「安息日を覚えて、これを聖とせよ」
           出エジプト記二十章八ー十一節 マルコ2章23-28節


 十戒の第四の戒めは、安息日を守れという戒めであります。

 出エジプト記のほうでは、その理由がこう書かれております。「六日の間、主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」と記されております。

 つまり、主なる神は六日にわたって、天と地と海をつくり、そのすべてを造り、そしてそれをごらんになって「すべてはよかった」といわれて、そして七日という日そのものをわざわざ造り、休まれた、だから、その神のわざを覚え、その神のわざのすばらしさを覚え、お前たちもお前たちの仕事を休みなさいという戒めであります。

この第四の戒めで戒められていることは、具体的には「仕事を休め」ということであります。出エジプト記の三五章には、十戒をもう一度告げられますが、そこではもっと簡潔に「第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主のもっとも厳かな安息日である。その日には仕事をするものはすべて死刑に処せられる。安息日には、あなたたちの住まいのどこででも火をたいてはならない」といわれているのであります。じつに激しい戒めであります。

 十戒の第四で命ぜられていることは、具体的には、われわれの仕事を休めということであります。仕事を休めということがいわれているのであって、そこでは、その日に神を礼拝しなさいとは、一言も命ぜられてはいないのであります。

 安息日とは、ヘブル語でいいますと、シャッバードといいます、それは、休むという意味です、言葉をかえていえば、やめる、という意味であります。それは安息を意味する休むという意味ではなく、仕事を休む、仕事を中断する、という意味の休むであります。仕事を休んでみると、そこに安息が生まれるから、休むということが、安息という意味にもなってきたのであります。

 つまり、安息日は仕事をやめる、仕事を休む、仕事を中断する、それが安息日の本来の意味であります。

 十戒は申命記の五章にもあります。そこでもこの第四の戒めで言われていることはこういうことであります。

 この申命記では、安息日を守る理由として、出エジプト記にるあように、主なる神が六日間働いて、七日めに休まれたから、それを思い出して休め、といわれているのではなく、主なる神が、エジプトで奴隷状態であったあなたがたを、その奴隷から解放し救った、そのことを思いだして、安息日に休めといわれているのです。

 つまりここではなによりも、奴隷状態からの解放を覚えることであります。だからここではとくに奴隷たちを休ませなくてはならない、六日間こき使っている家畜、牛をやすませなさいということが命ぜられているのであります。

 ここでも、第一にいわれていることは、いかなる仕事も休めということであって、その日に礼拝せよということではないのであります。第一、牛や家畜は安息日に礼拝しにいくわけではなく、主人にこきつかわれていることから解放されて休むことが大事なのだといわれているのであります。

 安息日は、仕事を休む、具体的には六日間の自分の仕事を中断するということであります。

 自分の仕事であります、それは人間の仕事、人間のわざであります。その人間のわざをともかく七日目に中断して、神のわざを見上げなさいということであります。神様がわれわれに与えてくださった完全な天地創造のわざ、そしてわれわれをあの奴隷状態から解放してくださった神のわざを思い起こせということであります。

 われわれ人間のわざは、それがどんなに善いわざてあったとしても、それがどんなに、人に奉仕する仕事であったとしても、金儲けのための仕事ではなく、福祉の仕事あったとしても、あるいは人の命を助ける医療の仕事であったとしても、その仕事を七日目には、中断して、休めというのであります。

 われわれ人間のわざ、それはどんなに善いわざであってとしても、そこにはいつのまにか人間のひとりよがりの思いが忍び込んでいるのではないかと思います。

 自分は絶対に正しいことをしている、善いことをしている、そういう人間的なおごり高ぶりが潜んでいないか、そのことを反省するために、自分の仕事を一時中断してみるということがどんなに大切かということであります。

 現代の社会では、とくに働き盛りの人は、会社のために六日間こきつかわれている、それこそ奴隷状態にさせられているのであります。今過労死は社会問題になっているのであります。

 だから休みを取るということがどんなに大事かということであります。

 安息日は、仕事を休んでくうたらな日を送る日ではない、その日は教会にいって礼拝をする日でなければならないと神学者や牧師はいうかもしれませんが、しかし十戒の第四の戒めでいわれている具体的なことは、礼拝せよ、ということではなく、仕事を休むということであります。

 そのことからいえば、その日には本当に心身共にぐうたらな日を過ごすことがあってもいいのではないかと思うのです。仕事を休んで、ぐうたらな日を過ごすということがどんなに大事かということであります。

