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「人に捨てられ、神に捨てられ」    十五章一六ー四一節

 

 人々は、そのイエスに最後まで期待をかけていたようであります。十字架の上で最後のどんでんがえしが起こるのではないか。奇跡が起こるのではないかと期待していたようなのであります。


 イエスが「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた時、人々はイエスが預言者エリヤを呼んでいるんだと思ったのであります。そしてエリヤが助けに来てくれるのだと期待したようなのであります。それは旧約聖書にそのように預言されているところがあるからであります。


 「エロイ、エロイ」が旧約聖書の預言者エリヤの名前と似ていたものですから、イエスはそのエリヤを呼んでいるのだ、エリヤがイエスを助けに来るのだと期待したのであります。


 しかしエリヤは助けに来ないで、イエスはもう一度「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれて息を引き取ったのであります。何も奇跡は起こらなかった。

 
 イエスの弟子達はみなもうこの時はイエスを見捨てて逃げているわけですから、あのイエスの宣教を受け継ぐ者ももう四散してしまったのであります。

 
 われわれはこのイエスが三日後に神によって甦らされて、このイエスの十字架の死が決して敗北でなかったことを知っております。


 しかし今日は受難週の聖日です。こういう見方は無理があることは承知で、今日はその復活をまだ知らない者として、まだ復活の事実を知らないものとして、イエスの十字架をみたらどうなるのか、それを考えてみたいのであります。


 そんな見方は出来るはずはないのですが、といいますのは、この福音書自体が既に復活を経験した弟子達によって伝えられた証言をもとに書かれた福音書だからであります。


 しかしそれでも今日は復活を知らないで、イエスのこの十字架の死をみた時にどうなるのかという事を考えてみたいのであります。


 死んだイエスはわれわれに何を残したのか。その十字架の死そのもは、われわれに何も残さなかったのか、残せなかったのかという事であります。

 
 一つの手がかりがあると思います。それはこの十字架のもとでこのイエスの処刑の番をしていた百卒長の告白であります。
 
イエスが息を引き取った様子を見ていて彼は「この人はまことに神の子であった」と言ったというところであります。彼はなにを見て、イエスを「まことにこの人は神の子だった」と思ったのでしょうか。


  イエスの死に方は一つも立派ではなかったのであります。堂々としていないのです。あのジヤン・ダルクのように火あぶりにも耐えて、神を賛美しながら死んだわけでもないのであります。


 この時の十字架刑は当時としたらもっとも過酷な死刑だったそうであります。十字架の上で、二日でも三日でもそのまま放置された状態のままで次第次第に身体が弱っていく、そして手足を固定するためにうちつけた釘からの出血とで、疲労と出血で息を引き取るのだそうで、槍で心臓を一息について息を止めるとか火あぶりにするとかという事ではなく、最後まで意識をはっきりさせながら、死を迎えなくてはならないという死刑のやりかたで、大変過酷な刑なのだそうであります。

 
 イエスはその十字架の上で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」、すなわち、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて、恐らくこの事を二度叫ばれて息を引き取ったのであります。


 決して堂々と死んだわけではないのです。百卒長は、聖書を引用しますと、「イエスに向かって立っていた百卒長は、このようにして息を引き取られたのを見て言った『まことに、この人は神の子であった』」となっております。


 何も劇的なことは起こらない、イエスが神の子らしく神秘的に息を引き取ったわけでもない。ただ「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大きな声で叫ばれて息を引き取った、それを見ていて、それだけを見ていて、百卒長は「まことに、この人は神の子であった」というのです。


 何故彼はそう言ったのでしょうか。

  マタイによる福音書は、これには困ったらしくて、こう付け加えるのであります。

 「イエスはもう一度、大声で叫んでついに息を引き取られた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活の後、墓から出てきて、聖なる都に入り、多くの人に現れた。百卒長、及び彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろの出来事を見て非常に恐れ『まことに、この人は神の子であった』と言った。」となっております。


