(53)


 「イエスの権威」マルコ11章27-33節


 イエスがエルサレムに来て、三日目のことです。それはイエスが神殿でいわゆる宮清めをした翌日ということになります。


 イエスが神殿の中を歩いておりますと、祭司長、律法学者、長老たちがやってきて、「何の権威によってこれらの事をするのか。だれがそうする権威を授けたのか」とつめよる。「これらの事」とは、イエスが宮清めをしたことを指しているとおもわれます。


 彼らが「なぜあんなことをしたのか」と詰問しようとしたのではなく、「なんの権威によって」と、権威を問題にし、「だれがその権威を授けたのか」を問題にするのは、いかにも祭司長たちらしい詰問の仕方であります。彼らは、権力の座についていて、いつも権威をふりまわしているからである。


 しかしイエスとしたら、別に権威をもっているから、権威を与えられているから、そうした行動をしたわけではなく、ただ、神殿を汚す人をけしからんと思って、そういう行動をしただけであります。


 「何の権威によってそんなことをするのか」ということは、「何の資格があってそんなことをするのか」という意味でもあります。

 今日の社会では、確かに「資格」はいつも問題にされる。それは社会の秩序として大事なことであります。たとえば、医者の資格がないのに、医療活動を勝手にされたら、大変困るのです。ですから、資格を問題にし、権威を問題にし、誰によってそうした権威を与えられたのかと、それを問いかけるのは間違ったことではないのです。


 「権威」を問題にし、「資格」を問題にするのは、内容もないのに、医療活動をされては危険だということから、国家試験をして、資格を与えるのであって、資格とか権威をもつということは、内容があって、資格があり、権威があるということであります。


 つまり、権威とか資格というのは、中身をもっている人に対して、この人には中身があるのだということを証明し、中身のない人を避けるためのものであります。


 権威とか資格は、その人の中身を作り出し、中身を与えるわけではないのです。ですから、、たとえ医者という資格をもっている人がいても、医者としての勉強を怠っているならば、、つまり中身を持ち続けていなければ、なんの資格もなくなるものであります。


 祭司長たちのもっている権威の中身はなにか。彼らはいうまでもなく、神に仕えるものであります。そうであるならば、神のみを畏れ、神のみに仕えて、はじめてその権威も権威として発揮されるのであります。


 イエスは「何の権威によってこんなことをするのか」といわれて、その問いに直接答えないで、逆にこう問いかける。「ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか」。


 彼らはそれに対して答えられなかった。なぜかというと、もし「天からだ」と答えると、それならば、神に仕える祭司長たちが、なぜ率先して彼からバプテスマを受けなかったのかと、言われるだろうし、もし「人からだ」といえば、つまり、それはヨハネが自分勝手にやっているだけだといえば、ヨハネを本当の預言者として信じ、ヨハネからバプテスマを受けていた人々が大勢いたわけですから、群衆から攻撃を受けると思ったので、「わたしたちにはわかりません」と答えたのであります。


 つまり、彼らは群衆を恐れた。神のみを畏れ、神のみに仕えるべき筈の祭司長たちは、神を畏れないで、人間を恐れていたということになる。


 イエスはこのようにして、彼らがもっている権威の中身を暴露したのであります。彼らは中身のない権威しかもっているにすぎないので、それはもはや中身のない権威、単なる権威の座に座っている者にすぎないことをあらわにしてしまったのであります。


 ある人が、「権力」と「権威」の違いについていっている。「権威も権力も、言うことを聞かせる原理に関係している。権威はわれわれに自発的にいうことを聞かせる、しかし、権力は無理にいうことをきかせる」といっています。


 権力の座についている政治家、あるいは、権力を振り回そうとするときの警察力は、往々にしてわれわれに無理にいうことをきかそうとするのであります。


 祭司長たちは、神のみを畏れるという一番大事な彼ら自身の任務を放棄して、つまり、彼らの権威の中身を放棄して、ただ中身のない権力を嵩にして人々を無理矢理にきかそうとしているのであります。


 それに対して、イエスは本当の権威をもっていましたから、人々に自発的にいうことをきかせてきたのであります。


 イエスがある時、山の上で説教しますと、群衆はその教えにひとぐ驚いたというのです。なぜかというと、それは律法学者のようではなく、権威ある者のように教えられたからであると記されているのであります。


 イエスはいつも神のみ畏れ、神のみに仕えてきたからであります。


 祭司長たちは、神のみに従おうことをせず、ただ中身のない権力をふりまわして、人々を無理に従わせようとした。それに対してイエスは本当の権威をもっていましたから、無理にではなく、妙ないいかたになるかもしれませんが、自発的に、聞く方の自発性に基づいて、聞かせることができたのであります。


 しかしそれは聞く人間のほうから言えば、自発的ということですから、それを聞く人が、祭司長たちの権力を恐れ出すと、たちまち自分たちの自発性を放棄してしまって、権力者たちのほうを恐れだして、イエスから離れてしまうという脆さをいつももっているといるということだったのであります。