 それこそ、過労死を避けるために、仕事を休むということがどんなに大切かということであります。

 主イエスは、「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」といわれたのであります。

 このことを主イエスはどういう状況のなかでいわれたのかといえば、イエスの弟子たちが、麦畑を通っていたときに、空腹のあまり、麦の穂を積んで食べた時であります。

 それをみて、律法学者、ファリサイ派のひとたちがイエスに「あなたの弟子たちが安息日には、労働をしてはいけないという律法を犯している」と、イエスにいったのであります。それに対して、イエスは「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日にあるのではない」といわれたのであります。

 そのあと、イエスが会堂にはいったときに、そこに片手のなえた人がいた。その日は安息日であったので、人々はイエスががその片手のなえた人の病をいやすかどうかを注目した。安息日には一切のわざをしてはいけないといわれていたからであります。

 イエスは、人々の挑戦をあえて受けて、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことか」といって、イエスは怒り、そして彼らのかたくなな心を悲しみ、あえて、イエスは安息日にその人の片手をいやしてあげたのであります。

 そのために、人々はイエスを殺そうと相談し始めたというのであります。

 さきほど、医者も、つまりどんなに善い仕事であっても、七日目には仕事を中断し、休むことが大切だといいましたが、イエスはここでは、医療行為は安息日にもするべきだと主張しているようにみられるかもしれません。しかし、それは違うのです。

 マタイ福音書では、同じテキストで、イエスはこのときこう言っているのです。
 「羊が安息日に穴に落ちてしまったときには、安息日であっても、だれでも羊をひきあげるではないか、安息日に善いことをすることは許されている」といわれて、片手の人の病をいやしたとあります。つまり、緊急時にはもちろん医者は安息日であっても、命を助けることが大切である、ということであります。

 しかし、片手のなえた人の手をいやすということは、なにも安息日にしなくても、翌日までのばしてもいいことであります。命にはかかわりのないことであります。しかしイエスがあえて、安息日にそれをしたということは、ここではあくまで、律法学者たちのそのかたくなな律法主義への挑戦であります。

 イエスはここで、人の命を助けるという医療行為だけは、安息日に続けてもいいといったのではないのです。緊急時には命を助けるという行為は、安息日にも必要なのであり、それは安息日律法には違反しないということをいって、律法学者たちの律法に対するかたくなさを批判し、嘆いたのであります。

 どんなに善いことであっても、お医者さんでも、七日目に自分のわざを中断して、休むということは大事だということは変わりないことであります。

 七日目には、それまでしてきた人間的なわざを中断する、そして休む、それがどんなに大切なことか。

 律法学者たちは、安息日に人は安息日律法を犯していないかどうかを監視するために、まるでヒットラーのゲシュタポのように、かつての日本の憲兵のように、人々を監視していたのであります。

 そのためにイスラエルの人々にとっては、この安息日はある意味では自分は律法をおかしていないどうか戦々恐々の日となってしまっていたのであります。人々にとって、安息日はひとつも安息日にはなっていなかったのであります。

 ある人がいっておりましたが、人は人を裁きたがる、人間が生まれつき、だれにも教えられないでもっているわざがある、それは人を裁くことだといっておりました。

 人を裁くということは、人間が一番得意とする人間のわざだというのであります。つまり、人を裁くというわざは、もっとも人間的なわざだということであります。

 安息日は、人間的なわざを中断する、そして神のわざを仰ぎ見るということが命ぜられているのに、律法学者たちは、もっとも人間的なわざを、人を裁く、人を監視するという人間的なわざを、まさに安息日にしていたのであります。

 そういう状況のなかで、イエスは「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」といわれたのです。それは、律法学者たちの律法に対するかたくなな姿勢に対する批判であります。

 しかし、なぜか不思議なことに、マタイによる福音書とルカによる福音書では、「安息日は人のためにある」という言葉を省いてしまっているのであります。そして、そのあとでイエスが締めくくりの言葉としていわれた、「人の子が安息日の主である」という言葉だけを残しているのであります。

 「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」という言葉は、あまりにも過激すぎたからではないかと思います。
 
 イエスは「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない、といわれたあと、最後に釘を指すように、「人の子は安息日の主である」といわれたのであります。
 この場合、「人の子」というのは、イエスご自身のことであります。つまり、「イエス・キリストが安息日の主である」とイエスは最後にいわれたのであります。

 「安息日は人のためにある」ということだけで終わってしまいますと、またまたそこで「人のために」ということが一人歩きして、それは「自分のために」ということになり、そこで人間のわがままさが横行することになってしまいかねないのであります。

 安息日は、日曜日は、「人のためにあるのである」、だから日曜日は、なにも教会にいかなくても、レジャーに使ってもいもいいではないかといいだして、われわれの人間のわがかままさが横行しかねないのであります。そこではまたまた人間的なわざが横行しはじめてしまうのであります。

