(37)


「自分を捨て、自分の十字架を負うて」.  八章三四ー三八節

  主イエスは「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思うものは、それを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。」といわれるのであります。

  若い時、この聖書の言葉にふれて、感激して、キリスト教を求め始めた人は多いのではないかと思います。そしてまたこの言葉が重圧となって、キリスト教から離れていった人も多いのではないかと思います。結局は自分を捨てきれない事を知り、結局は実際に自分の十字架を負うて生きて行く事は容易ではないことを知るからであります。

  「自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従って来なさい」と主イエスが呼びかけた人は、特別な人なのでしょうか。

 カトリックの解釈では、信者には普通の信仰者と聖職者になろうと誓願を立てた人と分けて、この言葉はそのように誓願を立てて、修道院にでも入ろうという人に対して呼びかけたのであって、一般の信者に呼びかけている言葉ではないと考えるようであります。

 そのように言われたら、われわれはずいぶん気が休まるかも知れません。

 しかしここには、三四節を見ますと、「それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて」と書いてあるのであります。つまりこの言葉は特別な弟子たちだけに言われた言葉ではなく、群衆に対して、わざわざ群衆を呼び寄せて、そう言われたというのであります。

  しかし本当は、ここに突然、群衆が出てくるのは非常におかしいのです。イエスは弟子達だけを連れてピリポ・カイザリヤの村に出かけているからであります。
 この時イエスは弟子達だけに重要な事を告げるために、わざわざ弟子達を群衆から切り離して、ガリラヤから離れたこの村に来ているのであります。そして弟子達に「あなたがたはわたしのことを誰だと思っているか」と問い、それに対して弟子達も「あなたこそキリストです」と告白する。

  それに対して、この事は誰にも言うな、つまり、群衆に対しては言うな、と言われたのであります。
 それからイエスは自分が多くの苦しみを受け、そして十字架で殺されるのだと告げるのであります。

 ここには本当は弟子達だけがいるのであります。それなのに、いきなり群衆を呼び寄せというのはおかしいのであります。これは明らかに後の教会が付け加えた言葉であります。マタイによる福音書の方には群衆は出で来ないで、弟子達に告げられた言葉になっております。もっともルカによる福音書は「みんなの者に言われた」となっております。
  
  つまり後の教会が、この「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従って来なさい」というイエスの呼びかけは、決して弟子達だけに呼びかけられた言葉ではない、修道院にでも入ろうと誓願を立てた人にだけ呼びかけられた言葉ではない、どんな人に対しても、キリストに従おうとする人に対して呼びかけられた言葉なのだ、と言いたいために、ここにはわざわざ「群衆を弟子達と一緒に呼び寄せて」という、ある意味では不自然を承知で、この句を付け加えたのではないかと思います。

 この言葉は、「すべて重荷を負うて苦労しているものは、わたしのところに来なさい」と、イエスが大変心優しく呼びかけた同じ群衆に対して、呼びかけている言葉なのであります。

  
  この「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従って来なさい」という言葉を、ある特別な人だけに語られるイエスの言葉としてでなく、群衆に語られる言葉として受けとめるためにはどうしたらいいか、という事であります。

  この言葉は、マタイによる福音書がそうでありますように、もともとは始めは弟子達に語られた言葉であります。この言葉を聞いた弟子達は、感激しただろうと思います。少なくともペテロは感激しただろうと思います。
  
  イエスがこれから十字架で自分は死ぬんだと言っために、ペテロがそのイエスをいさめた時、ペテロはイエスから「おまえは神のことを思わないで、人の事を思っている。サタンよ、しりぞけ」とひどく叱られてしまったのであります。

 その直後に「自分の十字架を負え」と言われたという事もあって、ペテロにとってこの言葉は特別に印象深かったと思います。

 そのため、後にイエスが自分は十字架で殺されるともう一度弟子達に告げた時、今度はペテロは前と違って、「わたしもあなたと一緒に死にます」というのであります。わたしもあなたが言われたように、自分の十字架をとってあなたに従っていきます、と誓うのであります。
  