 これは明らかにマタイの創作であります。イエスの十字架の出来事がわれわれの救いになったという事をイエスの復活を通して経験したマタイが、この十字架の事実を劇的にあらわそうとして、このように書かざるを得なかったということだろうと思います。

 実際のところ、地震が起こったとか、まして墓が開けて死人が生き返ったというような事はなかったのであります。


  マタイは、マルコ福音書が記すように、百卒長がイエスが「わが神わが神」と叫ばれて、死んでいった様子をただ見ただけで、ただそれだけで「まことに、この人は神の子であった」と言う筈はないと思って、地震やいろいろの出来事を見て、と注釈をつけたくなったのかも知れません。


 ちなみに、ルカによる福音書はどういうふうに書いているかといいますと「イエスは、声高く叫んで言われた、『父よ、わたしの霊をみ手に委ねます』。こう言って、ついに息を引き取られた。百卒長はこの有り様を見て、神を崇め『ほんとうに、この人は正しい人であった』と言った。」となっているのであります。

 ルカによる福音書には、「わが神わが神どうして」という、あのイエスの最後の叫びはなく、イエスは非常に落ちついていて、静かに、最後まで父なる神を信頼して息をひきとったのだとその様子を描き、それを見て百卒長は「ほんとうにこの人は正しい人であった」と言ったと書かれていて、この百卒長の告白はごく自然だとわれわれを納得させてくれます。

 ルカはそのようにイエスの十字架の死を解釈したのであります。

 
 しかし恐らく一番最初に書かれたと思われますマルコによる福音書は、何の解釈も施さずに、イエスの死の最後をそのまま記し、そしてそのようにして叫んで息を引き取られたイエスを見て「まことに、この人は神の子であった」と百卒長が言ったと記している。

 そしてこれがイエスの死のありのままの姿だったのではないかと思います。

 
 どうして百卒長はそう思ったのでしょうか。


 それはこういう事ではないでしょうか。イエスが「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた姿をみていて、この人がどんなに神から見捨てられることに絶望していたか、どんなに神から見捨てられる事に苦しまれていたか、それは逆に言えば、どんなにこのイエスが神と切り離されることをいやがっていたか、イエスがどんなに神を愛していたかということを、百卒長が感じとったという事ではないかと思います。


 子どもが親から引き裂かれることを恐ろしがるのと同じように、この人は神から引き裂かれることを恐がっておられる、それはなによりも、この人が「まことに神の子だった」という証拠ではないかと思ったのではないか、という事なのであります。


 これは確かに、あまりにも心理的な解釈だと言われるかも知れない。あるいは、そうかも知れません。


 ここは、マルコの神学的解釈を百卒長の唇に託したと言った方がいいのかも知れません。どちらでもいいのですが、どちらにせよ、あのイエスの最後の叫び、最後の祈り「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、そういう意味だ ということなのであります。


  イエスが十字架にかけられたのが、朝の九時に十字架に掛けられ、そして昼の十二時になると全地は暗くなって三時に及んだ。

 これはこの砂漠地帯の特有のシロッコという現象で、風が砂漠の砂を巻き上げて太陽を隠してしまう現象だったのだろうと言われております。ですから、別に奇跡が起こったわけではないということであります。


  竹森満佐一が言っている事ですが、「イエスは十字架の上で何を考えておられたか。昼の十二時に全地が暗くなり、三時に及んだ。そして三時にイエスは大声で叫んで『わが神わが神』と言われた。そうするとイエスは昼の十二時から三時まで、この三時間の間十字架の上で、何も仰せにならなかった。三時間の沈黙があった。

 そしてその三時間の後で、主イエスがこの言葉を言われた、これが大事なところだ。この間イエスは何をしておられたか。この三時間の間、イエスは苦闘していたのだろう。祈りつづけておられたのだろう。そしてその結果絶叫するように、この祈りをなさったことが非常に大事なことだ」と言うのであります。

