「あなたの父母を敬え」出エジプト記二十章一二節
マタイ一○章三四ー三九節


 十戒の第五の戒めは、「あなたの父母を敬え」であります。

 十戒は、神が二枚の石版の上に、神がご自分の指で書かれたと記されております。そうしますと、当然、五つづの戒めが二つに分けられて記されたのであります。この「父母を敬え」という戒めは、第五の戒めですから、戒めの前半、「わたしをおいてほかに神をおいてはならない」という戒めに始まる、神に関する戒めのなかに入るわけです。

 従ってこれは、十戒の後半「殺すな」に始まる、いわばこの世での社会倫理に関する戒めではないということであります。

 つまり、この「父母を敬え」という戒めは、親孝行をせよという戒めではないのです。

 レビ記にはこういうことが記されております。
「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい、わたしは主である」とあります。

 つまりイスラエルの社会で、目上の人を尊ぶのは、その背後にある神を畏れ、尊ぶことと密接につながっているということであります。なぜ、長老、白髪の人、父母を敬わなくてはならないのか、それはその長老、父母を通して、神を敬うということと密接につながっているからであります。

 イスラエルにおいては、親が、父母が子供に神様のことを教える義務を負っているのであります。だから子供は、「あなたの父母を敬いなさい」と戒められているのであります。

 イスラエルの子供は、両親を通して、神様のこと、この社会でどう生きたらいいかをおしえられるのだ、だから「父母を敬う」ということが大切なのだということであります。

 旧約聖書では、父親の姿をどのように描いているでしょうか。旧約聖書では、十戒に「あなたの父母を敬え」という戒めがあるにもかかわらず、父親の姿をことさら、立派に描こうとはしていません。

 たとえば、ノアであります。神様は人間が悪いことばかりするので、大洪水を起こして、世界を再創造しようとしたときに、ノアだけは、神様から裁かれるのを免れました。ノアは神に従う無垢な人だったからであります。ノアの一族だけは、大洪水から免れたのであります。

 ところが、大洪水の後の話になりますが、ノアは農夫になり、ブドウ畑を造った。あるとき、ノアは酒を飲んで酔っぱらい、天幕のなかで、裸で寝ていた。ところが次男のハムはそれを見て、二人の兄弟に告げ口をした。すると二人の兄弟セムとヤフェトは、その父親の醜態を見るのがいやで、自分たちの着物を肩にかけて、後ろ向きに歩き、父親の裸をみずに、着物で被ってあげたのであります。

 父親のノアは後に酔いが醒めたときに、息子たちの取った行動を知り、カナンを呪ったというのであります。

 あんなに神様から好意を寄せられたノアも、その最後は子供たちの前で醜態をさらけだした父親であったことを聖書は記すのであります。聖書は父親の姿を決して尊敬すべきものとしては書こうとはしないのであります。

 あるいはアブラハムの子、イサクであります。イサクにはエサウとヤコブという双子がいた。しかし、父親のイサクはエサウのほうを偏愛したというのです。その理由は、エサウが狩人で、彼が取ってくる獲物が好物だからだったと記すのであります。

 今日は、その物語をくわしくは語りませんが、皆様ご承知のように、ヤコブは卑劣な手段で、耄碌した、目が見えなくなった、今日でいえば認知症になった父親イサクをだまして、エサウを退けて、長子の特権を奪ってしまうのであります。これも耄碌して、ただ鹿の肉が食べたいというのが生き甲斐になってしまった父親の情けない生き方が原因だったのだと聖書は記すのであります。

 イサクの父親、アブラハムの場合はどうでしょうか。アブラハムはイスラエルの父祖として、また信仰の模範者として描かれている人物であります。

 そのアブラハムも手放して、立派な人物として描かれてはおりません。

 今日はくわしいことは、話しませんが、アブラハムはあるとき、土地の王様から自分の命を救うために、自分の妻、サラを自分の妹だと偽って、自分の妻サラが奪われても、自分の命だけは助けようとしたことが記されております。

 しかし、聖書は、アブラハムをイスラエルのもっとも模範的な父祖として評価するのであります。それは、アブラハムが自分の息子イサクを神に命じられて、焼き尽くすささげものとして、その命を捧げようとしたからであると記すのであります。

 焼き尽くす捧げもの、というのは、口語訳では、はん祭と訳されておりますが、要するに、動物、羊を薪で焼いて、その煙は上昇するわけで、つまり天に上って行く、神様のところに上っていく、そういう儀式がおこなわれていたわけです。神様に対するささげものとして、羊を殺してたきぎで焼くという儀式があったのです。

