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「鈍くなってしまう心」 マルコ福音書六章四五ー五六節

  男だけでも五千人の人に、五つのパンと二匹の魚でみんなのお腹を満たすという奇跡を、イエス・キリストはなさったのであります。

 みんなはその奇跡の感激に酔っていたかも知れません。もっとその場に留まっていたいと思ったかも知れません。

 しかしそれなのに、イエスは自分で群衆を解散させたのであります。それなのに、というより、それだからこそ、イエスは群衆を解散させたのかも知れません。

 そしてイエスは群衆を解散させて、強いて弟子達を舟に乗り込ませ、向こう岸にやったのであります。

 弟子達を群衆から引き離したのであります。弟子達もまた劇的な奇跡を体験した群衆の中に取り囲まれていたかったのかも知れません。しかしイエスはそれを許さなかったのであります。

  そのような奇跡は、結局はその真意が理解されずに、間違った方向に理解されていくに違いない事を、イエスは見抜いていたのであります。

 つまり人々は困った時には、イエスがいつでも奇跡を起こしてくださる、イエスは自分達の要求にいつも応えてくださる救い主だという期待をもってしまうのではないかと、イエスは恐れたのであります。

  ヨハネによる福音書には、このパンの奇跡の後、人々はイエスを王にしようとしたというのです。

 それでその事を知るとイエスはただひとり山に退かれたと記されております。

 それでも群衆はイエスの後について回ろうとするのであります。するとイエスはその群衆にむかって「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したためである。」と、いやみのような事をいうのであります。

  奇跡は神の臨在をあらわす強力なしるしですが、しかし奇跡ほどまた人を誤った信仰に導いてしまうものもないのであります。それは人間の欲がそうさせてしまうのであります。

  このパンの奇跡を正しく理解するためには、あの十字架をあらわす主の晩餐の出来事とともに考えないと、正しく理解する事はできないのであります。

 だから後の教会はこのパンの奇跡を記す時、あの主の晩餐の記事を思い出させる聖餐式の用語「天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子達にわたして配らせた」と聖餐式の用語を用いたのであります。

  イエスは弟子達を強いて舟に乗り込ませた後、一人残って山に登りました。祈るためであります。イエスはなにを祈ったのでしょうか。

 福音書にはイエスがどういう祈りをなさったかは、あまり記されていないのであります。それは無理もないので、イエスは祈る時には、独り離れて祈られたからであります。


  イエスは山にひとり退いて何をどのように祈ったのでしょうか。何時間も立て続けに祈ったのでしょうか。いわゆる祈り三昧にふけったのでしょうか。


 イエス自身、ある時、「くどくどと祈るな」と言われているのであります。「くどくど祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから彼らの真似をするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存知なのである。」と言われて、そうしてこう祈りなさいと、あの実に簡潔な「主の祈り」を教えてくださったのであります。

 イエスは山に登って何時間もなにを祈ったのでしょうか。夕方から夜明けの四時頃まで山にいたというのですから、ずいぶん長い時間です。その間イエスは何を祈られたのでしょうか。そんなに長い祈りというものができるのでしょうか。また必要なのでしょうか。


  これはもちろん想像ですが、イエスが実際に祈ったのは、祈りの言葉として口に出したのは、ごく短い言葉だったのではないでしょうか。

 その短い祈りと祈りの間は、祈りというよりは、イエスは思索にふけったのではないでしょうか。

 あるいは天の美しい星をみたかも知れない。父なる神の創造された天の星の美しさを思ったかも知れない。あるいは、闇の夜空を見て人間の罪の闇を思ったかも知れない。つまりイエスはこの世の現実をしっかり見つめ、考え、神のみこころを探った。自分は何をなすべきを一生懸命思索した。そしてその合間に、その長い思索を凝縮する形で、短い言葉で祈られたのではないか。

  あのゲッセマネの園でも、イエスは「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかしわたの思いではなく、みこころのままになさってください。」と祈られた。

 そして弟子達の所に行ってみると、弟子達は眠っていた。そしてその弟子達をしかり、また同じ言葉で祈られたというのであります。

  つまり、イエスは祈り三昧にふけったというのではなく、祈り、そして考え、弟子達の様子を見たりして、弟子達の情けない姿をみて、悲しみ、そしてまたその事に駆り立てられるようにして、また祈る、そういう事を繰り返されたのではないかと思うのです。

  あの十字架の上でも、イエスが十字架にかけられたのは、朝の九時でそれから最後に息を引き取られたのは午後の三時であります。その三時に「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てなったのですか」と叫ばれたのであります。

 朝の九時から、午後の三時まで、イエスは、十字架の下で、イエスの衣をくじ引きで分け合うという、人間の醜い争いをみたり、自分がなぜ十字架で死ななければならないのか、とか、いろいろな事を考え思索し、それらを凝縮した形があの最後の「わが神わが神どうして」という祈りの言葉になったのではないか。

 われわれの祈りというのは、そういうわれわれの思索を含めたものが祈りなのではないか。時間的には、思索の時間の方がずっと多かったのではないか。そしてその思索の時間も本当は祈りなのではないでしょうか。


  くどくど祈るなと言われたイエスが、長々と祈られたとは思えないのです。長々とした祈りが信仰深い祈りだとは到底思えないのです。深い思索があって、始めて祈りも真実の祈りになるのではないでしょうか。

