(63)

 

「葬りの用意をする」         十四章一ー九節


  祭司長たちがいよいよイエスを策略をもって捕らえ、なんとかして殺そうと決意し、その具体的な案を練り始めた時であります。


  イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食事についておられたとき、ひとりの女が非常に高価なナルドの香油と言われている香水が入れてある石膏の壷をもってきて、それを壊し、イエスの頭に注いだというのであります。


 それは異常な行動でした。そばにいた弟子達もあっけにとられて、それを阻止出来ないほどに、その女の行動にはある決意というもの、思い詰めたようなものがあったようであります。


  後に、この女がどういう人であったのかをめぐって、いろいろな解釈というか、伝説というか、物語ができたようであります。


 ヨハネによる福音書では、イエスによって甦らせて貰ったラザロの姉妹マリヤとマルタのうちのマリヤだったと記しております。


 またルカによる福音書では、「その町で罪の女であったものが」となっております。
 
 もっともルカによる福音書の方では、らい病人シモンの家ではなく、あるパリサイ人の家にイエスが招かれて、そのパリサイ人の家での出来事になっておりますから、これと同じ出来事ではなかったかも知れません。


 しかし、ルカによる福音書には、この葬りの用意をしたという香油の出来事は記されていませんので、マルコやマタイにあるこの記事をこのように変えたのだとも言われておりますので、もともとは同じ出来事であったも考えられるのであります。

 
 この女はどんな人であったかは、マルコによる福音書には記されてはおりません。しかしこの高価なナルドの香油をもっていたわけですから、貧しい女ではなかったようであります。


 その香油は弟子達の言い分では、三百デナリにもなるというのです。当時の労働者の一日の賃金が一デナリというのですから、今日のお金に直すと、三百万円から二百万円という事になるのかも知れません。ともかくそれだけの高価なものを一気にイエスの頭に注いだというのですから、すいぶん異常な行動であったようであります。


  弟子達は始めはあっけにとられておりましたが、一段落つくと、この女の行為を非難いたしました。「なんのために香油をむだにするのか。この香油を三百デナリにでも売って、貧しい人に施せばいいのに」と言ったのであります。


  弟子達はあの富める青年、全財産を売って貧しい人に施せと、イエスに言われて、それが出来ないで、イエスのもとを去っていったあの富める青年の事を思い出していたのかも知れません。


 弟子達は少なくとも、そういう事によってイエスの意を汲んだと思っただろうと思います。


 ところがイエスはその弟子達を逆に叱り、この女の行動を最大の言葉でおほめになったのであります。

 「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしに善い事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。この女はできる限りのことをしてくれたのだ。わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのだ。


 よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べつたえられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」とイエスは言われたのであります。


  弟子達の言い分は、それ自体としては決して間違ってはいないのでしょう。しかしいかにも、今日のよくテレビに出てくる、なんとか評論家がいいそうな事ではないでしょうか。何か事が起こってから、ああしたらよかった、こうすべきだった、というのであります。すべて、事が起こってから、いうのであります。そして自分は自分を安全地帯において、自分の身銭を一銭も払わないで、そういって、非難したり、批評したりするのであります。


  イエスは最大の言葉をもってこの女のした事をおほめになりました。ついその前にはイエスは、たったレプタ二つを神殿のさい銭箱に投げ入れ、貧しい女のした事をほめました。その女に比べれば、この女は三百デナリの香油をもっていたわけですから、お金持であったかも知れません。


  イエスはレプタ二つしかもっていなかった貧しい女の事もほめましたし、今は三百デナリをもっている女のこともおほめになったのであります。


 イエスは持っているお金の額で人を見るのではなく、そのお金に対する執着度を見られたのかも知れません。それよりは、お金持であろうと、貧しい人であろうと、その事で人の価値判断をするような方ではなかったと言う事であります。
  

  イエスはなぜあのレプタ二つを捧げた女の行為をほめ、そして今又この女の行為をおほめになったのだろうか。

 それはこの二人の女は共に、レプタ二つを捧げた女は神に対する感謝の思い、そしてこのナルドの香油を注いだ女はイエスに対する感謝の気持ちがあふれでて、こういう事をしたという事だろうと思います。


