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「奇跡を悟る」            八章一ー二一節

  大勢の群衆がイエスの話を聞くために集まって来て、三日間も一緒にいたのであります。その間ろくに食べる物もなかったようなのです。イエスはその群衆を解散させて、帰り道につかせようとする時に、このまま、空腹のまま帰らすのはかわいそうだと思った。

 「彼らを空腹のまま家に帰らせたら、途中で弱り切ってしまう」と言われて、弟子達を見た。すると弟子達はあわてて、「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々に十分食べさすことができましょうか」といった。

 それでイエスは弟子達に、「パンはいくつあるか」と尋ねて、弟子達のもっていた七つのパンで、そのパンを取り、感謝してこれをさき、人々に配った。人々の数は四千人であったというのであります。

  これはもうすでに学びましたマルコ福音書の六章の記事、男だけでも五千人の人をパン五つで養ったという記事と非常によく似ているのであります。

 それで多くの聖書学者は、これはあの記事の繰り返しだろう。六章の記事は選民イスラエル民族が対象で、この八章の記事は異邦人を対象にしているのだと説明するのです。

 七つのパンと七つのかごという「七」という数は、当時の人々の考えでは、世界は七つの民族から出来ていると考えていたのだというのです。

 ですから六章の記事では、十二のかごがでてまいりますが、それはイスラエル民族の十二の部族をあらわし、あのパンの奇跡は選民イスラエルの民に注がれる神の恵みの奇跡をあらわし、この八章ではその神の恵みは異邦人にまで、全世界の人々にまでおよぶのだという事をあらわすために造られた記事なのだうと説明するのであります。

 確かにこの奇跡は、前後関係から言って、異邦人の地で行われたようで、また七という数は、全世界をあらわす数であるのかも知れません。

 一度行われた奇跡を重複して用いたのだという説明は納得させるかも知れません。

 第一、あの男だけでも五千人の人をパン五つで満腹させたという大きな奇跡を体験した弟子が、まるでその体験を忘れたかのように、イエスがこの群衆を空腹のまま帰らせるのはかわいそうだと言われると、「こんな荒野でどこからパンを手にいれて、これらの人々に十分食べさせることができるのですか」と不満げに言うのはおかしく感じられるのです。

 これは弟子達があの奇跡を体験していないから、こういう言葉が出てくると思われます。

 ですから、このパンの奇跡は一度あっただけなのだと考えた方がわかりやすいのであります。ルカによる福音書とヨハネによる福音書はこの奇跡は一度しか記していないのであります。

  わずかのパンで、大群衆を養ったという奇跡は一度だったのか、二度だったのか、それは本当はわれわれにはわからない事であります。その真偽を確かめようはない事であります。

 ただ聖書は、マルコによる福音書はこれを二度あった事として書き記し、神の恵みはただ、イスラエルの民だけにでなく、全世界に及ぶのだという事をあらわそうとしたのであります。
  
  そしてもう一つこの記事を通してマルコ福音書がわれわれに伝えようとしている事は、この二度目の奇跡を通して、弟子達が、あの大きな奇跡を体験した弟子達が、奇跡というものに対していかに無知であったか、イエス・キリストの奇跡をいかに悟ろうとしなかったという事を示そうとしたのではないかと思うのであります。

 それは、八章の一五節で、イエスが「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた時、弟子達はこれは自分達がパンを持っていないために言われたのだとお互いに言い争いになった時、イエスは「なぜパンがないからだと論じあっているのか、まだ悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。

 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。また思いださないのか。五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは幾つのかごになったか」「七つのパンを四千人に分けた時パンくずは幾つのかごに拾い集めたか」と尋ね、最後にイエスはとどめをさすように、「まだ悟らないのか」とイエスが言われた言葉で、この記事を終わらせているところからもわかるのであります。


 あの大きなパンの奇跡を体験した弟子達は、そんなにもあっさりとその体験を忘れてしまうものなのでしょうか。五つのパンで五千人の人を満腹させてくれたという奇跡を体験したならば、イエスがいらっしゃるならば、もう自分たちがパンをもっていなくても困らないと、どうして思えるようにならないのだろうか。
  