 われわれがもし神の前に畏れおののき、神のみを畏れるということを忘れてしまう時、われわれの自発性なんて実に脆いものであることを知っておかなくてはならないことであります。

 
 神のみを畏れていきて生きていきたいと思います。

 


          (54)


「捨てられるイエス」         十二章一ー一二節


  イエスはたとえでこういう話をし始めたのであります。

 ある人がぶどう園を持っていて、収穫の時が来たので、農夫たちの所にそのぶどう園の収穫の分け前に取り立てようとして、僕を送った。

 ところが農夫達は、その僕をふくろだたきにして、から手で帰らせた。それで主人は他の僕を送ったところ、彼らはその僕の頭をなぐった上、侮辱して帰らせた。それでまた他の僕を送ったら、今度はそれを殺してしまった。そのほか大勢の僕を送ったが、農夫達は同じように、打ったり、殺したりした。


 そしてとうとう主人は最後に自分の愛する子供を送った。自分の子供は敬ってくれるだろうと思ったというのです。ところが、農夫達は、「あれは後とりだ、こいつを殺してしまえば、このぶどう園は自分達のものになる」と話しあって、その主人の子供をつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ出して捨ててしまったというのであります。


  そしてイエスは、そんな事をされたぶどう園の主人はどうするだろうかと問いかけた。


 これを聞いていたのは、祭司長、律法学者、長老達なのであります。彼らはこのたとえは、イエスが自分達に当てて話している事に気がついた。それで怒って、イエスを捕まえようとしたが、群衆がそこにいたので、群衆を恐れて、この時は騒ぎをおこしたくなかったので、彼らはそこを去っていったというのであります。


  旧約聖書では、しばしば神の民であるイスラエル民族はぶどう園にたとえられております。ですから、当然ここでもこのぶどう園はイスラエル民族をさしていると思われます。


 そしてこのぶどう園の主人は、神であり、その僕達は預言者ということになります。
 そして最後の主人の愛する子とは、イエス・キリストご自身という事になります。


 神は選民であるイスラエル民族にその選民としての使命の実を得るために、あるいは、悔い改めの実を得るために、預言者たちを送った。しかしイスラエルの民は一向に悔い改めようとしないで、逆に預言者達を迫害し、殺してきた。そして今神が最後に送った神の愛子である自分をも殺そうとしていると、イエスは語ろうとしているのであります。


  こんなぶどう園の話はむちゃくちゃだと思われるかも知れません。こんな事をしてぶどう園を自分達のものに出来るはずがないと、今のわれわれは考えるかも知れません。

 しかしこの地方の、当時の社会ではこれはそれほど珍しい事ではなく、主人が力のない、気弱な主人だったら、こんな事をされたぶどう園の主人はあきらめて、ぶどう園の所有権を放棄してしまう事もあったそうであります。


  今の日本の社会だって、これと似たような話はいくらでもあるのではないでしょうか。暴力団に騒がれるのを恐れて、理不尽だと重々わかっていながら、いわゆる総会屋に多額のお金を出している大きな会社があることをわれわれは知っているのであります。


 今日本の政治を動かしている政治家が同じ事をやっているという事で大騒ぎになっているのであります。権威のない、気弱なぶどう園の主人だったならば、気弱な会社の幹部や政治家たちは、こうした暴力団まがいの理不尽なやりかたに負けてしまうのであります。
   
 
 このイエスのたとえ話は、祭司長、律法学者、長老達にそのままあてはまるのだろうか。


 彼らは神に仕える立場にいる人々であります。その人々が、このイエスのたとえのように、神の派遣した預言者達を殺し、そして神の独り子であるイエスを殺して、神の権利を剥奪しようとして、自分達が神に取って代わろうとしているのか、という事であります。

 
 確かに、祭司長達は、イエスを今殺そうとしているかも知れません。しかし、それは彼らがイエスを神の子であると知って、そう信じて、ぶどう園の中の農夫達のように、この神の子を殺したら、自分達が神になれると思ってイエスを殺そうとしているわけではないだろうと思います。


 どうしてもイエスを神の子とは思えないで、またそう思いたくないので、ただイエスは生意気なやつで、自分達の権威を脅かす存在だから、イエスを抹殺してしまうおうと思っているだけだと思います。


 イエスを殺して、自分達が神の座につこうなどと思っているわけではないだろうと思います。そういう意味では、イエスのこのたとえ話は乱暴な話であります。

 
 しかし、このイエスのたとえはどういう状況の中で、たとえられたかを考えておかなくてはならないところであります。


 それはその前の箇所、祭司長達がイエスに対して、「お前はどういう権威でこんな事をしたのか」という問いをめぐっての話の続きなのであります。


 十二章の一節は、「そこで」という言葉で始まっているのであります。つまりイエスはここで、権威を問題にする祭司長達のその権威を問題にしようとしているのであります。


 自分達こそ権威の座についているものだと言っている祭司長達、しかしその権威の中身はひとつもなく、神のみを畏れるのではなく、ただ群衆を恐れ、自分達の権威が失墜する事のみを恐れて、戦々恐々としている祭司長達の権威の実態であります。彼らが執着しているのは、ただ権力の座に執着しているのに過ぎないのだという事を、今イエスはこのたとえを祭司長達に語っているのだという事なのであります。
  