 今、神はお前のひとり子イサクをそのはん祭の捧げものとして殺して焼け、と命じるのであります。

 アブラハムにとって、イサクは百歳になってようやく与えられた子供であります。彼のすべてといってもいい、彼の将来がかかっているものであります。それを手放せというのです。それを神に捧げよと命ぜられるのであります。我が子を殺せと命ぜられるのであります。

 それは創世記の二二章に記されている記事ですが、わたしはこの箇所は、聖書のなかでも、もっとも恐ろしい記事ではないかと思います。
 
 神から我が子を殺して、神に捧げよと命じられたアブラハムは、ロバに鞍を置き、そこにささげものに用いる薪を割り、ふたりの若者と我が子イサクをつれて神の命じられた山に向かうのです。途中、ふたりの若者には、ここでまっていなさいといって、アブラハムは我が子イサクとふたりきりで、山に向かいます。二人の若者に我が子を殺して焼くところをみせたくなかったらがてあります。

 その途中、イサクは父アブラハムに「わたしのお父さん」と呼びかけた。アブラハムは、「わたしはここにいる。わたしの子よ」と、答えます。するとイサクは「火と薪はここにありますが、焼き尽くす捧げものにする羊はどこにいるのですか」と父に尋ねるのであります。アブラハムにとっては、一番聞かれたくないことを聞かれるのです。
 
 アブラハムは苦し紛れにこう答えます。「わたしの子よ、焼き尽くすささげものの子羊はきっと神が備えてくださる」と答えて、山に登っていくのであります。

 このとき、イサクは自分が殺されるべき、やくつくすささげものとしての子羊だと悟ったと思います。

 神が命じられた場所につくと、アブラハムは、そこに祭壇を築き、薪を並べ、息子を縛って、祭壇の薪の上においた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子イサクを殺そうとしたのであります。

 そのとき、天から主の御使いの声が聞こえて来た。「アブラハムよ、その子に手を下すな。何もしてはならない。お前が神を畏れるものであることが、今、わかった。お前は自分のひとり子である息子すら、わたしに捧げることを惜しまなかった」と告げられて、アブラハムは危うく、我が子イサクを殺すのを免れたのであります。

 そしてアブラハムは目を凝らして見回すと、そこに雄羊の角が木の茂みにとられていて、身動きできないでいた。彼はその雄羊捕らえて息子の代わりに焼き尽くす捧げものとして捧げた。

 アブラハムは我が子イサクを殺さないですんだのであります。

 確かに、アブラハムはわが子イサクを殺さなかったかもしれませんが、彼が薪の上にイサクを置いて、刃物を取って、殺そうとしたということは、もう殺したと同じだと思うのです。

 そのことをヘブル人への手紙では、「アブラハムは、神が人を死者のなかから生き返らせることもおできになると信じたから、そうしたのだ」と説明しております。
 ここをみますと、ヘブル人の手紙もまた、実祭には、アブラハムはわが子イサクを殺さなかったかもしれないが、それは殺したと同じことをしたのだといっているのです。しかしヘブル人の手紙では、アブラハムが我が子を殺すことができたのは、「神は必ず、死者を中から生き返らせることができると、アブラハムは信じたからだ」と、ここを説明しているのであります。

 しかし、これはイエスの死者からのよみがえりを経験し、それを信じたものの解釈であります。

 アブラハムにその信仰があったとは思えません。ただ、アブラハムには、あくまで、神を信頼したということは確かだと思います。自分にはよくわからないが、ともかく神に従っていこう、神に服従しよう、それが信仰だと思っていたことは確かだと思います。

 イサクから、「捧げものの羊はどこにありますか」と尋ねられたときに、アブラハムは、苦し紛れに「それは神がきっと備えてくださる」と答えていますが、それは単に苦しまぎれの答えてはなく、アブラハムは、本当に本気にそのことを信じていたのかもしれません。

これは聖書には、記されてはいないのですが、わたしの想像ですが、後に、アブラハムが、息子のイサクから、「お父さん、あのとき、あなたはわたしを本気になって殺そうとしましたね」と聞かれたときに、アブラハムはどう答えたでしょうか。おそらく、アブラハムは、こう答えたに違いないと思います。
「そうだ、わたしは確かにお前をあのとき、殺そうとした。しかしそれと同時に、お前だけでなく、わたしは自分自身も殺そうとしたのだ」と答えたと思います。

 ですから、このあと、この二人の親子関係には、なんの亀裂も、トラウマもうまれなかった。アブラハムは、我が子を殺そうとしたときに、自分も殺していたからであります。うしろめたさはひとつもなかったのであります。