 
 イエスは祈り続け、考え続け、そして最後に、その祈りの結果「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てなったのか」と叫ばれたのであります。


 イエスがどんなに神に見捨てられることをこわがったか。苦しまれたか、悲しんだか。それはイエスがなによりも神の子だったからではないでしょうか。


  われわれは人に見捨てられことは恐いと思っています。こんなに悲しいことはないし、淋しいことはないのであります。


 しかし神に見捨てられることが大変なことだと、切実に思っているだろうか。確かに、人に見捨てられた時、まるで神に見捨てられたと思って悲しむかも知れませんが、しかしそれは本当は、ただ人に見捨てられたことが悲しいと思ったたげなので、その悲痛な表現として、まるで神に見捨てられたように感じたというだけなのではないか。


 われわれは神に見捨てられても、人に見捨てられなければいいと思っていないか。神から見捨てられる事をそれほど悲しいとは思わないのではないでしょうか。われわれが神を頼ろうとするのは、人から見捨てられないようにしてくださいと頼むために、神を信じようとしているだけなのではないでしょうか。


 しかしイエスは人に見捨てられことには耐えられても、神に捨てられる事はどうしても耐えられなかったのではないか。それがあの十字架の上での、あの最後の悲痛な叫び、祈りの言葉になったのではないでしょうか。


  われわれは神に見捨てられても、人に捨てられなければ大丈夫なのでしょうか。それほど人間は頼りになるのでしょうか。


 何も人間を頼るなと、奨励しようというのではないのです。ただ人だけを頼っていいのかという事なのであります。われわれは人だけを頼って生きようとするから、人に捨てられないことばかりに気を取られて、人に媚びる事ばかり考えて、正しいことも曲げていく、戦々恐々と生きることになっていないか。

 そして人は余り頼りにならないと思うと、やはり何と言ってもお金だということになっていくのではないでしょうか。


  人だけを頼っていて、われわれは死を乗り切れるだろうか。

 あの死の蔭の谷を歩めるだろうか。死んだ後どこにいくのか、死後の世界に何があるのかという事は、われわれにはわからないのです。


 聖書も本当のところその事についてはあまり明解には書いていないのです。ただわかる事は、そこは神が支配しておられるという事であります。自分の死のことは神に委ねなさいという事であります。その神に見捨てられたとしたらどうなるのでしょうか。

 
 日頃、神に見捨てられることにそれほど痛みを感じていない人間が、日頃人間だけを頼り、あるいは自分だけを頼り、あるいは財産だけを頼って生きている人間が、死のまぎわに、あわてて神に見捨てられることをこわがったとしても、それは本当には、神に捨てられる事が恐いとか、神と親密な関係に立ちたいと言う事ではなく、ただ天国にいって、安楽な死後を送りたいというだけの話で、もう天国にいってしまったら、その天国に神様がいる事はかえって邪魔なので、煙たいので、神様に少し遠慮して欲しいと思いだすのではないでしょうか。


  神に見捨てられることの本当の悲しみを知っている人、それを本当に恐ろしいことだと感じられる人は、日頃から、神を深く愛している人ではないでしょうか。神と切り裂かれたら、もう自分は生きていけないと思っている人ではないでしょうか。


 「アバ、父よ」、「お父さん」と幼い子どもが親しそうに神に祈っていたイエス、神をあんなに深く愛していたイエスだからこそ、今十字架の上で神に見捨てられる恐さを知って「わが神わが神、どうしてわたしを」と叫ばれたのではないでしょうか。

 それをみて百卒長は、ああこの人はこんなにも神を愛しておられた、「この人はまことに神の子だった」と言ったのではないか。


  死んだイエスがわれわれに残してくれたものは、この十字架の上での、この祈りの言葉ではないでしょうか。神から捨てられると言う事がどんなに恐ろしいことであるか、どんなに人間にとって大変な危機か、そのことをイエスはわれわれに身をもって教えてくれたのではないか。
  

