた賜なのです。

 個性を認めるということは、それぞれのその人の生き方を認める、ということです。その人の存在を認めるだけでなく、その生き方も認めるということです。それをパウロは人間の体に例えて、人間の肢体はそれぞれ働きも価値も違う、だから、その個性を認めなさいというのです。それが謙遜になるということの理由だというのです。
 キリスト者は一律であってはならないのです、個性的でなければならないのです。その信仰のあらわしかたもそれぞれ違っていいのです。わたしが松原教会で一番心がけたことは、個性的な信仰生活ということであります。真面目な人は真面目ななりに、そしてだらしない人はだらしないなりに信仰生活を送ることを勧めてきました。

 そして次に、パウロは愛しなさいというのです。まずへりぐり、謙遜にならなくては、真実の愛を現すことはできないのです。その愛は一方的な自己犠牲的な愛ではなく、お互いに愛し合う愛であります。「愛には偽りがあってはならない」といい、「泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜びなさい」と、互いに愛し合うことを勧め、そして、最後に「復讐してはならない」と勧めるのであります。
 これが神憐れみによってわれわれが具体的に生きる道なのであります。