「あとでわかる愛」ヨハネ福音書一三章一ー二○節


 主イエスがご自分が十字架で死ぬ時がきたことを悟った時であります。

 イエスは夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それからたらいの水を汲んで弟子たちの足を洗い、手ぬぐいで拭き始めたのであります。

 これには弟子たちは驚きました。汚れた人の足を洗うということは、いわば奴隷が主人にする行為であります。それを自分の先生であるイエスが弟子である者の足を洗い始めたからであります。
 シモン・ペテロのところに来たときに、ペテロは驚き、「主よ、あなたがわたしの足を洗うのですか」と尋ねたのです。

 その時イエスは「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、あとで分かるようになる」といわれたのであります。それでもペテロは「わたしの足など決して洗わないでください」といいますと、イエスは「もしわたしがお前の足を洗わないならば、お前はわたしとなんの関わりもなくなってしまう」といわれたのであります。

 足は人間のからだのなかで、一番よごれやすいところであります。一番汚れているところであります。イエスはそのわれわれ人間の一番汚れているところと関わろうとしているのです。もしそうでなくて、われわれが、自分の一番きれいなところだけで、イエスとと関わろうするならば、そんなことでは、イエスはわれわれと関われなくなってしまうといわれたのたのであります。

 わたしはキリスト教にふれたのは、中学のときに、キリスト教主義の学校に入ってからであります。そのときにまずふれた聖書の言葉は、「心の清い者は神を見る」という言葉でした。心を清くしなければ、神を見ることはできないというのです。日本語の聖書の訳はそうなっているのです。わたしは一生懸命、自分の心を清くしようとしました。しかし清くなれませんでした。神を見ることはできませんでした。

 イエスは今、「お前の一番汚れているところと関わろうとしている。それがいやだといって、自分の清いところをわたしにみせようとするならば、わたしはお前となんの関わりもなくなってしまう」といわれているのであります。

 ちなみに、日本語で「清い」と訳されている言葉は、原語では、純粋とか一途、あるいは、「二心をもたないむという意味のようであります。つまり、ふたごころをもたないで、いちずに神を見ようとするものは、神を見る、神にお会いできるという意味のようであります。

 わたしは結婚式の式辞を頼まれたときに、この聖書の箇所をテキストとして選びます。そしてこいう式辞を述べてきました。

 「イエス・キリストはわれわれの一番汚れた足を洗い、その一番汚れた足と関わることによって、われわれと関わろうとすれた。
 これからあなたがたは結婚生活に入ろうとしている。今まではお互いにお互いの一番美しいところで交わろうとしてきたかもしれないが、これから結婚生活に入るということは、相手の一番美しいところだけをみてればいいというわけにはいかなくなる。相手のすべてを知る生活に入るということだ。そのときに相手の一番醜いところ、恥ずかしいところ、相手の短所を受け入れる、相手の短所を許してあげるという覚悟がないと結婚生活というのは成り立たない。

 人間の長所は裏を返すと必ず短所になる、たとえば、相手のおおらかな性格という長所は、うらを返すと、だらしなさという短所になる。相手をまるごと愛するということは、その長所とともに、うらを返すと短所になってしまうところまで、受け入れる、許すという気持ちがないと夫婦生活はなりたたない。

 それは相手の短所を治してあげようなどとおもわないことだ、相手の短所を治してあげようなどと思い出すと夫婦関係は必ずぎくしゃくしたものになってしまう。相手の短所を治してあげることはではなく、受け入れることだ、許すことだ、という話をするのであります。

 ペテロはイエスから「お前の足を洗わなければ、お前との関係はなくなってしまう」といわれて、ペテロは「それでは主よ足だけでなく、手も頭も」といいました。

 それに対してイエスは大変不思議なことをいわれました。「すでに体を洗った者は全身がきれいなのだ。足だけを洗えばよい」といわれ、さらに、「お前たちは清いのだ」といわれたのであります。

 イエスは弟子たちに対して、「お前たちはきれいなのだ」といわれたのです。「すでに体を洗ったものは全身が清いのだから、足だけ洗えばいい」といわれたのです。

 これは大変不思議な言葉で多くの聖書学者を悩ましているようです。当時のこの砂漠地方の習慣では、食事の前には全身水浴する、つまり今でいうシャワーを浴びるという習慣があったようで、それほど深い意味はないともいわれますが、イエスはすぐそのあと「お前たちは清いのだが、みんなが清いわけではない」といわれて、自分を裏切ろうとしていたユダのことをいっているわけですから、これは単なる水浴のことをさしているのではなく、もっと精神的な意味のことを言っているのは確かだ思います。

 それで、ある学者は、マタイ福音書などの共観福音書では、イエスは最後の晩餐の席で、今日の聖餐式のもとになった儀式をおこなっているのに対して、ヨハネ福音書にはその聖餐式の記事の代わりに,「洗足」の記事をおいている。だから、イエスが弟子たちの足を洗ったということは、聖餐式のことをさしているのではないかというのです。

 そして「すでにお前たちは清い」というのは、洗礼による清めのことをさしているのではないかと、説明するのであります。

 わたしには、これはなにか後の教会のこじつけのような解釈ではないかと思います。

 わたしはこう思います。イエスが弟子たちに対して、「お前たちはすでに清いのだ」といわれたのは、弟子たちはすべてのものを捨ててイエスに従ってきたということを言っているのではないかと思うのです。