 アブラハムは、ただ我が子を殺そうとしたのではなく、我が子イサクを神に命じるままに、神に捧げようとして殺そうとしたのであります。
  
 アブラハムは、あくまで神に従うとした、神に信頼して、神を信じて、神に従おうとしたのであります。

 アブラハムにとっての神様は、いつも自分の願い通りに動いてくれる神ではなかったのです。

 ある人が言ってりおましたが、神はわれわれの小市民的幸福を満たすために存在するかたではないということであります。

 イエス・キリストは、こう言っているのです。「わたしが来たのは、ただ、この地上に平和をもたらすてめに来たのではなく、剣をもたらすために来たのだ」といわれたのです。

 そして、こう続けるのです。「わたしよりも父母を愛するものは、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子、娘を愛するものは、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従ってこないものは、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとするものは、それを失い、わたしのために命を失うものは、かえってそれを得る」といわれたのです。

 十戒では、「父母を敬え」と命じているのです。しかしイエスはここでは、平気でというか、大胆に「父母を敬うよりは、父母を捨ててまでして、神を敬え」といわれるのです。

それは自分を捨てて、神に従えということであります。そうしたら本当の命が得られるということであります。

 われわれの信じている神は、われわれが信じなくてはならい神様は、自分の願い通りに動いてくださる神さまではないのです、ある時には、お前の子供を殺して、捧げよと命じられる神様なのです。

 日本においても、世界においても、いろいろな自然災害がもたらせれております、それによって多くの被害がでております。それは神がそうなさっているのだ、言うのは、軽率でありますが、すくなくとも、神はそれが起こっていることを黙認しておられるとしか思えないのです。それでもわれわれは神を信じることができるか。

 自分の思い通りに動いてくれる時だけ、神を信じ、そうでない時には、神を信じないというのでは、神を信じたことには、絶対にならないのです。

 アブラハムは、父親として、父親としてであります、父親として、我が子イサクに、自分が信じている神は、こういう神なのだと身をもって示そうとしたのです。

 我が子を殺せと命ぜられる神を信じるのです。しかし、それと同時に、その神は、「その子を殺すな。なにもしてはならない」と命じられる神であります。「お前が神を畏れる者であることがわかった」といって、我が子の代わりに焼き尽くす捧げ者として、羊を用意してくださる神、その神を信じるのであります。

 我が子を殺してわたしに従えというのですから、それは御利益的信仰ではないのです。しかし、そしてもっと深い意味で、我が子を殺さないで、羊を用意してくださる神、「主の山に備えあり」という信仰、われわれにいつも最善のものを備えてくださる神を、それはある意味では、もっとも深い御利益信仰であります、そういう神様を信じ、その神様に従う信仰を、父親は、我が子に教えなくてはならないのであります。

 あのイサクは、父親として本当にだらしのない父親でした、自分の鹿の肉が食べたいという食欲のためにだまされてしまう父親でした。

 しかしそのイサクも、エサウから長男の祝福をヤコブにではなく、自分にしてください、祝福のやり直してをしてくださいと、懇願されたときに、イサクはきっぱりと拒絶するのです。神の前で一度祝福したことは、絶対に取り消すことはできないのだと、エサウに告げたのであります。

 ここには、神の名前をもってした祝福、神の前でした祝福は、絶対に取り消すことはできないと、神の前にひれ伏す父親イサクの姿を、聖書は記しているのであります。

 ある牧師からこういう話しを聞いたことがあります。その牧師が、北欧の旅の途中で、列車にのっているときに、同席の人に、「日本ではいま、受験戦争というのがあって、親は子供の教育に大変だ」という話をした。するとその人はこういったというのです。
 「自分たちの国では、子供が深夜子供部屋で寂しがって泣き叫んでも、絶対に子供のところに駆けつけないのだ、それが親としての子供にたいする一番の教えだ、しつけだ」と答えたというのです。

 それは、この世界では、「親は子供を助けることはできない、「お前を助けるものが存在している、それは親ではない。それは神様だ、神様に助けを求め、神様に祈りなさい」と暗黙のうちに教え込むことだというのです。そのようにして、小さいときから、幼いときに、親なんか頼りにならないこと、そして本当に頼りになるかたが存在しているのだ、そのかたに助けを求め、そのかたに祈ることを教えること、これが子供に対する両親の一番大事な務めなのだと答えたというのであります。

 このような責任を担っているのが父母なのです。そのことを十戒の第五の戒めはわれわれに教えているのであります。