  感謝の気持ちから出ていない行為、それがどんな愛の行為であっても愛にはならないのではないかと思います。


 それはパウロが「たとえ自分の全財産を人に施しても、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、一切は無益である」といわれるような行為になってしまうのではないか。


 感謝するという事は、自分の危機を救って貰ったと言う事、自分の弱さを知っていて、その弱さを慰め支え、救ってくれたという思いから、感謝という気持ちが生まれるのであります。

 
 弟子達にはこうした経験はまだなかったのではないでしょうか。弟子達はまだ自分達の弱さがわかっていなかった、自分達の罪が分かっていなかった。だから、貧しい人に施すと言う事は知っていても、それはいつでも何か自分は一段高い所に立っていて、いわば有り余る中からなにがしかのお金を施すという事でしかなかったという事なのだろうと思います。ですから、この時、この女の行為を理解出来なかった。


 「なんと無駄な事を」という批評しかできなかった。弟子達が人を本当に愛せるようになったのは、イエスの十字架をとうして自分達の弱さと自分達の罪が身にしみてわかってからではないでしょうか。


  この女は、ルカによる福音書が描いておりますように、罪の女であった、そしてその罪がイエスと出会うことによって、罪赦されたという思いを深く味わったに違いないと思います。そういう経験をしていなかったならば、到底こういう異常な行動はとれなかっただろうと思います。
  

  そしてイエスは、この女のこの行為をただおほめになったのではなく、「この女はわたしの葬りの用意をしてくれたのだ」と言って心から感謝しているのであります。


  竹森満佐一が説教の中でこう言っております。「ひとは、自分の愛する者のことについては、敏感に感じるものだ。どんなに隠していても、その心を知ることが出来る。その運命について何かを感じとるものだ」というのであります。


 イエスはこれまでにも自分の十字架の死について弟子達に何回となく告げて来たのであります。しかし弟子達はそれを本気にしなかった。


 今祭司長たちはいよいよイエスを策略をもって捕らえ、なんとかして殺そうとしていた時であります。竹森満佐一は「弟子達がこの期に及んでもなお悟れなかったことを、この女ははっきりと見ることが出来たのだ」と言っております。


  つまりこの女だけは、イエスの死を予感した、イエスの運命を予感した、だからこの女は、このかけがえのない人、もういなくなってしまうかも知れないこの人に、なんとか自分の感謝の気持ちをあらわしたいと切実に思ったのだろうと思います。それがこの異常な行動になったのだろうと思います。


  人を愛すると言う事は、その人の死の葬りをしてあげるという事ではないでしょうか。その人の死を看取ってあげる、それが本当にその人を愛するという事ではないでしょうか。
  

 その人が生きている時に、その人の死を予想し、その人の死を覚悟し、だからその人が生きている時に、かけがえのない人として、その人を大事にするという事であります。


 本当は死んだ後に、死んでしまった後に、その人を葬ったって、あまり大した意味はないのです。死んだ後にどんなに立派な葬式をしてあげたって意味はないのであります。


 その人がまだ生きている時に、あなたの最後は、あなたの死はわたしが看取ってあげますと言っておく、実祭に言葉に出す出さないは別にして、本当は言葉に出して言う必要があると思いますが、ともかくそういう態度でその人と接している。生きている時に、葬りの用意をするという事が大事なのではないでしょうか。


  人を愛するという事は、その人もいつか死ぬんだ、死んでいく時があるんだと思う事ではないか、そうしたら、その人のかけがえのなさという事がわかるのだし、その人の弱さもその人の過ちも許せるかも知れない。その人の挫折をおおってあげられるかも知れない。


 その人が病気になった時、その人の死が間近になった時、あわててその人の死を看取るのではなく、その人がまだ元気な時に、その人が生きている時に、どこかにそのような思いをもってその人と接する、そうしたらわれわれは人に対して、もっともっと優しくなれるのではないでしょうか。


  さきほど引用した言葉、「ひとは自分の愛する者のことについては、敏感に感じるものだ、どんなに隠していても、その心を知ること、その人の運命について何かを感じとるものだ」という意味はそういう事ではないでしょうか。
  