 彼らは漁師であったのに、網を捨て、船を捨てて、父母を捨て、イエスに従った、そのことをイエスはいわれたのでないかと思うのです。

 しかしイエスは今ここで、「しかし、お前たちには決定的なものが欠けている」と言おうとしているのではないか。

 それは「自分はすべてを捨ててイエスに従った」という思いであります。「自分が」という思いであります。

 あの富める青年の記事のなかで、ペテロは、自分の財産を捨ててイエスに従えなかった青年に比べると、自分たちはすべてを捨ててあなたに従いましたというのです。
 ペテロがイエスに向かってこういうのです。「この通り、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか」とイエスに言っているのであります。

 このペテロの言葉を聞いて、イエスはどんなに悲しまれたことだろうと思います。ここではイエスはあからさまにこの弟子たち姿勢を非難はしませんでしたが、しかし、最後には「しかし、先にいる者は後になる」と痛烈に皮肉をこめて弟子たちを戒められているのであります。

 弟子たちは確かにすべてを捨ててイエスに従った、それは確かに大変なことだったことだろう。しかし最後のところで、「自分が従った」という「自分が」「自分が」という自我は捨てきっていなかったのであります。「自分は従った」という自負を捨てきることはできなかったのであります。

「自分が捨てたのだ」という自分が自分がという思いがある限り、本当に捨てたことにはならないということであります。

 イエスはご自分が十字架で死のおうとしたときに、弟子たちにその彼らの捨てきれなかった「自分が」という彼らの「自我」という汚れを洗ってあげたのではないかと思うのです。

 われわれ人間の一番汚れているところ、われわれのなかに一番執拗について回る「自分」がという罪、その罪を今イエスはぬぐってくださって十字架につこうとされたのではないかと思うです。

 そしてこの弟子たちの足を洗うというイエスの愛は、「今はわからないだろう」といわれたのであります。「あとで分かるようになる」といわれたのであります。

 その「あとで」というのはいつのことなのでしょうか。

 ペテロは一切を捨ててイエスに従った。それは彼の誇りであった。イエスが自分が十字架で殺されるといったときにも、「わたしはあなたと一緒に死にます」といったのです。その心に偽りはなかったと思います。しかしイエスは、「おまえは鶏が鳴く前に三度わたしを知らないというだろう」と告げたのであります。

 そしてそのとおりに、イエスが捕らえられたときに、ほかの弟子たちは逃げ去りましたが、ペテロだけはイエスの捕らえられた庭に残っていたのであります。まわりの人からお前はあのイエスの弟子だろうといわれたときに、ペテロは「わたしはそんな人のことを知らない」と、三度にわたって否認するのであります。そのときに鶏が鳴いた。すると、イエスは振り向いてペテロを見つめられた。

 ペテロはそのとき、あの「鶏が鳴く前に三度わたしを知らないというだろう」といわれたイエスの言葉を思い出して、外に出て、激しく泣いたのであります。

 このとき、ペテロはあの夕食のとき、自分の一番汚れている足を洗ってくださったあのイエスの愛を少しわかったのではないでしょうか。イエスを知らないといったペテロを振り返って見つめられたイエスのまなざし、そのまなざしに気づいて、ペテロはあの時のイエスの愛を少しわかったのではないか。

 そしてペテロがあのイエスの愛を決定的にわかったのは、復活のイエスがペテロに対して、「ヨハネの子、シモン、お前はこの人たち以上にわたしを愛しているか」と尋ねられた時であります。

 それに対してペテロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えた。それでもイエスは「わたしを愛するか」と三度にわたってペテロに、尋ねた。ペテロは三度も尋ねられたイエスの言葉に悲しくなって、ペテロはこう答えたのであります。

 「主よ、あなたはなにもかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えるのであります。

 このとき、ペテロはもう「死んでもあなたを最後まで愛します」などとは言わないのです、言えないのです。自分の愛がどんなに弱く、だらしないものであったとしても、それでもわたしはあなたを愛します」と答えたのであります。

 その答えに対して、イエスは「わたしの羊を飼いなさい」といわれたのであります。

 イエスは挫折してしまった自分に、もう一度イエスを愛するチャンスを与えてくださった。自分を見捨てなかった。このとき、ペテロはイエスが最後の晩餐のとき、自分の足を洗ってくださったイエスの愛がわかったのではないでしょうか。

 イエスはあるとき、こういわれたのです。「もし、兄弟が罪を犯したならば、戒めなさい。悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回『悔い改めます』といってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」といわれたのです。

 このイエスの言葉は本当にすごいことを言っています。「罪を犯し、そしてそれに気づいて悔いあらためる」それを一日のうちに七度繰り返すのです。一日のうちに七度繰り返すということは、その悔い改めということがどんなに口先の悔い改めか、ということであります。
 罪を犯し、悔い改め、その舌の乾かないうちにまた罪を犯すということであります。その悔い改めがどんなにいい加減なものであるかがわかると思うのです。しかしイエスはそれでも「赦してあげなさい」というのです。イエスの愛が、イエスの赦しというものが、どんなに徹底したものであるかということであります。

 いまペテロはその徹底したイエス・キリストの十字架の赦しの前に立たされ、自分の足を洗ってくださったイエスの愛に気づいたのであります。

愛はお互いに愛し合うなかで、その場でわかる愛が普通かもしれません。

 しかし、あとで気づく愛、あとでわかる愛というのもあるのばないでしようか。親の愛は親が死んだときにわかるとよくいわれるのです。

 イエス・キリストの愛は、自分の罪がわかり、自分の弱さがわかったときに、はじめて分かる愛であります。自分の罪が分からないときには、イエス・キリストの愛は絶対にわからないのです。 

 イエス・キリストはわれわれの一番汚れているところと、かかわろうとし、そしてそれを洗ってくださって、われわれと関わろうとしてくださったのであります。