これは弟子達だけの問題なのでしょうか。これはわれわれの問題でもあるのではないでしょうか。われわれもある困難な問題に遭遇した時に必死に神に祈り続け、その祈りが聞かれた時、その時には天にも登るような気持ちになり、喜び感謝もするのですが、それはまたすぐ忘れてしまうのではないでしょうか。

 たとえば病気になって、それをいやしてくださいと必死に祈り、その祈りが聞かれて奇跡的にその病がいやされて、そしてしばらくして再び病気になった時、われわれは前のことなどもうすっかり忘れてしまって又再びあわてふためくのではないでしょうか。

  自分の行きたい大学に一生県命勉強し、そしてようやくそれに合格し、その時は天にものぼる位に喜び、神様に感謝もするのですが、一月もすればそんな感激や感謝はけろりと忘れてしまうのではないでしょうか。

 つまり自分の願望が満たされる、自分の欲がみたされるということで、われわれが神に祈り求めるならば、その願いが、その欲が満たされるまでは、必死に神に祈り求めるかも知れませんが、そしてその願いが満たされた時は感謝するかも知れませんが、その感激はすぐ忘れてしまうのではないでしょうか。それはあまり長続きしないで、すぐ次の欲を願い求めるという事になるのではないでしょうか。

  われわれ人間の欲望というものは、際限がないのであります。一つの願いが満たされても、それはすぐ忘れしまって次の願い、次の願いと際限となく、続いていくのではないでしょうか。

  それならばイエスはなぜ病をいやし、お腹をすかしている人にパンを与え、嵐の中であわてふためいている弟子達のために、嵐を沈めてあげるという奇跡をなさったのでしょうか。イエスはわれわれの際限のない欲望に際限となくつきあうために奇跡を起こしてくださったのでしょうか。

  確かに、病気がいやされる事を願い、あるいは飢えを満たしてくださいと願う事は、単なる欲望という言葉でかたずけてしまうには、あまりにも単純だ、もっと深刻な問題だといわれるかも知れません。

 われわれが生きるか死ぬかの問題だと言われるかも知れません。だからこそイエスは深く憐れみ、奇跡を起こしてくれたのであります。

 イエスは確かにわれわれ人間の生き死にの問題に関わる時だけ奇跡を起こされたのだ考える事も出来るかも知れません。

 サタンからこの石に命じてパンにせよ、とか、高い所から飛び降りてみよ、天使が助けてくれるだろうから、という誘惑に対しては、イエスは断固拒否しているのであります。

 イエスはわれわれの大学受験のために奇跡を起こしてくれたり、交通安全のお札を発行するような事、あるいは家内安全商売繁盛の祈願に応じて奇跡を起こしてくれるような事はしていないのであります。

  しかし、われわれは、福音書の記事にあるイエスがなさった奇跡、病気をいやしたり、空腹の時に五つのパンで五千人の人を養ってくれたという奇跡の記事を通して、イエスというかたは、はわれわれのすべての願いをかなえてくださるかただという信仰をもつようになっているのではないでしょうか。

 これは間違った信仰なのでしょうか。これはご利益信仰で、間違った信仰なのでしょうか。確かにそうだと思います。

 しかし、だからと言って、われわれはそうした信仰をもたなくてすます事ができるだろうか。

 それはご利益信仰なので、キリスト教はもっと高尚な宗教なのだと言っておれるだろうか。クリスチャンは新興宗教を信じる人よりも高尚な人間なのだろうか。

 そうでない事は、クリスチャンであるわれわれ自身が一番よく知っていることであります。われわれは大学受験のためにも、家内安全のためにも商売繁盛のためにも神様に祈るのであります。そういう事について祈らないほど、われわれは高尚な人間でもないし、そういう事について祈らなくてすむほど、気楽な生活を送っているわけではないと思います。

