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「火で塩づけする」」 マルコ9章49-50節

 

 今日の聖書の箇所は「そして、互いに和らぎなさい」というイエスの言葉で終わっています。


 そしてこの「互いに和らぎなさい」というイエスの言葉は、ヨハネが自分たちがイエスの弟子であることの権威を持ち出して、自分たちについてこないものが、イエスの名前を使って悪霊を追い出しているのは、けしからんと思い、やめさせましたと誇り高く言ったのに対して、イエスが「やめさせないが」よい」とたしなめて、その結びの言葉として、イエスは「互いに和らぎなさい」といったのであります。


 われわれはすぐ人を裁きたがるのであります。特に自分たちは特別な知識をもっているとか、偉い先生のもとについているなとど思っていると、その偉い先生を嵩にして、人を批判し、裁きたがるものであります。すぐ党派心をもつ。


 人は誰にも教えられないで、生まれつきもっている技術がある、それは人を裁く技術だという言葉を思いだします。


 イエスはそういう弟子たちの党派心を戒め、お前たちはどんなに小さな存在でしかないかを悟らせる。そして最後に「互いに和らぎなさい」という。


 しかし、問題はただ和らげばいいというのではない。「互いに和らぎなさい」というのです。自分がただよい気持ちになって、一方的に相手を許し、相手に対して和らいだ気持ちにもって悦に入っていればいいというのではないのです。
 相手もこちらに対してやわらいでもらわないといけない。


 これは生半可なことではできないことであります。これはこちらがどんなに謙遜になり、誠実の限りをつくし、忍耐強く相手に対さなければできないことであります。


 そしてこれは誰に対しても出来ることではないと思います。みんなに対してそういう態度をもてたらいいのですが、現実としてはそんなことはできない。しかし、この人に対して、この人だけに対しては「互いに和らがなければならない」という人が、一人や二人だれしもいると思います。


 そういう人に対して和らぐにはどうしたらよいか。


 相手からも「和らぎ」を引き出すということは、ほんとうに難しい。しかし、和解するということは、この「互いに」ということがなければ、和解にはならない。ただいたずらに、こちらの正しさを主張しても、こちらの正当性を主張すればするほど、相手を窮地に追い込んで、相手を ますますかたくなにする。

  
 ですから、イエスが「互いに和らぎなさい」という最後の言葉を述べるまでに、多くのことをいわなければならなかったのであります。


 イエスは「互いに和らぎなさい」という時、「あなたがた自身のうちに塩を持ちなさい、そして互いに和らぎなさい」という。

 塩をもって和らぐという表現はおもしろい。愛をもってとか、寛容の心をもってならわかりますが、ここでは塩をもって、言っている。砂糖ならば、甘さを表しますが、そしてわれわれはしばしば、砂糖を持って人と和らごうとしますが、ここではあの辛い塩をもって、和らぎなさいというのです。


 聖書では、塩というのは旧約聖書でもよく使われている。神は犠牲の供え物を捧げる時に、塩によって清めてて捧げるということで、塩は清めをあらわすともいわれている。

 また塩というのは、時間がたっても変わらないものの象徴として用いられ、永遠を表す意味にも使われている。


 イエスは「あなた方は地の塩である」といわれたことがありますが、それはイエスの弟子がいつも真実を語り、真実に生きることによって、世の腐敗を防ぐ役割を果たすのだということのようです。


 そしてイエスは「人はすべて火で塩づけられなければならない」という。これもあまり聞き慣れないいいかたです。


 「火で塩づけられる」ということはどういうことか。旧約聖書のレビ記(2章13節-)には、こういう箇所がある。
 「あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなればならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。もしあなたの初穂の素祭を主に捧げるならば、火で穂を焼いたものをあなたの素祭としてささげられなければならない」とあります。

 塩と同じように、火も神に捧げるものを清める役割を果たしている。

 
 ここのマルコの箇所では、火というのは、その前に出てくる「地獄の火」と関係しているようです。「地獄ではうじがつきず、火も消えることがない」というところです。


 火で清めるというのは、地獄の火が清める、つまり神の裁きの火で清めるということです。
 バプテスマのヨハネはイエスのことを「このかたは」聖霊と火でバプテスマを授ける」といっている。

 

 「火ど塩づけする」とは神の裁きによってわれわれはきよめられ、そうすることによって「人と真に和らぐことができる、人と真に和解することができるということであります。


 イエスは「人はすべて火で塩づけられなければならない」というのです。「互いに和らぐ」というなんでもないことも、火で塩つけられないと、それはできないということあります。


 「互いに和らぐ」というごく単純なこと、この世のなんでもない道徳についてすら、それを本気でやろうとするならば、この世を越えた神の裁きの火によって清められ、この自分の罪が神によって裁かれることがないと、「互いに和らぐ」ということもなかなかできないのだということであります。

 


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「神が合わせられた結婚」        十章一ー十二節

 

  先週の説教の題は「互いに和らぐ」という題でした。今日の説教のテーマであります結婚生活こそ、この「互いに」和らぐという事がないと成り立ちようがない生活なのではないかと思います。