 イエスは何故、神に見捨てられたと思ったのでしょうか。それは今イエスが人間の罪を担って、罪人のひとりになりきって、十字架についているからであります。

 このような人間、このような罪人は神に見捨てられる以外にないと思ったのであります。神に頼るよりは自分が頼りだ、あるいは人間に頼った方が安心だと思い、そしてその事から人間のあらゆる罪が形を変えて噴出してくる、そういう人間の罪が、神と人間を切り裂こうとしているのであります。


 イエスは今神から見捨てられる事の悲痛さを訴え、しかしそれでも最後に「わが神わが神」と、神に祈ることをやめなかった。

 罪を犯した人間が、この神からもう一度赦され、神から交わりの手を差し伸べて貰うためには、われわれが自分の罪を悔い改めて何か善行をしようとする事では駄目なのです。


 このイエスが最後に祈ったように、ただ子どものように「わが神わが神」と、心の底から神に祈ることなのであります。その祈りの言葉を死んだイエスはわれれに残してくれたのではないか。


 後にパウロはローマ人の手紙で、十字架の救いを述べてきて、最後に結論のようにしてこういうのであります。

 「どんなものも、わたしたちの主イエス・キリストにおける神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのである。」

 この言葉の本当の力強さがわかるのは、今イエスとともに「わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになるのですか」と祈る人なのではないでしょうか。

 

 


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「イエスはよみがえった」     十五章四二ー十六章八節


  イエスは十字架の上で、もう一度「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と声高く叫んで、ついに息を引き取られました。


 イエスは十字架の上で、この祈りの言葉のほかにも、他の福音書をみますと、色々な事をいっておられます。イエスが十字架の上で七つの言葉を語ったというところから、「十字架上の七つの言葉」という音楽も生まれているくらいであります。


 今われわれが学んでおりますマルコ福音書とマタイ福音書とは、この「わが神わが神」というイエスの絶望的な祈りの言葉しか記しておりませんが、ルカによる福音書には、「父よ、どうぞ彼らをお赦しください。彼らは何をしているかわからずにいるのです」とイエスを十字架にかけて、イエスをあざ笑う人々に、赦しの祈りを捧げている事を記しております。


 そしてルカによる福音書には、イエスは最後に「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」と、言って息を引き取ったと記すのであります。


 いったい、どれがイエスが十字架の上で実際に語った言葉なのだろうか、マルコやマタイは神に見捨てられるという絶望の言葉を語り、ルカでは非常に落ちついた態度で、人間のわれわれの罪をとりなし、最後まで乱れることなく、神にご自分を委ねておられるイエスの最後を記しているのであります。


  イエスはその十字架の上でついに息を引き取りました。


 ピラトが不思議に思ったほどにイエスは早く息を引き取ったようであります。それほどにイエスはその時、疲労困憊していたという事であります。


 十字架の横木をゴルゴダの丘まで担い切れないほどに、疲れ果てていたのであります。それはただこの時に疲労困憊していたというだけでなく、イエスのこの地上での三十年間の生活、人間の罪と闘った三十年の生活そのものがイエスを疲れ果てさせて、ピラトが不思議に思ったほどに早く息を引き取らせたということでありましょう。


 アリマタヤのヨセフがそのイエスの死体を引き取って丁重に墓に葬りました。


 そして、安息日が終わって、週の初めの日、即ち、日曜日、早朝日の出のころ女たちはイエスの死体に香料を塗ろうとして墓に急いだのであります。

 本当は墓に葬る時に塗る仕事だったのですが、ちょうど安息日が始まってしまっていて、それが出来なかったようなのであります。


  墓に行ってみますと、墓石はすでに転がされていた。その墓の中には、イエスの死体はなく、真っ白な長い衣を着た若者が座っていて、女達ににこう言ったのであります。

 「驚く事はない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。今から弟子達とペテロとの所に行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。