  その時イエスはなんと言われたか。よく言った、と言ってペテロの事をほめたか、そうでなかったのです。「おまえはそんな強がりをいっているけれど、いざという時には、わたしを見捨てて逃げ出すだろう、おまえは十字架などとても負えないだろう」という意味の事を言われたのであります。
  
  イエスは弟子達に「わたしについて来たいと思うならば、自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従って来なさい」と言われているのであります。そしてペテロはそのイエスの言葉を受けとめて、その通りの事をしますと言うのであります。

 それなのにイエスは水をかけるような事をいうのであります。イエスもまた「自分を捨て、自分の十字架を負うて」ということがどんなに難しいかという事はよくご存知であったという事であります。
  
  ヨハネによる福音書には、後に復活のイエスがこのペテロに「私を愛するか」と三度にわたって、聞き、ペテロが「わたしがあなたを愛する事はあなたがよくご存知です」と、多少遠慮がちに答えますと、そのペテロにイエスは「おまえが若かった時には、自分で帯をしめて思いのままに歩きまわっていたが、しかしこれからはほかの人がおまえに帯を結び付けて行きたくないところにつれていかれる事になるだろう」と不思議な事をいわれるのであります。

 そしてこれはペテロがどんな死にかたで神の栄光をあらわすかを示すために言われたのだと、聖書は説明するのであります。(ヨハネ福音書二一章一五ー)
  
  つまり、自分の十字架を負うなんていう事は、自分の決心とか、自分の気負いで、できることではない。それが出来ると思うのは、若気の至りで、そんなことはできるものではない。

 自分の十字架を負うという事は、他人がおまえに帯を結び付けて、おまえがいやだいやだといっても、おまえが行きたくない行きたくないと言っても、他人が負わせるものなのだ、自分の十字架を負うという事は、その他人がおまえに無理矢理に負わせるもので、そのように運命のようにやってくる十字架を負うていくという事なのだ、という事であります。
  
  自分の十字架を負うという事は、自分で自分の十字架を探し出すものではないということであります。運命のように、それは他から、上から負わされるものであります。その十字架を負うということであります。
  
  
  その人が負わされる十字架は、その人が負う事の出来る十字架なのだと考えていいのではないでしょうか。少なくとも英雄心とか自分の気負いで負う十字架ではなく、神のみこころに従っていくという中で負う十字架、負わされる十字架、それは神がこのわたしに負わそうとしている十字架なのですから、負えるのだという事は信じていいのではないでしょうか。そう信じなくてはいけないのではないでしょうか。
  
  大事な事は、あの若い時のペテロ、自分の弱さを知らない時のペテロではなく、「わたしがあなたを愛している事は、あなたがご存知です」と非常に謙遜になっているペテロ、そしてイエスに従って歩み続けようとしているペテロの姿であります。

 つまり十字架を負うんだとか、自分を捨てるんだという事ではなく、とにもかくにも、イエスに従い、神に従って、信仰生活をし続けていくということなのであります。

 

 


           (38)


「自分の命を捨てる」         八章三四ー九章一節

 

  イエスは自分を捨てなさいというのであります。「自分の命を救おうと思う者はそれを失う」のだというのであります。

  イエスは病人を見ると、あわれに思ってその病をいやしてあげたのであります。それどころか、もう死んでしまった会堂司の娘を生き返らせてあげた事もあるのであります。

 そのイエスが「自分の命を救おうとするな」と言われるのであります。それではイエスが病をいやしてあげたり、生き返らせたりしたのは何のためだったのでしょうか。

 百匹のうち一匹の小羊が迷い出ていたら、他の九十九匹の羊をうっちゃっておいてまでして、その迷い出ている小羊を捜し求める、それが神の愛というものだ、といわれたイエス・キリストなのであります。

 そのイエスが「自分を捨てなさい」とか、自分の命を救おうとするな、と言われるのであります。

 あんなにひとりの人間の命を大切になさるイエスが、その命を救おうとするなといわれるのはどうしてなのでしょうか。
  
  三六節を見ますと、「人が全世界をもうけても自分の命を損したら何の得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。」とイエスはいわれるのであります。

