「偽証するな」出エジプト記二十章一三ー一七節


十戒の第九の戒めは「隣人に関して偽証してはならない」であります。

 当時のイスラエルの社会では、村単位で裁判が行われていたようであります。なにか犯罪やもめごとが起こると、村の長老が裁判官になって、その解決に当たっていたようであります。そのときに決め手になるのが、本人の自白と、周囲の人の証言であります。三人の証言が一致していたら、その証言は真実なものとなったようであります。

 今日の裁判は、物証が決め手のようであります。本人の自白とか、証人の証言だけでは、決定的なものにはならないようであります。それは人間の自白とか、証言というものがどんなに当てにならないものであるかを経験上知ってきたからではないかと思います。それは、われわれが状況によっては、いくらでも「うそをつく」からではないかと思います。

 しかし、当時の社会では、まだまだ人間を信用していたのかもしれません。決め手は自白であり、隣人、つまり第三者の証言のようであります。つまり、人の語る言葉が信用されていたようであります。

 ときどき紹介しますが、リビングバイブルでは、実に簡潔この 第九の戒めを「うそをついてはならない」と訳しております。

 われわれは今日、裁判の席につくということはあまりないと思います。しかし、われわれもまた日常の生活において、人との交わりのなかで、「うそをついてしまう」ということはいくらでもあると思います。

 そうしますと、この十戒の第九の戒め、「隣人に関して偽証してはならない」という戒めも、「うそをついてはならない」という戒めとして受け止めるならなば、大変身近な問題になると思います。

 我々は今日、言葉というものをどれだけ信用しているでしょうか。今日、われわれは、言葉というものをあまり信用していないのではないか。つまり、われわれは事と次第によっては、平気で偽証する、偽証という言葉がおおげさならば、平気で嘘をつくということはいくらでもあるのではないか。

 ヨハネ福音書の冒頭の言葉は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は神と共にあった」とあります。そして「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とつづきます。

 つまり、この「言」とはイエス・キリストのことであります。

 そして皆様もご承知のように、この聖書の「言葉」という字は、「言」という一字、つまり葉っぱを意味する「葉」という字はつかわれていないのです。これは、文語訳の時代からそうであります。

 辞書には、「葉」がついていない「言葉」という字はは載っていなのです。それなのに、聖書のこのヨハネ福音書の冒頭の「言葉は、なぜなぜ、「葉っぱ」を意味する「葉」という字を省いて、「言」という一字にしたのか。

 それは、おそらく、言に葉をつけますと、なにか、葉っぱのようにひらひらと吹き飛ばされてしまう、つまり、軽さを表してしまうので、それを避けて、この「言」はもっと重々しい存在としての「言」をあらわしたかったのではないかと思います。

 つまり、今日「言葉」というのは、ある意味ではふけばとばされてしまうような軽々しいものになってしまったからではないかと思います。

しかし、この「言葉」についている「葉」という字は、葉っぱのもつ瑞々しい緑を表す意味で、和歌の言葉につかわれていたようで、決して軽々しい意味はなかったようであります。

 しかし今では、言葉に対する信用が失なわれてしまったので、このヨハネ福音書の冒頭のイエス・キリストを表す「言葉」は「葉」という字を省いて、「言」と一字にしたようであります。

 ヨハネ福音書の冒頭の言葉「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」というのは、創世記の一章にある言葉から来ているものであります。

 そこではこう記されて降ります。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の表にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ、すると光があった』」とあります。

 「神は言われた、神は言葉を発した、そうすると「光ができた」と記されているのです。つまり、言葉による創造であります。

 それを受けて、ヨハネ福音書は「初めに言があった」と記すのであります。

 つまり、言葉というものがどんなに大事か、神の言葉というものがどんなに大事かということを聖書はわれわれに語るのでりあます。

 元来は、言葉という字は、もともと大変重々しい意味をもったもので、これは「真実」を表す意味をもったものだったのであります。それがいつのまにか、吹けば飛ぶような軽薄なものになってしまったのであります。

 今日、今の時代は、人間の、われわれの吐く言葉をあまり信用しなくなっています。さきほどにもいいましたが、犯罪の証明には、本人の自白とか、他人の証言だけでは、信用できなくて、物証が求められるのであります。物証がないと起訴できないようであります。

 しかし、今日、偽証罪という罪が残っているところをみますと、今日、人間の言葉による証言というものを信用しようという姿勢はまだまだ残っているということであるかもしれません。

 しかし、テレビの報道では、最近、詐欺被害者が増えているそうであります。それはとくに高齢者を対処にした詐欺が増えている。

 われわれはそういう被害にあった高齢者をみると、なんと愚かなことかと思ってしまいます。しかし、詐欺にあう高齢者は、人間の言葉というものをまだまだ信じている時代に生きた人なのではないかと思います。人の言葉というものを信じていた時代に生きてきた人であります。
 しかし、今はもうはじめから人の言葉を信用しない時代であります。果たしてどちらの時代がしあわせなのでしょうか。

 絶対にだまされないぞ、といっている人間と、人の言葉を信用してだまされてしまう人間と、果たしてどちらが、人間として立派かといわれれば、絶対にだまされないと威張っている人間よりは、少しはだまされてしまう愚かさをもっている人間のほうが人間として良質なのではないか。

 人の言葉を全く信じられなくなってしまう時代、それはほんとうにさびしい時代ではないでしょうか。
 
 しかし、われわれが使う言葉に対する信用のなさは、なにも今日だけではなく、主イエスの時代に、すでにあったようであります。

 イエスの言葉に、「主よ、主よ、と言う者が、みな天の国に入るのではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』というであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちの事は全然しらない。不法を働く者とも、わたしから離れ去れ』」といっているのであります。