 すると、「女達はおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして人には何も言わなかった。」そしてマルコ福音書はこう記すのであります。「恐ろしかったからである。」


  これがマルコ福音書の終りの言葉であります。九節からみるとわかりますように、括弧に入っておりまして、九節以下の部分は本来のマルコ福音書にはなかった事を示しているのであります。


 この八節の終わり方があまりに唐突すぎるので、後の資料に基づいて、後に九節からが添加されたようなのであります。ですから、もともとはマルコ福音書は「恐ろしかったからである」という言葉で福音書は終わっているのであります。


 福音というのは喜ばしい訪れという意味であります。イエス・キリストはわれわれにその喜ばしい訪れ、救いの福音を語る為にこの世に来たのであります。そして十字架にかかり、そしてその十字架からよみがえったのであります。


 しかし、それはわれわれにとっては「恐ろしいことだった」と言って、福音書は閉じられたのであります。この事はわれわれが福音というものを考える時に大変大事な事ではないかと思います。
  
 
 福音は何よりも「恐ろしい事であった。」という事、イエスの復活という事実は喜ばしい事であるよりも、ものが言えないほどの恐ろしい出来事であったという事であります。


  イエスのよみがえりは、本当に恐ろしい事であった、喜ばしいという事よりも、なによりも恐ろしい事であったのであります。

 女達はどうしてそう感じたのでしょうか。イエスの死体がなかったからでしょうか。天使らしき若者がそこに思いがけずにいたからでしょうか。

 恐らく、それらすべてを通して、この事には神の御手が働いておられる、神が生きておられる、そのことを全身で女達は受けとめて震えたのではないでしょうか。

 
 信仰というのは、本当は非常に単純な事で、神が生きていたもうという事を信じる事、あるいは生きておられる神が存在している、この事を信じることだと思います。


 この事さえ信じられたら、すべては解決する、どんな問題でも解決する、この事を素朴に、単純に幼子のように信じられたら、もうわれわれは完全に救われるのであります。こんな事をいったら、おこられるかも知れませんが、この単純な事が信じられたら、われわれのプロテスタントの教会の礼拝のように、牧師のしちめんどくさい説教を聞かなくたって、カトリック教会のミサのように、聖書の朗読とただ短い紋切り型の説教と、そして儀式化された聖餐式を受けさえしたら、もうそれで充分なのではないか。


  信仰というのは、本当は非常に単純なことであります。神は生きておられる、この事さえ信じられたら、われわれは自分を主張しなくなるだろうし、傲慢にはならないし、他人に対してもっと思いやりがでてくるだろうし、というように、われわれの生活は救われた生活になるのであります。


  ただ、問題は、神は生きておられる、という事を自分の都合のよいように考えないで受け入れられかという事なのであります。神がお考えになっているように、神が生きておられるという事を受け入れているかどうかであります。


  イエスを殺しにかかった祭司長たちもみんな「神は生きておられる」「生きておられる神」の存在を一生懸命信じていたのであります。

 しかし、それは神が望んでいるようには信じなかった。結局は自分の都合のよいようにしか信じようとしていなかった。だから、自分と違うような仕方で、神を示そうとしたイエスをどうしても抹殺せざるを得なかったという事であります。


  それは祭司長たちだけではなかった。群衆も、われわれもみなそうだった。


 十字架にかけられたイエスに対して、人々はみなこういってイエスをののしった。 「他人を救ったが、自分を救うことができないイスラエルの王キリストよ。今奇跡を起こして十字架から降りて見よ。そうしたら信じよう」こう言ってイエスをののしったわけですが、これは民衆のキリストに対する、救い主というものに対する素朴な期待なのであります。自分を救おうとしない神、自分を救えない神では困るのであります。


 イエスはよみがえったのであります。しかしそれはこの十字架の上で、たとえば預言者エリヤが現れて、奇跡が起こって、イエスが助けられたのではない、おかしな表現かも知れませんが、つまりイエスは死なないでよみがえったのではないのです。