 つまりわれわれ一人の命は全世界の富に匹敵する命だということであります。そしてわれわれの命は一度失われてしまったら、どんな代価を払っても取り戻せないないほどの価値のある命なのだと言われるのであります。

 われわれの命、それはある有名な人、社会的に何か大変貢献した人の命ではないのです、イエスは今群衆にむかって言っているのですから、名もない、われわれ一人一人の命について言っているのであります。そのわれわれの命を、イエスがどんなにかけがえのない命としてみておられるか、と言う事であります。
  
 ここにはわれわれが自分の命について思っている以上に、われわれの命を価値のあるものとして見てくださっているかたがおられるという事であります。

 われわれは自分の命についてそんなに大事だなんて思っていないのではないかと思います。しかし、もしわれわれを愛している人がいた場合には、その人からみれば、この私の命も全世界の富に匹敵する命として見ているだろうという事は想像できることであります。


  今イエスはわれわれの命を全世界の富に匹敵するかけがえのない命として見ておられるのであります。そのかけがえのない命を失っていいのかというのであります。

  われわれは、この箇所の「自分を捨てなさい、自分の十字架を負いなさい」とか「自分の命を救う者はそれを失うのだ」という所を読むとき、何か大変重苦しい思いで読むのではないでしょうか。何か悲壮な気持ちで読むのではないでしょうか。ここの所は、できることならさっと読み飛ばしたいところなのではないでしょうか。

 ここの所は、このイエスの言葉をまともに受けとめたら、それこそこの世的な楽しみを一切捨てて、修道院にでも入らなくてはならない気持ちになるのではないでしょうか。もう一切自分の幸福を求めてはいけないのだと言われているような気持ちにさせられるところなのではないでしょうか。

 しかし、われわれはみな自分の幸福を求めてキリスト教を求めたのではないでしょうか。なんとかして自分が救われたいと思って、キリスト教を求め始めたのではないでしょうか。


 そして誰よりも、自分自身で思うよりも、この私の命を尊いと思ってくださっているイエスが、今われわれに「自分の命を救おうと思うものは、それを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう」といわれているのであります。


 そうであるならば、このイエスの言葉をもっと明るい気持ちで耳を傾けなくてはならないのではないでしょうか。この私に何よりも幸福を与えようとしておられるイエスがそう言われているのだという事を考えて、この箇所を聞きたいと思うのであります。
  
  イエスはある時「自分の命のことで思いわずらうな」と言われました。「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらうな」と言われたのであります。


 「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでものばせるか」というのです。そうして「これらのものは、つまり何を食べようか、何を飲もうか、なにを着ようかという事は、あなたがたの天の父があなたがたに必要である事をご存知であり、与えてくださるのだから、まず神の国と神の義を求めなさい、つまり神の愛を信頼しなさい、そして自分の命についての思いわずらい、自分の命についての執着心を捨ててしまいなさい」といわれたのであります。


 その事から考えてみますと、ここでイエスが「自分の命を救おうと思うな」という事で言おうとしている事は、自分の命を自分で守ろうとする執着心を捨てなさいという事であることがわかります。


  それに対して、「自分の命を失う者は、それを得る」というのであります。自分の命を失うというのは、そのように自分の命に執着し、自分が自分がという主張をやめるという事ではないかと思います。

 どうしたらそのような自分に対するこだわりを捨てられるか、自分の命を捨てられるか。

 自分の命を失うとか捨てるとかという事を勘違いして、自分の欲望を捨てて、いわゆる出家する事、世捨て人のような生活をする事だと思う人がおりますが、そういう生き方というものは、結局は自分の魂の浄化をも求めるという事で、結局は自分だけは天国にいきたいとか、自分だけは救われたいという事と同じで、形を変えて自己に執着している事ではないでしょうか。
  
  イエスはある時、自分の命を捨てるという事をこのように言っているのであります。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」というのであります。

 自分の命を捨てる場所は、自分の救いの達成のためではなく、その友のために、であります。ここで考えさせられるのは「人がその友のために」と言っている事であります。

 イエスだったならば、「人はその敵のために命を捨てる、これよりも大きな愛はない」といいそうではないでしょうか。なぜ「敵」ではなく、「友のために」なのでしょうか。
  
  それはここでイエスが言いたい事が、その前の句にあります「わたしのいましめはこれである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」といわれ、それに続いて「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と言っているわけで、「お互いに愛し合う」という事が目的なので、それで「敵のために」にではなく、「友のために」となっているのではないかと思います。