 またイエスは、律法には「偽りの誓いをするな」とあるが、
「しかし、わたしは言っておく、一切誓ってはならない」というのであります。われわれの誓う言葉は、もうすべて信用ならないとイエスは思っていたようであります。

 偽証ということでわれわれがすぐ思い出すのは、イエスが十字架へと向かう最高法院での裁判であります。

 祭司長と最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった、最後に二人の者が来て、この男は「神の神殿を打ち壊し、三日あれば建てることができる」と証言した。これがきっかけになって、とうとうイエスは神を冒涜する者として死刑ということになったという記事であります。

 祭司長たちは偽証によって、イエスを十字架へと引き渡したという記事であります。

 そしてそのあと、すぐ続いて、聖書はペテロのイエスに対する否認の記事を置くのであります。

 イエスが捕らえられた祭司長の庭の外の中庭にペテロは、自分の先生がどうなるかを見ようとして座っていた。そこへペテロもイエスの仲間ではないかと言い出す人々が現れた。ペテロはそれを打ち消し、「あなたがたが何を言っているかわからない」といい逃れるのであります。
 「そんな人は知らない」と、イエスとの関係を否定するのであります。そして最後に「確かにおまえもあの連中の仲間だ。言葉遣いでわかる」と詰め寄られますと、ペテロは呪いの言葉さえ口にして、「そんな人は知らない」と誓い始めるのであります。

 「呪いの言葉さえ口にだし」というのは、自分の言うことは嘘ではない、うそだったら呪われて地獄におとされてもかまわないと言う意味であります。

 ペテロがどんなに必死にイエスとの関係を否定しようとしているかということであります。

 すると鶏が鳴いた。ペテロは鶏が鳴く前に、「おまえは三度わたしを知らないというだろう」と言われたイエスの言葉を思いだし、外に出て激しく泣いた、と聖書は記すのであります。

 これはある意味では、偽証ではないかと思います。
自分とイエスとの関係があんなに密接だったのに、それを否定するということは、これはある意味で、偽証であります。

 福音書が、大祭司たちが偽証を求めて、イエスを十字架へと追いやろうとしたことと並べて、すぐそのあとに、このペテロの偽証の記事をおいているのは、考えさせられることであります。

 イエスを十字架へと追いやった大祭司たちの偽証と、イエスを否認してしまうペテロの偽証と、同じものなのだと聖書はわれわれに教えているのであります。
 
 確かに、ペテロがイエスを否認しようがしまいが、イエスは十字架へと追いやられたには違いないでしょうが、しかし、イエスにとっては、どちらの偽証が心の痛みになったでしょうか。

 ある意味では、大祭司たちの偽証によってよりは、このペテロの偽証のほうが、イエスを十字架へと追いやったのではないか。

 このペテロの偽証という人間の罪、自分の弱さのためにイエスを否認してしまうという人間の弱さから来る偽証、自己保身の故の偽証、ここに我々人間の罪の根源があるのではないか。

 自己保身という生き方、ここに我々人間の根源的な罪があるのではないか。
 
 そしてこの人間の罪を問題にし、この罪のために、イエスは十字架にかかろうとしたのではないか。

 なぜなら、復活したイエスは、なによりも自分が復活した事実をペテロに伝えようとしたらかであります。

 福音書をみますと、イエスの復活の事実を伝える天使は、こういうのです。「おどろくことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あのかたは復活なさって、ここにはおられない。さあ行って、弟子たちとペテロに告げなさい。『あのかたはあなたがたよりも先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかる』」と告げるのであります。
  
 「弟子たちとペテロに告げなさい」と、弟子たちとペテロにと、わざわざ、ペトロという名前をもちだして、イエスの復活の事実を伝えようとしているのであります。

 イエスは、「わたしはおまえの罪のために十字架にかかり、そしておまえの罪を赦すために、そのことを伝えるために、わたしは復活したのだ」とイエスは、ペテロに伝えたかったのではないか。

 復活したイエスは、ペテロに対して、「おまえはこの人たち以上にわたしを愛するか」と三度にわたって、問うのであります。三度、そのように言われて、ペテロは自分が三度イエスを否認したことをいやでも思い出して、悲しくなったのです。そして「主よ、あなたはなにもかもよく知っておられます。わたしかあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えたのであります。

 ペテロは、自分自身がどんなに弱い人間であるかを知っている、そしてそれ以上に何よりもイエスがそのことを知っておられる、それにもかかわらず、あえてもう一度、「わたしを愛するか」と、復活のイエスは自分に問い直してくださっていることにペテロは気づいたのではないかと思います。

 それでも、このとき、ペテロは「もうあなたを愛せません」とは答えないで、ペテロは「それでも、どんなに自分が弱い人間であっても、わたしはあなたを愛します」と答えたのであります。

 ここに罪赦されたペテロの姿があるのではないか。

 われわれが罪赦されるということは、過去の犯した罪が赦されるということだけでなく、これからも犯すかもしれない罪、いや、確実に犯してしまう罪と闘いながら、生きる力を与えられるということであります。

 われわれは、人をおとしいるための偽証という罪は犯さないかもしれません。しかし、自分の保身のために偽証してしまう、嘘をついてしまうという偽証という罪は犯すかもしれません。

 しかし、そういう弱いわれわれのためにイエス・キリストは十字架についてくださり、よみがえってくださり、われわれの罪を赦し、われわれが自分の罪と戦う力を与えてくださったのであります。

 パウロがテモテに送った手紙Ⅱ、こういう言葉があります。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実である」、ここは口語訳ではこうなっています。「わたしたちは不真実でも、彼は真実である」。

 イエス・キリストの十字架の赦しという真実に支えられて、わたしの不真実を克服していきたいと思います。