 あるいは、イエスがその十字架の上で、一時気を失って、そしてその十字架の上で息を吹き返したというような仕方で、よみがえったのではないのです。


 われわれが復活という事で期待している事は、そういう死なないで復活するという復活なのではないでしょうか。


 しかし、イエスの復活は、まさにそのようなわれわれの身勝手なご利益的な信仰が粉砕されて、神に徹底的に裁かれて、そのためにその人間の罪を担った神の御子が神に捨てられて、十字架で死ぬという事があって、その死んだ神の子をよみがえらせるという復活だったのであります。


 イエスは完全に死んだ。そして完全に墓に葬られた。使徒信条の告白では「死にて葬られ、陰府にくだり、」であります。そして「三日目に死人の中からよみがり」という、よみがえりかたなのであります。


 それはその時の群衆が期待していたような、われわれ人間が望んでいるような復活ではなかったのであります。


 それは女達を襲った、おののくような、口もきけないような驚きだったのであります。女達は男の弟子達に告げなさいといわれながら、その事も忘れてしまって、人には何もいわなかった、というような、恐ろしい出来事としての復活だったのであります。


 「恐ろしかったからである」という言葉で、福音書を終えるような出来事であり、福音だったのであります。
  

  神は生きておられるという事は、あの十字架で神に捨てられて、完全に死んで、葬られ、陰府にくだったイエス・キリストをその死人の中からよみがえらせた、という事で示された、神は生きておられるという事であります。


 神が生きておられるという事を信じるという事は、われわれが期待し、望むような形で、神が生きておられることを信じることではなく、神からその事を示していただいて、その神のお示しに従って、神が生きておられることを信じることが大切なのであります。


  女達は、イエスの復活という事で、恐れおののきましたが、しかし、女達はイエスが十字架で死んでしまったという事に対して、この復活ほどに恐れおののいただろうか。悲しんだかも知れない、しかし驚いただろうか。

 考えて見れば、神にとっては、復活という事はたいしたことではなかったかも知れない。神にとっては、ひとり子を生き返らす事よりも、ご自分のひとり子を十字架で見捨てるという事の方がどれほど大変であったか。


 人間の罪を人間に分からせるためには、どうしてもイエスを見捨てなければならなかった、この事を決意し、そしてこのことを実行するために神はどんなにすべてのエネルギーを注がれたか。


 イエスが生前、自分は三日後によみがえると知っておりながら、その事をさいさい弟子達にも告げておりながら、十字架の前の夜あのゲッセマネの園であんなに思い悩み、苦しまれたのは、十字架で死ぬという事が中途半端にではなく、完全に神に捨てられるという事であり、それがどんなに大変な事かをよくわれわれに示してくれているのであります。


  われわれの代わりに御子イエス・キリストが十字架で神に捨てられたんだという事の深刻さを知らないで、ただイエスはよみがったという事を知っても、それは復活を知った事にはならない。

 そのような知り方は、あの十字架の上で奇跡が起こって、イエスが死なないで生き続けたという奇跡を期待するという信じかたでしかないのであります。


 復活は、十字架で神に見捨てられた者の復活なのであります。神に捨てられるという事の重大性を知ったものが、この復活を通して、神が生きておられるという事を知るのであります。


 その事を自分の願望から自分勝手に想像するのではなく、神の方から、神のお示しに従って、知り、恐れおののき、その神の前にひれ伏すという出来事なのであります。


 それが福音という事であり、それが罪の赦しということなのであります。罪の赦しとは、神が生きておられるという事、そしてその神との交わりが回復されるという事であります。その事を神の方から正しく示されるという事であります。


  それが神の方から示されるという事は、十字架と復活によって示されるという事なのです。その十字架と復活を通して示された罪の赦しとは、どんな事があっても神はわたしを見捨てないという事が示されたという事であります。