  イエスは今自分ひとりが人々の罪を背負って、十字架の道を歩もうとしているのであります。弟子達はそのことを一つも理解しようとしない。神の子がそんな運命をたどる筈はない、そんな事はあってはならない事だとペテロは言う始末であります。


 そうした中で、ただひとりこの女だけは、自分のために高価な香油を注いでくれた、イエスはこの女だけは自分の待ちかまえている運命を知っていてくれている、そう感じたに違いないと思います。イエスはこの女が自分の葬りの用意してもらったと思ったのであります。


  この時イエスがこの女のこの行為をこんなにも喜ばれたという事は逆に言うと、この時イエスが十字架で死ぬという事で、やはりどんなに弱気になっていたか、どなんに思い悩んでいたのかという事が分かるのであります。


 それはやがてあのゲッセマネの園での祈りにおいてわれわれは知らされる事であります。


  この女はそのイエスの思いに敏感であった。イエスの苦しみに敏感であったのであります。


  イエスは「福音が語られるところではこの女のした事は記念として語られる」と言われたのであります。人を愛する時、その人の死を予想して愛する、その人の挫折をおおい、その人の弱さをおおってあげながら、愛する、それが福音が語られるという事だからであります。

 

 

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「ユダの裏切り」          十四章一○ー二一節


  「ときに、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長達に引き渡そうとして、彼らの所へ行った。」


 引き渡すという事は、具体的にはどういう事かと言いますと、祭司長達はもうイエスを捕らえて、なんとかしてイエスを抹殺してしまおうと考えていたのであります。

 しかし「祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起こすかも知れない」と考えていた。なぜなら、まだまだイエスに対する民衆の人気が高かったからであります。

 そしてその当時はまだローマの支配下にありましたから、民衆が騒ぎ出すと、これはローマに対する反抗のための騒動だと当局に誤解される事を彼らはなによりも恐れたのであります。


 ですから、民衆がいないところでイエスを捕らえたかったわけであります。そのためには、イエスを民衆から離れた所で捕らえたかった。それは夜でした。

 そのために夜のイエスの行動、居場所を知りたかったのであります。ユダがイエスを祭司長達に引き渡すとは、その夜のイエスの居場所を彼らに知らせるという事であります。ユダはイエスの弟子でしたから、彼の夜の居場所を知っていたわけです。


  聖書は、そのユダの裏切りの記事を記す時、「ときに、」という小さな接続詞で書くのであります。これは英語でいえば、AND(そして)という接続詞ですが、そのためか、新共同訳ではこの接続詞は訳されておりませんが、しかしこの「ときに」という接続詞は大切だと思います。


  それは先週学びましたナルドの香油の記事、罪ある女がイエスの葬りの用意をしたという、ナルドの香油を注いだ記事のあとの「ときに」「そして」という接続詞だからであります。イエスの葬りの用意がここにも続いて起こったという事であります。


  女は罪赦されたという感謝からイエスに香油を注いで、イエスの葬りの用意をしたのに対して、ユダは祭司長達にイエスの夜の居場所まで、彼らを手引きして、イエスを捕らえさすという形で、イエスを葬るための用意をした、準備をしたのであります。


 女は三百デナリの価値のある高価な香油をイエスのために捨てて、イエスの葬りの用意をいたしましたが、ユダは祭司長達から、金を貰ってイエスの葬りの用意をしたのであります。
  

  ユダの裏切りといいますが、普通「裏切り」という場合には、拷問にあってやむを得ず仲間の名前をいってしまうとか、自分の信条を曲げてしまうとか、愛を裏切るとか、ともかく、いやいやながら、強いられて、自分の弱さのために、自分の身を守るために自分の仲間を、自分の信条を裏切ってしまうという事だと思いますが、イスカリオテのユダの場合はどうだったのか。


  たとえば、ペテロの場合でしたら、イエスが捕らえられて、イエスはどうなったかと、大祭司の庭まで様子を見にいって、「あなたはイエスの仲間だ」と女中に言われて、あわてて、「そんな人のことは知らない」と、三度イエスのことを否認するという事で、それはまさに自分の身を守るために、強いられて、自分の弱さのために、相手を裏切るという事になったわけですが、ユダの場合はどうもそうではないようであります。