 そしてイエスご自身、われわれに対して、なんでも祈り求めなさい、とすすめて いるのであります。

  そうしますと、われわれはイエスのこうした奇跡を通して何を学べばいいのでしょうか。

 この奇跡の後、パリサイ人がやって来て、天からのしるしを示して欲しいと求めて来たという記事があります。

 イエスがメシヤならば、イエスが神から遣わされた救い主ならば、ただ病気をいやしたり、パンをふやしたりするという奇跡だけでなく、もっと決定的な天からの奇跡、つまり大地震とか星が落ちてくるとか大噴火が起こるとか、天変地異が起こるような天からのしるしが欲しい、そうでなければ、イエスが神から遣わされた救い主だとは信じられないというのであります。

  それを聞いてイエスは、心の中で深く嘆息したというのであります。

 ご自分のなさった奇跡が、神に対する信頼へと導くことをしないで、人間をますますご利益信仰へと導いてしましう事を嘆かれるのであります。

 神を信じるのではなく、神は人間の言うとおりに動いてくれる存在なんだ、われわれの願い通りに動いてくれる神、われわれ人間の奴隷になってくれる神、そういう神信仰しか育たない事を知ってイエスは深く嘆かれたのであります。

  竹森満佐一の説教の一節にこういうのがあります。「人間は勝手なものだ。人間の身勝手さが、もっともよく現れるのは、神のことを考える時である。

 少し幸せが続くと、神に感謝する気持ちになる。しかし少しいやなことがあると、神に感謝する気持ちにならない。

 またいろいろなことがうまくいくと、神なんかは、もう信じなくても、自分達だけでやっていけると思う。また、少し不幸が続くと神は自分を見放しているのではないかと疑うのだ。

 どんな事情になっても、すぐ考えるのは、神はこの世を捨てておられるのではないかと思うのだ。神がいらっしやることは、信じているかも知れない。しかし、実際は、天の高い所におられて、自分達のことは、余り親身になっては、思ってくださらないのではないかと、思うのである。」

  人間の身勝手さがもっともよく現れるのは、神のことを考える時だ、というのはまことに痛い言葉であります。

  イエスが、しるしを求める信仰にとどまっているパリサイ人について、弟子達を戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒しなさい」と言いますと、弟子達はこれは自分達がパンをもって来なかったためだと思って、お互いに言い合いになったというのであります。

 それをみて、イエスは深く嘆き、「なぜパンがないからだと論じているのか。あなたがたはあの二つのパンの奇跡を体験したのに、まだパンがない事にこだわっているのか」と嘆いたのであります。

 それは、どうしてあの奇跡の意味を悟れないのか、悟らないのか、という事であります。

  奇跡は、その奇跡を通して神はわれわれに何かを伝えようとしているのであって、その何かを悟らなくてはならないのであります。なにを悟らなくてはならないのか。

  イエスは、家内安全商売繁盛のためには奇跡を行わなかったという事、われわれの生き死にの問題に関わる時だけ奇跡を行ったという事、すなわち、らい病人を清め、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、目の見えない人を見えるようにし、われわれの生存を脅かす嵐を鎮め、悪霊を追い出し、病をいやし、そして最後に決定的なあの死人を生きかえらせたという事、それらの奇跡を通して、神がわれわれの生と死を支配し、われわれの生存をおびやかすものよりももっと強力な神がわれわれの人生を支配しておられるではないか、この事を、われわれは悟らなくてはならないのであります。
  
  イエスは、パリサイ人のパン種だけを警戒せよ、と言われたのではなく、ヘロデのパン種についても気をつけよと言われたのであります。ヘロデとは、あのイスラエルの王の一族をあらわしています。パリサイ人が宗教的な面を代表するならば、このヘロデの一族は世俗主義を代表するのであります。

  もっとも宗教的なパリサイ人の信仰と、もっとも世俗的なヘロデの一族の生き方は、結局は自分の利益を求める事に終始しているという事では同じだというのは皮肉であります。

  われわれの信仰はいつもご利益的な信仰、つまり期待からはじまるのであります。

 それではだめだとイエスは言われるのではなく、それでもいいとイエスは言われるのであります。

 それでもいいから、神に求めなさいと言われるのであります。神に、われわれが祈り求めるならば、その期待から始まる信仰も必ず、神に対する信頼へと神が変えてくださるのだから、神に祈り続けなさいと、イエスは言われるのであります。

