「わたしのほかに神はいない」  出エジプト記二十章一ー一七節
                                           マタイ二二章三四ー四○節


 今日から説教が許される限り、十戒について学びたいと思います。十戒は、賛美歌の二一では、九三の三に記されておりますので、そこをご覧ください。

 泰一の戒めは、「わたしのほかに何者をも神としてはならない」、第二ば「偶像を造ってはならない」、第三は、「みだりに神の名をとなえてはならない」、第四は「安息日を覚えてこれを聖とせよ」第五は、「父母を敬え」第六は「殺すな」、第七は「姦淫をしてはならない」、第八は、「盗むな」、第九は「偽証を立てるな」、そして第十は「むさぼるな」であります。
 前半は、神に対する戒め、後半は、隣人に対する戒め、となっております。
 
 十戒は、まずこういう言葉から始まっております。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導きだした神である」という宣言から始まっています。

 十戒をこれから学びますけれど、これを学ぶときに、この冒頭の神の宣言の言葉が大変重要なのであります。といいますのは、主なる神は、これから十の戒めをお前たちに告げるけれど、この十の戒めを破ったらお前たちは地獄行きだと語ろうとしたのではないということであります。

 神はまず民に語ろうとしたのは、わたしはお前たちを救ったのだと語るのです。だからこれから命じる十の戒めを守ってわたしに従ってきなさいと命じられたのだということであります。

 これを逆転させてはならないのです。つまり、十の戒めをまもらないとお前たちを救ってあげないぞと警告したのではないということであります。

 わたしはお前たちを救った神なのだ、とまず宣言しているということであります。だからこれから命ずる十の戒めをまもって、わたしに従ってきなさいといわれたのであります。

 その第一の戒めは、「あなたはわたしをおいてほかに神があってはならない」という戒めであります。ここは口語訳では、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と訳されております。

 これは、神は唯一の神である、という宣言であります。ここから唯一神信仰が生まれたのであります。申命記の六章にはこう記されております。
「聞け、イスラエルよ、われらの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、魂をつくし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命ぜられているのであります。

 われわれにとっては、神は唯一であります。だからこの神に心を尽くし、魂をつくし、力をつくして愛していくのであります。
 確かに神はわれわれにとって唯一の神でありますが、しかし、このことは、全世界の人々に宣言できることなのだろうか。宣言はできるかもしれませんが、そんなことを宣言してもなにかむなしい気がしてしかたないのです。

 テレビなどで、われわれから見れば、未開発の地域の様子をみることができますが、そこではそこに住む人々はそれなりに自分たちが神であると信じた神を懸命に拝んでいる様子をみます。そこの人々は一度も聖書を目にしたこともなく、イエス・キリストのことを知らされたこともない人々なのです。

 そうした状況のなかで、あなたがたの信じ拝んでいる神は、神ではありませんよ、神はわれわれがイエス・キリストによって示された神だけが唯一の神なのですよ、と説得できるだろうか、またたとえ、そのように言ったとしても、それはむなしいことではないかと思ってしまうのであります。

 よく言われることですが、唯一神信仰は、他の神々の存在を認めない、そこから戦争が起こっている、唯一神信仰にたつ、ユダヤ教やイスラム教、キリスト教は、他の宗教に対して不寛容であるから、戦争を起こすのだ、現代において唯一神信仰は危ない信仰だといわれるのであります。

 それに対して、多神教である日本だって、戦争を起こしているわけですから、唯一神信仰だけが危険だなんて論はなりたたないとも言われるのであります。

 聖書でいっている「唯一神信仰」とはどういうことなのかということであります。」

 この十戒の第一の戒めでいわれていることは、「あなたには、わたしをおいてはほかに神があってはならない」ということであります。

 つまり、ここでは、ほかの人々が他の神を神として信じているのをみて、そんなのは神ではない、と教えてあげなさい、ととおうとしているのではないのです。
 そういうことではなくて、「あなたにとって」であります。「ほかの人々のことはどうでもよい、ほかの人々がなにを神として信じていようが、そんなことはどうでもよい、問題は、あなただ、あなたにとっては、わたしだけが神なのだから、わたしのほかに神をおいてはならない、ほかの神を拝んではならない」ということであります。

 しかも、その神であるわたしは、お前をあの奴隷の民であったエジプトから救いだした神なのだ、お前を限りなく愛している神なのだ、お前のためにわたしのひとり子であるイエス・キリストを十字架で死なせたほどに、お前を愛している神なのだ、その神をさしておい、ほかのものを神としていいのか、神とするのかということであります。