  そのように考えてこのたとえをもう一度読んで見ますと、このたとえはまさに人間がただ権力に執着しようとする時、こういう事になるのだという、その実態をよく物語っているのであります。


 人間が権力の座にしがみつこうとするとき、自分達は気がついていないかも知れないが、それは結局は神を殺して自分達人間が神の座につこうとすることなのだという事であります。

 
 先週の説教でも紹介しましたが、権威と権力の違いであります。「本当に権威のある人は、その中身があるので、われわれに自発的に言う事をきかせるが、その人を権威づける中身を失って、ただ権力に執着している人は無理に言う事をきかせようとするのだ」という言葉であります。


 たとえば、自分の専門分野できちんと勉強している教師は、生徒に対して、生徒を自発的に納得させて、言う事をきかせる事ができますが、自分の専門分野で何の実力もない教師は、やたらに威喝的に、ある時には暴力で生徒に言う事をきかせようとするのであります。

 
 祭司長たちは、真に神を畏れ、神に仕えるという姿勢において、自分達の権威を示そうとしないで、ただただ自分達が権力を失う事を恐れて、自分達の権威に攻撃してくるイエスの存在がこわくて、暴力的にイエスに襲いかかろうとするのであります。


  しかし、このぶとう園の主人は、日本の政治家や会社の幹部とは違って、暴力を恐れて、泣き寝入りしたり、お金を与えてこの理不尽なやりかたを容認しようとはしないのであります。


 イエスは「このぶどう園の主人は、こうした農夫達をどうするだろうか」、と問いかけて、「彼は出て来て、農夫達を殺し、ぶどう園を他の人々に与えるだろう」というのであります。このぶどう園の主人は毅然とした態度で臨むというのであります。

 
 しかし、ただこれだけだったら、力をもった少し気迫のある政治家とか指導者でもやる事かも知れません。しかし、イエスはその後大変奇妙な事をいきなりいうのであります。


 「あなたがたはこの聖書の句を読んだことがないかのか」と言って、詩篇の一一八篇の句を引用するのであります。「家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされた事で、わたしたちにの目には不思議に見える。」


  これは、祭司長達がイエスは邪魔な存在だと言って、イエスを十字架で殺し、エルサレムの郊外に捨てるだろう、しかしそのイエスがこの世を救う隅の頭石になるということであります。


  それは、このぶどう園の主人はただ怒り狂って、農夫達を殺すというのではなく、農夫達が邪魔だと言って捨てたイエスを隅のかしら石にして、この世を救おうとしているのだという事であります。


 このぶどう園の主人の最後のお考えは、裁きではなく、救いだという事であります。ぶどう園の主人である神はこの「捨てられたイエス」によって、人間を救う事をお考えになっているのだという事なのであります。


 ぶどう園の主人は、今農夫たちの理不尽な暴力に対して、権力を発揮して、農夫たちを殺して、そのぶどう園をとりあげてしまうのは当然だろうというのであります。


 しかしイエスは、そう語りながら、本当のぶどう園の主人である神は、そうはしないというのであります。

 人々が、もう用はない、いや邪魔だと捨ててしまった石を用いて、その家全体を支える隅の頭石になさるというのであります。
 それはたまたま家造りの捨てた石が偶然そのように隅の頭石になるというのではなく、神がそうなさるのだ、というのであります。「これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える」というのであります。
  

  神はご自分の権力を暴力的に行使して、権力を示そうとするのではなく、その権力を捨てて、ご自分の独り子であるイエスを十字架で捨てることによって、神の本当の権威を示されるのであります。そしてその事をイエスご自身も納得して十字架の道を歩もうとするのであります。
  

  イエスはある時弟子達に対して、あなたがはこの世の人たちのように、その民の上に権力をふるってはならないというのであります。

 「あなたがたの間で、偉くなりたいと思うものは、仕える人にならなくてはならない」と言い、そして「人の子が来たのは、(つまりそれはイエス自身のことですが)、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるために来たのだ」と言われたのであります。
  
 
 人を裁くためならば、ただ権力を暴力的にふるえばいい事であります。しかし神は、地獄でわれわれの身体も魂も滅ぼす権力も力も、もったかたですが、その力をわれわれを裁き、滅ぼすために行使するのではなく、われわれの頭の髪の毛一本一本を数え尽くして、われわれの弱さを知り、救おうとなさるかたなのであります。


 神はわれわれ人間を愛し、救おうとするかたであります。だから今その権力を捨てようとするのであります。
  
 
 人を裁く時には権力は必要かも知れませんが、人を愛する時には、権力はかえって障害になるからであります。


  ご自分のひとり子であるイエス・キリストを「隅の頭石」として、用いようとする神は、深い愛と、高い謙虚さで、われわれのおごりたかぶりの罪を打ち砕き、われわれを謙遜にさせて、われわれを救おうとされるのであります。