 結婚生活というものは、ただ片方がひたすら「和らごう」としても成り立たないのではないかと思います。形の上では成り立つかも知れませんが、それは中身のない結婚生活でしかないのであります。

 このごろの言葉で言えば、家庭内離婚という事になるのであります。「互いに」という事が一番求められるのが、結婚生活という事であります。
 
 
  今日の説教のテーマは、結婚ということでありますが、イエスが結婚について語る時、離婚の問題を通して、結婚の意義について語り出すというのは、何か皮肉な気がいたします。

 離婚をしようか、と考える時に、その人がそもそも結婚という事をなんと考えているかが、暴露されるのだという事であります。
 

 イエスが人々に教えておられた時、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試そうとして質問したというのであります。「夫はその妻を出しても差し支えないでしょうか。」


  一人のパリサイ人が自分の問題として、あるいは自分の知っている人の問題として、離婚の問題について苦しんで、イエスに問うのではないのです。

 数人のパリサイ人がイエスを試そうとして、離婚が許されるかどうかを質問しているのであります。


 それはパリサイ派の中でも、離婚を認めるグループと認めないグループがあって対立していて、イエスをどちらかの陣営に取り込もうとしていたのだとも言われますし、あるいはバプテスマのヨハネがヘロデの離婚を批判して殺されましたが、イエスはそのヘロデの離婚問題についてどのように考えているかを問い、試そうとしたのだとも言われます。

  いずれにせよ、「夫はその妻を出しても差し支えないでしょうか」という問う問い方、そういう質問の仕方、そういう律法についての考えかた自体が本当はおかしいのだと、イエスは考えているようなのであります。

 
 「差し支えないか」「律法でゆるされか」という問い方であります。それはたとえば、遅刻は何回まで許されるか、というような問いと同じであります。遅刻は何回までしたら、留年しなくてすむか、と言う問いを出すという事は、もう授業にできることなら出たくない、本当はサボリたくて仕方ない、しかたなく授業に出ているという事でしかないという事であります。本当に授業が面白く、勉強することが面白ければ、やむを得ず遅刻するという事はあったとしても、遅刻は何回まで許されるかという問いかたは出でこないはずであります。


  律法的にいって、「それは差し支えないか、ゆるされか」というように、律法をとらえるとらえ方そのものが、われわれが律法を正しく捕らえていない事なのであります。


 それは律法を神のみこころのあらわれとして受けとめようとしないからであります。それは律法に対して消極的な態度なのだ、大事なのは、その律法を命じられた神のみこころはどこにあるのか、と問うことだとイエスはいうのであります。


  そういうパリサイ人の律法に対する態度を批判して、イエスは「天地創造の始めから、神は人を男と女とに造り、それ故、人はその父母と離れ、ふたりの者は一体となるべきである。だから、神が合わせられた者を、人は離してならない」と、言うのであります。


 イエスは、それが律法的に許されかどうかを議論しようとはしないで、神のみこころはどこにあるかを考えてみよ、というのであります。

 
 遅刻は何回まで許されかどうかを考える前に、自分は何のために学校に行って授業を受けようとしているのかを考えなさいという事であります。

 聖日礼拝は年に何回休むことがゆるされますかとか、絶対休んではいけないものなのか、それは厳守しなくてはならないものなのかと考えるのではなく、そもそも礼拝に出るという事はどういうことなのかを考えなさいという事であります。


 そうしたら、礼拝にでるという事は義務でなく、喜びになるだろうという事であります。もちろん日本での現実の生活では、聖日礼拝を休まなくてはならない事はいくらでもあるだろうと思います。その時には、「何回まで休む事がゆるされか、差し支えないか」というような問い方をしないで、やむを得ず休みますといって休めばいいのであります。
  
 
 イエスはパリサイ人の問いに一応彼らの流儀に従って、「モーセはあなたがたになんと命じたか」と問い返しております。


 彼らは「モーセは、離縁状を書いて妻を出す事を許しました」と言って、律法的には「夫はその妻を出す事」、つまり、離縁を認めているのだ、言おうとしました。

  
 するとイエスは「モーセはあなたがたの心がかたくななので、そう言っただけだ」と言うのです。


 それは、当時は夫の全く勝手な、夫の都合で一方的な言い分で、妻を出していたので、その夫の横暴さを抑えるために、離縁の理由を文書にして書けるくらいに、離縁しなければならない正当な理由があるならば、離縁状を書いて、離縁を認めようとしたのであって、むしろそのモーセの言葉は、離縁を軽々しくさせないための定めなのだというのであります。

 
 だから、モーセは、つまりは、神はという事ですが、離縁ということを認めているわけではないのだということであります。

 
 そうしてイエスは、離縁が許されかどうかを考えるよりも、そもそも結婚とは何かを考えなさい、というのであります。そうしたら、離婚していいかどうかという事も自ずから分かってくるだろうというのであります。


  結婚は、神が合わせられたものだ、だから人が勝手に離してはならないのだというのであります。
  

 「神が合わせられたもの」というのは、どういう事なのでしょうか。それはわれわれの自由な選択とか決断とかというものを、排除し、無視したりするということなのでしょうか、われわれはただこの人と結婚しなさいという誰かの命令を受けて、ロボットのように動かされるだけなのでしょうか。