 お前にとっては、お前にとっては、わたしだけが唯一の神なのだ、ということなのであります。これが十戒でいっている第一の戒めであります。
 このことからひろがっていって、わたしにとっては、世界にはわたしの信じるこの神だけが唯一の神なのだ、だから、この唯一の神を心をつくし、魂を尽くして、力を尽くして愛していこうという思いが始まるのであります。

 わたしにとっては、イエス・キリストにおいて示された神がけが唯一の神であります。

 この唯一の神に対して、多神教の信仰があります。つまり神はたくさんいる、日本人には、八百万の神を信じているといわれていますが、つまり、八百万の神々がいるということであります。

 神様がたくさんいるということは、われわれ人間が好きに自由に神を選べるということであります。

 現に日本には、受験の神様がまつられている神社、縁結びの神がまつられている神社とか実に様々の神様が存在し、われわれがその時に好きに神様を選んで拝むことができるわけであります。

 それに対して、もし神がただひとり、唯一神であるならば、われわれのほうで神様を選ぶことはできないのです。神様のほうでわたしを選んでいただく以外にないのです。選ぶ主体はわれわれ人間ではなく、神が主体なのです。

 ですから、この十戒の第一の戒めは、神の主権を宣言する戒めだといわれているのであります。

 あの奴隷の民から救ってくださった神、イエス・キリストによって示された神が唯一の神であるならば、他の神々はすてなくてはならないのであります。

 その具体的な例が創世記の三五章に示されております。ここはヤコブが様々な苦難のあと、もう一度、自分が神にお会いした原点でありますベテルに帰ろうとしたときに、ヤコブは家族のものにこう告げるのであります。「お前たちが身につけている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい」というのです。すると人々はそれらを捨てたというのです。身につけていた耳飾りを捨てた。それは一種のお守りであります、それを捨てたのであります。

 今日のわれわれの事で言えば、クリスチャンでありながら、占いを信じたり、あるいはなにかお守りのようなものを身につけて安心を得ようとすることは、神に対する裏切りになるということであります。それは捨てなくてはならないのであります。

 占いを遊びとして楽しんだり、お守りをアクセサリーとして身につけることは別にどうということはないと思いますが、そんなものに自分の将来の安全を託そうとすることは許されないことでありますし、愚かなことであります。

 十戒の第二の戒めは、偶像礼拝の禁止であります。
「あなたはいかなる像も造ってはならない」という戒めであります。口語訳聖書ではここをこう訳しております。「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」とあって、「自分のために」という言葉があるのです。そして原文でも、この「自分のために」という言葉はあるのです。なぜ、新共同訳がこの大事な「自分のために」という言葉を省いてしまったのか不思議であります。

 われわれは、目に見えない神ではどうしても不安なのです。不安なのだということは、目に見えないということは、自分が自由に扱えない、自分の都合よく利用できないということなのです。自分にとって都合よく動いてくれる「自分のための」神様をほしくなるのであります。

 イスラエルにおいて偶像が造られた経過は、モーセが神から十戒をいただくためにシナイ山に上ったときに、そこに今ままで頼りにしていた指導者モーセがいないので、民衆は不安を覚えたのです。
 それでモーセの兄アロンが人々が身につけていた金の耳飾りなどを提出させて、それで金の子牛を造って、これがわれわれをイスラエルから導き出してくれた神だと民衆の前に差し出したのです。すると民衆は喜んで、この金の子牛に捧げものをしたのであります。

 それを知った主なる神はモーセに「ただちに下山しなさい、民は偶像つくってそれに拝みはじめている」と怒ったのであります。これが偶像礼拝の始まりだといわれているのであります。

 目に見えない神様では、われわれにはどうにも扱いにくい、自分たちの自由にならない、だからわれわれの目に見えるものを造って、神というものを自分たちのための神、自分たちの言い分を聞いてくれる神にしたい、そこから偶像礼拝が起こってくるのだと聖書は伝えるのであります。

 ですから、神を自分のための神にしたい、自分のための神を作り出す、「自分のために」というところが問題なのです。金の子牛、それはわれわれ人間の手のひらにのせることのできるくらいの小さな神の像なのです。しかもそれはわれわれの欲望の象徴である金でできた神の像なのです。神様を自分の欲望を満たしてくれる神として、自分のための像にしたい、それがわれわれが偶像をつくりだす動機なのです。

 教会堂を建築するときに、問題になるのは、礼拝堂に十字架像をくるかどうかということが議論になります。カトリックの教会堂には、もちろん、十字架像があります、そしてその十字架像には、キリストが十字架ではりつけにされた生々しい像も描かれている十字架像であります。あるいは、カトリックではマリアの像が必ず設置されています。それはそうした目に見える形で神様を拝みたい、そういうわれわれ人間の素朴な思いから造られていったのであります。