  何故ユダはイエスを引き渡したのか。銀貨三十枚というお金欲しさから裏切ったとは思えないのであります。


 やはり、ユダの信条とイエスの生き方が合わなくなったからイエスを祭司長達に引き渡したのではないかと思われます。


 ある人の解釈ですけれど、ユダはイエスにローマに対する反逆という形の革命の指導者としてのメシヤを期待していたのだ、ところがイエスは体制に対してある程度は批判的ではあるが、そのために決起しようとはなかなかしない。

 それどころか自分は祭司長達役人達に捕らえられて十字架で死ぬんだなどという事を言い出している、それはユダの考えている事とは違う方向なので、ユダはイエスに決起を促すために、あえて積極的にイエスを彼らに売り渡して、イエスを追いつめ、イエスに立ち上がって貰おうとしたのだというのでありすま。


 しかしイエスはユダの期待に反し、黙々とむしろ十字架の道を歩み始める始末である。それでユダは自分のした事が裏目に出た事を知って、自分に絶望して、最後には銀貨三十枚を(マタイによる福音書によると)祭司長達の所に返しにいって、それが拒否されて、自殺してしまったのだと説明するのでありす。少し解釈のし過ぎで、あ まりにもうがった見方かもしれません。


  それはともかくとして、ユダはイエスに失望して、自分の信条とイエスの信条とが合わなくなってイエスを裏切るようになった事は確かだろうと思います。つまり、それはイエスを裏切ったというよりも、自分の方が、イエスに裏切られたということなのではないかと思います。


  ペテロは自分の弱さの為に、自分のふがいなさのために、イエスを裏切ったのであります。そしてそれは本当はイエスを裏切ったというよりは、自分自身を裏切ったという事ではないかと思います。


 しかし一方、ユダは、自分の強さのために、自分は裏切られたと思って、イエスを裏切ったのであります。ユダはあくまで自分を貫き通すのであります。

 それはその後の悔い改めにもみられるのであります。


 ペテロはイエスを三度、そんな人は知らないとイエスの事を否認した後、にわとりの鳴き声とともに、イエスの言葉を思い出して、外に出て激しく泣きますが、マタイによる福音書二七章三ー)によれば、ユダは最後には「わたしは罪のない人の血を売る様な事をして、罪を犯しました」と言って、首をくくって自殺をするのであります。悔い改めの仕方として、ペテロに比べて、ユダの方がはるかに完全で、徹底しているのであります。


  ユダの悔い改めは、自分を自分の意志で抹殺するという意味で最後まで、自分の強い意志を貫き通すという悔い改めだったのに対して、ペテロはただ「外に出て激しく泣く」という悔い改めでしかなかった。その悔い改めの仕方も自分の弱さを無様にさらけ出すだけだったのではないかと思います。


  しかし聖書でいう悔い改めは、それは原語を見ますと、メタノイヤという字が使われておりまして、それはもともとは方向転換、向きを変えるという事で、自分に向かっている方向を神の方向に変えるという事であります。


 そういう悔い改めという事からすれば、ペテロが自分のふがいなさに「外に出て激しく泣い」ただけで、その後は自分ではなにもしなかったというのは、自分ではなにも出来なかったというのが本当で、それはあのパウロの言葉、パウロが自分の罪に気づいた時のパウロの言葉「わたしはなんとみじめな人間なのだろう。だれがこの死のからだからわたしを救ってくれるだろうか」(ローマ人への手紙七章二四節)という、心境だったのだろうと思います。


 もう自分ではどうにもならない、ただ自分を助けてくれるものを自分以外のところから来て欲しいという心境だったのだろうと思います。


 それは視線を自分から神に方向を変えている姿勢であります。そのパウロが、悔い改めについてこんな事をいっているのでありすま。「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」(コリント人への第二の手紙七章一○節)