  われわれの生活にも、人には奇跡という言葉は使わないかも知れませんが、自分自身ではこれは本当に奇跡だと思うような事はいくらでもあると思います。その事を通してわれわれも、あのヨブのように「主は与え、主は取り去りたもう。」という事を悟り、神の支配を信じて、主のみ名を賛美したいいと思うのであります。

 

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「見えるようになる」          八章二二ー二六節

 

 イエスがベッサイダに行くと、人々がひとりの盲人を連れて来て、さわってやっていただきたいとお願いしにきたというのであります。

 するとイエスはこの一人の盲人の手をとって村の外に連れだしたのであります。彼を、連れてきた人々から彼一人を引き離したのであります。

 盲人をイエスの所に連れて来た人々は、憐れみがあったかも知れませんが、それよりは好奇心があって、ひとつイエスの奇跡をみてみたいという思いがあったのかも知れません。

 それでイエスは彼一人を彼らから引き離し村の外に連れだしたのかも知れません。そうでなくて、もっと真面目な思いで人々がその盲人に対して深い憐れみから、なんとかしてイエスにいやして貰おうとして連れてきたのだとしても、イエスはともかく彼をそういう憐れみから彼を一人切り離しのであります。

 そのような憐れみだけでは、彼は救われないからであります。そのような同情心はかえって彼を駄目にしてしまうと思ったのかも知れません。
  
 ともかく、イエスは彼の手をとって村の外に連れだしたというのであります。彼はもう長い間盲人なのですから、もう一人で歩けるはずなのであります。それでもイエスは彼の手をとって連れ出してあげたというのであります。

  渡辺信夫がここを説明して、「恩寵の場所まで手を引いて行くのは恩寵なのだ。目のあけるところまで自力で出ていくのではなく、そこまで行くのも恵みの力なのだ。わたしたちは目があいてから主に従うのではない。目のあかない先、すでに主に手をひかれているのだ。」と言っております。


「恩寵の場所まで手を引いて行くのは恩寵だ」ということ、このわれわれの汚れた手を引いて救いの場所まで導いてくれる恩寵、これがまさに聖霊の導きということであります。


  そしてイエスは非常に丁寧にその盲人の目をあけてあげるのであります。その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何が見えるか」と訊ねた。最初はぼんやりとしか見えなかった。「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」と言う。

 歩いている人がぼんやり見えるというのは、イエスの弟子達をぼんやりと見たのかも知れません。そして再びイエスが両手をあてられると、すべてのものがはっきりと見えだしたというのであります。


 この時この盲人が一番始めにはっきりと見たものはなんだったのでしょうか。それは自分の目の前に立っているイエス・キリストを見たのではないでしょうか。目をあけられた人が何を見るかが大切であります。最初に何を見るか。あるいは根本的になにを見るかであります。

  昔見た映画に「田園交響曲」という映画ありました。アンドレ・ジイドの小説を映画にしたものですが、ある盲人の娘が教会の牧師の世話で、医者にかかって目が見えるようになった。その時彼女は目が見えるようになってなにを見たかといいますと、その牧師の奥さんの自分に対する激しい嫉妬心だったと言う事なのであります。

 目が見えなかった時は、あんなに美しいと想像していた牧師を取り囲んでいた世界が、目が見えた時に、牧師を取り囲んでいた醜悪な世界を見てしまって絶望していく、最後には自殺してしまうのではなかったかと思いますが、そういう映画だったことを覚えております。

  目が見えるようになって何を見るかであります。ただ目が見えるようになるというだけでは、救われるがどうかわからないのであります。

 目が見えるようになって人間の醜さを見るのか、あるいは自分の美貌に気がつくのか、それとも目をあけてくださったイエス・キリストを見るかであります。

 われわれの罪を赦してくださるイエス・キリストが見えるようになる、そこまでわれわれの汚れた手を引いて導いてくださるのが聖霊の働きなのであります