 それに対して、プロテスタントの教会堂には、教派によっては会堂のなかにそうした十字架像をいっさい造らない教会堂もあります、そこに説教台と聖餐の台だけをおくという教会もあります。
 それは偶像をつくらないという主張から来ているのであります。そしてプロテスタントの教会堂の十字架は多くの場合ただ十字架の形だけで、そこにキリストのはりつけの像はつくらないのが普通であります。それを排除することによって、ぎりぎりの線で、十字架を偶像信仰にならないようにする、単なる象徴としての十字架像を造ろうという思いが込められているのであります。

 民数記というところに、こういう箇所があります。イスラエルの民がエジプトを出て、荒野をさまよっていたときに、水もなく、食べるものも粗末なものしかなかった。民は不平をいいだした、こんなことならエジプトにいたほうがよかったと言い始めた。
 すると主なる神は怒り、猛毒をもつ蛇を民の前に放った。蛇は民をかみ、多くの人が死んだ。それで民はモーセのところに来て、自分たちは罪を犯した、どうかこの蛇を取り除いてくださいと訴えますと、主なる神はモーセに青銅の蛇を造らせ、「それを旗竿の先に掲げよ。それを見上げれば命を得る」といわれたのです。
 それでモーセは青銅の蛇を造って旗竿の先端にかけた。人々はそれを仰いで救われたというのです。

 その旗竿の先にある青銅の蛇を越えて、そのもっと先に存在する天を仰ぎみさせて、主なる神の前にひれ伏せたのであります。それはある意味で目に見える像を造らせ、それを通して目に見えない主なる神を仰がせたのであります。

 ですから、目に見える像を造ること自体は、いけないことではないということです。どうしても目に見える神が欲しいというわれわれの思いを神は無碍に拒むことはしないで、青銅の蛇の像を造らせて、それを通して、天におられる神を仰がせようとされたのであります。
 問題は、偶像というのは、「自分のための」の神になりやすいということなのであります。その偶像かもしれない、十字架の像を通して、それを越えて主なる神、十字架につけられて死んだイエス・キリストを仰ぎみる、その方の前にひれ伏すかどうかであります。自分のために、神を造らないと言うことであります。

 その青銅の蛇は後にネホシタンといわれるようになって、それはやがて偶像化していったのであります。人々はそれにささげものをして偶像礼拝をし始めたのであります。それは後にヒゼキヤによって打ち砕かれたのであります。それがいつのまにかこれに香たいて偶像化していったからだと記されているのであります。列王記の下一八章に。

 問題は、神を「自分のための神」としているかどうかです。自分のための神とは、自分にとって都合のよい神様、自分の願いを聞いてくれる御利益をあたえてくれる神をわれわれはいつもつくりたがっているということであります。そんなものは神ではないし、神を自分の願いをきいてくれる奴隷として扱っていまうということなのであります。

 この第二の戒めのなかで、神は唯一の神なのだから、わたしをおいて他の神々、偶像を造り、それを拝もうとしてはいけないというところで、その理由としてこう告げられているところがあります。
 「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である」といわれております。「わたしは熱情の神である」というところは、口語訳では、「わたしは妬む神」だと訳されているのであります。神に嫉妬心があるなどということは、神をおとしめることになるのだということで、新共同訳では、「妬む」を「熱情」と訳しているのではないかと思いますが、それは大変残念な訳であります。

 神は唯一神である、だからほかの神々を拝むようならば、わたしは妬むといわれるのであります。

 つまり、われわれは神に対して、この神は唯一の神なのだ、だからこの神だけを心をつくし、魂を尽くして、この神だけに愛を注いで、拝まなくてはならないのであります。
 
 愛はいつも「この人だけを愛する」という形で、一対一というかたちであらわされるものであります。夫婦の愛がそうであります。それは愛の集中性をあらわすのであります。この人だけを愛する、そういうかたちでしか深い愛は示すことはできないのであります。

 主なる神もそのようにしてわれわれひとりひとりを愛してくださっている、だからわたしを差し置いて他の神々を拝むものを許さないといわれるのであります。
 
 われわれの神がどんなに深い愛をもってわれわれひとりひとりに臨んでおられるかということであります。

 そういう愛をもって、神はすべての人を愛そうとするのであります。そこに神の愛の豊かさを示されるのであります。その愛の豊かさは、この人をたげを愛するという深い愛でなければならないのであります。何の情熱もない、妬むことのない、愛は、中身のないコンピューターのような愛になってしまうのであります。

 われわれは、イエス・キリストの十字架において示された神を唯一の神として、心をつくし、思いをつくして、崇め、愛していきたいと思います。