  つまり大事な事は、ただこちらの一方的な愛ではなく、「お互いに愛し合う」という関係を作り出すことなのであります。

 それならば、「友」でなければならないわけであります。そして「お互いに愛し会う」関係を作り出すためには、どうしてもある時には、こちらが一方的に、この自分の命を捨てるという覚悟がないと、お互いに愛し合うという関係は成り立たないのであります。

 もちろん敵を愛するという事は、その最後的な目標は、その敵との関係が友との関係になって、お互いに赦し合い、お互いに愛し合うという事を願っている事は確かであります。

 しかし、ただ「敵を愛する」ということだと、何か相手はどうでもよく、ただこちらの自己犠牲だけが浮きぼりにされるようになって、それでは何のために自分の命を捨てたかわからなくなってしまうのであります。

 自分の命を捨てて、そういう自分の姿にほれぼれしているようでは、イエスが「自分の命を捨てなさい」と言われる事と全く遠いものになってしまうのであります。
  
 イエス・キリストは確かに、われわれが神と敵対関係にあった時に、われわれのために命を捨ててくださったのであります。しかしそれはあくまで、われわれの神との関係を敵対関係から、友との関係に変えるためにそうなさったのであります。
 

 「お互いに愛し合う」という事、この事の中に、自分の命を捨てるということが正しく行われるのであります。
  
  その事をイエスは「わたしのために、また福音のために、自分の命を失う者は」と言われるのであります。

 「わたしのために」という事は、イエスのためにという事であります。つまりこの私を救うためにご自分の命を捨てようとするイエスのためにであります。

 われわれはそういうイエスの愛を考える時に、一番正しく愛するという事を学ぶことができ、自分の命を捨てるという事ができるのであります。いたずらに悲壮感にとらわれたり、殉教者気取りで命を捨てる事を考えてはいけないのであります。

  友のために命を捨てるという事は、ある意味では平凡な事、しかし実際にそれをしようと思ったらとても難しい事、本当に謙遜にならないと出来ない事なのであります。

 愛するという事は、お互いに愛するという関係を作り出す事が大事なのであります。こちらがただ一方的に自己犠牲的に愛していればいいと言うのではないのです。相手から愛を引き出す、それはやさしてようでいて、これは本当に難しいのであります。よほどこちらが謙虚になつていないと、自分の命を捨てるほどに深く愛さないと、相手から愛を引き出すことはできないのであります。

 どうしたらそのような愛を行うことができるか、それは努力だけでは、根性とか、頑張ってみてもだめなのであります。

 愛は、人から愛を受けて始めて、人を愛する事も学べるのであります。愛されて始めて、人を愛する事も学べるのであります。

 そのためには、イエス・キリストから学ばなければならない、イエス・キリストを心から愛するようにならなければならないのであります。イエスを恥じるようであってはならないのであります。三八節。

  「わたしのために、また福音のために、自分の命を捨てる」という事は、戦争中の日本のように、国家のためにとか、天皇のために命を捨てるという事とは違うのであります。あるいは何か宗教の教祖様のために命を捨てるという事でもないのです。

 このわたしを愛し、このわたしを救うためにご自分の命を捨てようとなさり、そして事実捨ててくださったイエス・キリストのために、その福音のために自分の命を捨てなさい、というのであります。

 それはそのイエスを愛して、従っていきなさいという事なのであります。

  これは個人的な思いかも知れませんが、「命を捨てる」という言葉は、あの戦時中のスローガン、国家のために天皇のために命を捨てるということを思い出して、この言葉はあまり軽々しく使いたくないのであります。

 それよりは、イエスを愛していく、イエスに従って行くという表現の方がイエスの意図していることを正しくあらわしていると思います。

 そういう中で、自分を捨て、自分の命を捨てていく、ということ、そしてそれは自分の救いを求めるという事につながっていくのだという事であります。