  わたしは婚約式の時に、必ずこれから結婚しようとする二人にこういいます。

 決断するという事は、ただ自分達でこう決めたという事ではない、ある人がいっているけれど、決断すると言う事は、まず自分のうちに何かが生まれてくる事だ、何かが出来てくる事だ、そしてそれを豊かに育てていく事だ、そしてそれを清める事だ、そのようにしてそれを本当に実現する事なので、決断するという事は手をたたいたら、ぱっと決まるような事ではないのだ、というのであります。

 
 決断するという事は、自分達の中に何かが生まれて来る事だ、そしてそれを育てて、そしてそれを清める事だ、清めるという事は神のものにするという事です。つまりその決断がただ自分達の勝手な、好き勝手な選択ではなく、その背後に神の導きがあったのだと信じて欲しいという事を言う事にしているのです。


  聖書の言葉に、「恐れおののいて自分の救いの達成につとめなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだ」(ピリピ人への手紙二章一二ー一三節)とあります。


 これから結婚してこの人と生涯を共にしようという願いを起こさせるのは、神なのだという事、愛し合い、ふたりで決断したその選択の背後に神の導きがあった事を信じて欲しいと切実に思うのであります。


 結婚というものが、ただ自分達が好きだからお互いに自分達の好き勝手で結婚するんだ、ということで成り立つ結婚というものが、いかにもろいものかということであります。

 それは嫌いになったら、いつでも別れましょうという事でしかないからであります。そこには「恐れおののいて、自分の救いの達成に努める」というところがみじんも感じられないからであります。


 「神の前に恐れおののく」という謙虚さのない結婚というものが、如何にあやふいものかであります。
  
 
 神が合わせられるという事と、自分達の自由な選択という事をどうやって合理的に説明するかは難しいし、あるいは合理的に、つまり因果関係的には説明出来ないと思います。


 しかし婚約式をあげる時とか、あるいは結婚式をあげる時に、この自分達の選択の背後に、神の導きがあったのだと受けとめる事が必要だと思います。

 

 日本人が「縁」という言葉で表して来た言葉、それを聖書では、「神が会わせられたもの」というのであります。


  自分達の選択の背後に、この「神が合わせられた」ものがあったのだと受けとめるか受けとめないか、信じるか信じないか、それによって結婚というものはずいぶんと違ってくると思うのであります。
  

  始めに申しましたように、結婚生活というものは、「互いに和らぐ」ということ、この「互いに」という事がどうしても必要なのであります。

 
 ですから、どちらか一方が、別れたいという気持ちを持ち始めた時に、ただ律法的に絶対に離婚は「あいならん」といえるかどうかであります。

 一方がただやみくもに堪え忍べばいいかどうかであります。それこそ、形の上では離婚していなくても、家庭内離婚と言う事はいくらでもあるわけで、別れたいと言い出した人とただ一緒にいることが幸せかどうかは一概に言えない事であります。

 
 パウロも、信者でない人との結婚については、別れたければ別れた方がいい、しかし別れたくない、一緒にいたいというのならば、一緒にいたらいいと言っております。

 
 そしてパウロはこの離婚の問題について、(コリント人への第一の手紙七章)これは譲歩するつもりでいうのであって、命令するのではない、とか、わたしは主の命令を受けてはいないが、主のあわれみにより信任をうけているものとして言うのだとか、少しまわりくどい言い方をするのであります。


 また「わたしがこう言うのは、あなたがたの利益になると思うからであって、あなたがたを束縛するためではない」といったりするのであります。


 ある人が言うには、あの勇ましいパウロが、なんと歯切れの悪い言い方をしているものかと思うかも知れない、と言っております。それはパウロが、人々の弱さをよく知っていて、その人々が福音によってよく生きられるよう願っているから、そういう表現になったのだと思われるのであります。
  
 
 もしイエスも、パリサイ人のように主イエスを律法問題で試そうとするためではなく、現実に悩み苦しんで、妻と夫と別れてはいけないがどうかと、相談にこられたら、ここにあるのとはもっと違った答かたをしたに違いないと思います。


 あれほど、姦淫について厳しい態度を示したイエスは、現実に姦淫の現場で捕らえられた女に対しては、どんなに深い赦しの態度でのぞまれたかをわれわれはよく知っているからであります。


  離婚はいいか悪いかと言う事を律法的に、カトリツク教会のようにそれを禁じることが聖書に即しているとは思えません。


 冷たい家庭内離婚を続けるよりは、いっその事別れて新しい生活を始めた方が良い場合もあるし、神が合わせられた事を信じて、ともかく忍耐してその関係を守る事によって、新しい愛が生まれてくることがないとはいえないのであります。


 「神が合わせられたものを、人が離してはならない」という事を、離婚を禁じる単なる律法の言葉としてではなく、われわれがこの人を選んだという自分の選択を清める言葉として、われわれの愛をさらに深める言葉として、そして危機にひんする事になるかも知れないわれわれの結婚生活を、もう一度立て直し、愛をつくり出す恵みの言葉として、聞きたいと思うのであります。