  ユダは自分の過ちに気づいた時、あくまで自分の手で自分の意志で解決しようとしたのでありすます。それはただ死をきたらせるだけなのであります。
  

  イエスはユダについてこういっております。「人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、よかったであろう」と言ってりおますが、カール・バルトという人が、このユダの悔い改めの真剣さも、このイエスの「わざわいだ」という言葉を少しも変えることはできなかっただろうと言っているのであります。


 ユダの悔い改めは、ペテロの悔い改めに比べれば、はるかに完全で徹底しているのであります。しかしそれはあくまで自分の手で、自分の手の内の中での悔い改めなのであります。悔い改めの本当の意味の「方向転換」はひとつもなされてはいないのであります。

 それに比べて、ペテロは自分ではなにひとつしようとはしなかった。ただ上から差し出される救いの手を待ったのであります。


  女が高価なナルドの香油をイエスに注いだ時、人々が憤って「なんでもったいない事、無駄な事をするのか。それを三百デナリ以上にでも売って貧しい人に施した方がよかったのに」と言ったとされている所を、ヨハネによる福音書ではそう言ったのはイスカリオテのユダであったと記されております。


 女は自分の罪を赦し、自分の罪をおおってくれたかたが今死のおうとしている、よくはわからないが、そういう運命をたどろうとしている、その事を予感して、なんとかして自分を救ってくれたかたに感謝の気持ちをあらわしたいという思いから、今自分の目の前にいるイエスに香油を注いだのであります。


 それに対して、ユダは今自分の目の前にいる人、これから十字架の道を歩もうとしている人の事を何も思わないで、ただ観念的に貧しい人々に施せばいいと言っている。しかも自分のお金ではなく、人のお金でであります。


  確かにユダは正義感はあったのであります。しかし、その正義感は結局は人のために愛を施すという事にはならないで、いつも自分の信条の主張、自分の正義感の押しつけに終わっているのではないか。それは結局は自分の信条を遂行し、自分を主張する、自分を肥らせるという事でしかないのではないか。


 ヨハネによる福音書はこのユダの事を痛烈に皮肉って、「彼がこういったのは貧しい人に対する思いやりがあったのではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていた」と言っております。


 ずいぶん酷いことをいっております。しかしそれは、実際にユダが財布の中身をごまかしていたという事ではなく、自分を肥らす事だけを考えていたのだという事をこういう表現で言いたかったのではないかと思います。


  イスカリオテのユダは、イエスを裏切ったわけですが、彼にはイエスを裏切ったという自覚はなく、むしろ自分の方がイエスに裏切られたという思いがあったのではないか。だから自分の方でもイエスを裏切ってやったのだと言う事なのではないか。


 それはいつも自分の非は一つも認めないで、わたしは裏切られた、わたしは裏切られたとわめきたてて、自分は被害者だと言い立てるどこかのヒステリーの女、あるいはヒステリー男と少しも違わないことにならないでしょうか。


  ユダは自分自身に対して自信があった。自分に対する挫折感がなかった。そういう挫折感なくして何かをしようとする事は、それが政治のことでも、人間関係のことでも、家庭の問題でも大変危険ではないでしょうか。


  それは、聖書の言葉に直せば、自分の罪を知ろうとしないという事であります。自分の罪の自覚のない正義、自分の罪が赦されたという思いのない愛は、どこか危険なのではないか。


  ユダは確かに最後には、「罪のない人の血を売って罪を犯しました」と言って自分の罪を知りましたが、その罪を自分で処分してしまうというやりかたで、更にもっと深く罪を犯すことになってしまったのであります。


 それは繰り返すようですが、悔い改めにはならなないのです。悔い改めとは、「このみじめな自分を誰が助けてくれるだろうか。助けてください」と祈りの叫びを神に向かって投げることだからであります。


  イスカリオテのユダについては、更に考えなくてはならないことがあると思います。


 今日はユダの人間的な側面からだけからユダの問題を考えていきましたが、聖書では、このユダの問題は、「十二弟子のひとりユダ」という事、つまりイエスによって選ばれた者のひとりから、イエスへの裏切りが起こったという事を考えなくてはならないと思います。


 つまり神の救いのご計画の中にあるユダの問題であります。それはこの次に考えて行きたいと思います。