 安息日は、ただ人間のわざを中断する日ではないのです。六日間の人間のわざをやめて、神のわざを仰ぎ見る日なのです。 神がどんなにずらしい天地創造のわざをおつくりになったか、神がどんなにわれわれを奴隷状態から解放し、救ってくださったか、を覚える日なのです。

 十戒は、「なになにしてはならない」という禁止命令が列挙されています。「わたしのほかに神があってはならない」「いかなる像を造ってはならない」とか、あるいは「殺してはならない」「姦淫してはならない」というように、「なになにしてはならない」という禁止命令でいわれているのです。

 しかしそのなかで、この第四の戒めと第五の戒め「父母を敬え」という戒めだけは、まず「なになにせよ」という命令がだされているのであります。そしてそのあと「いかなる仕事もしてはならない」という禁止命令がでてくるのであります。

 つまり、ここで第一にいわれていることは、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」ということが第一にいわれているのであります。

 つまり、神のなさった天地創造のすばらしいわざを仰ぎ見よ、神がお前たちを奴隷状態から解放し、救ってあげた、その神の慈悲を思い起こせ、ということがまず第一に命ぜられているということなのであります。

 ただ人間的なわざを休め、やめよ、一時中断しなさいということがいわれているのではなく、神のわざを思い出せ、それをおぼえて、それを聖とせよ、その日を特別な神の日として覚えよということがいわれているのであります。

 ですから、六日間働いて、七日目は、仕事を休んで、心身共に休息するということは、大切なことで、ある意味では、その日には本当にぐうたらな一日を過ごすということは、大切なことであります。

 しかし、そのようにただ仕事を休んでぐうたらな日をすごしていて、本当の休息が得られるか。

 こんなことをいったら、今までいってきたことと、正反対のことをいうようになって、混乱させてしまうかもしれませんが、本当の休息は、ただ人間のわざをやめただけではえられないのではないか。

 そうしたぐうたらな日を過ごしながら、同時に、神のわを仰ぎ見る、その日には、神のわざを覚える、神を仰ぎ見るということが大切だということであります。そうでなければ、本当の安息はえられないということであります。

 安息日は週の終わりの日、つまり土曜日、厳密にいえば、イスラエルでは、日にちの数え方は、夕方から数えますから、金曜の夕方から土曜日の夕方までということになりますが、土曜日が安息日であります。

 しかしわれわれキリスト者は、週の終わりの日、土曜日ではなく、週のはじめの日、日曜日を安息日として守っております。

 それはどうしてかといえば、主イエスが日曜日に復活なさったからであります。主なる神は日曜日にイエス・キリストをよみがえらせた、だからその日こそ聖なる日として、その日を安息日として守ったほうが、より安息日にふさわしいと思うようになって、教会ではいつのまにか、日曜日を安息日として守るようになったのであります。

 それは教会会議を開いて決められたということではなく、いつのまにかそうなったというところがおもしろいことですし、大事なことであります。

 つまりそれほどに主イエスの復活という事実が初代の教会にとっては衝撃的な出来事であって、それまでイスラエル人が命を賭けて守ってきた土曜日の安息日をいつのまにか、主の復活の日を安息日に変えてしまったということであります。

 ある人にいわせれば、これは主イエスの復活ということが歴史的事実であったひとつの証拠であるとも言っております。

 われわれは、安息日という名称にかえて、主イエスの復活を覚えるということで、安息日とはいわないで、「主の日」とか、「聖日」というようになっています。

 しかし、それによって、この十戒で戒められている「安息日」の守り方が変わってきているのではないかと思います。

 つまり、安息日は本来は人間のわざを中断する、自分の仕事を休む、それが安息日を聖別することであったのに、主の復活を記念する日曜日を、安息日にすることによって、仕事を休むということよりも、教会で礼拝を守るということが、その日を聖別することだと考えるようになったということなのであります。

 聖日礼拝厳守というようなことが言われはじめて、安息日律法の本来の具体的な命令、人間のわざを休む、自分の仕事を中断する、心も肉体も休息をとる、ということ見失うことになっていないか。

 牧師たちは、聖日礼拝遵守などと言い始めて、あの律法学者たちと同じように、信徒を裁きはじめていないか。

 われわれは、この「主の日」「聖日」を聖日礼拝厳守などといわないで、自分の持ち場を離れ、家庭の場を離れ、このすばらしい礼拝堂に足を運んで、自分の足を支えて来たかに見える履き物を脱いで、自分の人間的なわざを中断して、神のわざを仰ぎ見たい、そうすることによって、安息を得たいと思うのであります。