  深い思索というのは、人間の罪の現実を、いや自分の罪の現実をしっかりと考える事です。そして神の恵みを思う事です。イエス・キリストの十字架の事実とイエス・キリストの復活の事実を信じる事であります。それをふまえて、祈るのであります。そうしたら、そんなに長々しい、くどくどした祈りにはならない筈であります。
  

  イエスが独り山に退いて、ただ祈りだけにふけっていたのでない事は、その山から弟子達の様子をごらんなになっていた事でもわかる事であります。


 その山の上から、ガリラヤ湖の沖に漕ぎだしている弟子達の様子を見ていると、逆風のために舟が前に進んでいかないのを見ておられたのであります。イエスはそれを見ていて、四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づいて、そのそばを通り過ぎようとされた。

 「通り過ぎようとされた」というのは、ちょっと不思議であります。ある人は、これはイエスがその舟の先頭に立とうとされたのだ、それは今の教会の現状に合わせて考えると意義深いと、説明しておりますが、どうもそうではなくて、この「通り過ぎる」という表現は、旧約聖書では、神の顕現、神がこの地上にその姿を現す時の用語になっていると言われています。

  
 今舟を漕ぎ悩んでいる弟子達に、イエスはそこを通り過ぎる事によって、神の子としてその姿を現そうとしているという事であります。

  すると弟子達はそれを見て、幽霊だと思っておじ恐れた。それを見てイエスは「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」といって、弟子達をしかり、舟に乗り込まれた。すると風はやんでしまった。

  それを見て、弟子達は非常に驚いたというのであります。そのあと、聖書は不思議な事を言います。「先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである。」

 「先のパンのこと」というのは、いうまでもなく、男だけでも五千人の人をパン五つつで養ったという奇跡の事であります。その奇跡を体験したために、心が鈍くなってしまっていたというのはどういう事なのでしょうか。

  あの圧倒的な奇跡を体験したのなら、イエスが海の上を歩くという奇跡は容易に受け入れられそうな気がするのですが、返って心が鈍くなっていて、海の上を歩くイエスを幽霊だとしか分からなかったというのであります。

  あのパンの奇跡と、イエスが海の上を歩いて、彼らのそばを通り過ぎようとされたという奇跡と、どう違うのでしょうか。

 もちろん、イエスの方からいうと違いはないのです。それを体験した弟子達の方に違いがあるのです。

 どういう違いかと言いますと、パンの奇跡は直接自分たちの飢えが満たされるという奇跡であります。しかしイエスが海の上を歩いたり、自分達のそばを通り過ぎるという奇跡は、直接自分達に利益をもたらすものではないのです。


 神がその姿をあらわしても、われわには直接何か利益があるわけではないのです。神が姿を現して、そうして直接手をさしのべて病気をなおしてくれたり、パンを与えてくれたりしたら、われわれは感激したり、感謝したりするのであります。

  しかし神が現れる、しかも「そのそばを通り過ぎる」という形で、神が現れるというのでは、あまり有難みが感じられないのかも知れないのであります。


 つまりあのような形で、パンの奇跡を経験してしまうと、人間は神様はいつでも人間の勝手な願いを聞いてくれる「打ちでの小槌」のような存在としてしか考えようとしなくなるという事であります。


 あのパンの奇跡を経験すると、それを浅薄に経験すると、人間はその奇跡を経験したばっかりに、ご利益信仰に陥り、ますます人間は利己的になっていくのではないか。それが「先のパンの事を悟らず、その心が鈍くなっていた」ということなのではないかと思います。
  
  奇跡は正しく理解しないと、われわれの信仰を駄目にしてしまうのであります。われわれをご利益信仰に導き、われわれをはなはだ利己的な人間にしてしまうのであります、心を鈍くさせてしまうのであります。

 だから、イエスは病気をいやしたりした後、この事は誰にも言うなと言われたのであります。そのようなご利益宗教の教祖のような存在になることをイエスは警戒したのであります。

 イエスのすべての奇跡は、十字架と復活を証するものとして理解しないといけないのであります。
 かたくなな、しぶとい人間の罪を神が解決するために、あの十字架と復活を通して、神ご自身の存在を示していただかないとわれわれは救われないのであります。

  イエス・キリストがわれわれの「そばを通り過ぎ」ようとされて、神の存在を示そうとされた奇跡こそ、われわれが本当の奇跡として受けとめなくてはならい奇跡なのであります。

 


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「人を汚すもの」        七章一ー二三節

 

  パリサイ派の人々は、自分が清くなろうという事に真剣でありました。大変熱心でした。それは聖書に「わたしは聖なるものであるから、あなたがたも聖いものになれ」という神の言葉があるからであります。

 彼らは自分は汚れたくないという事に神経を使ったのであります。自分が清い人間になるんだという事に全力をあげたのであります。そのために彼らは、神の前に自分はこんなに清い人間ですと、自分の清さを認めて貰おうとした。

 神に清めていただこうとするというよりは、自分の清さを神の前に主張する事に熱心になっていったのであります。
  

  エルサレムから来たパリサイ派の人々と律法学者達は、イエスの弟子達が手を洗わないで食事をしているので不快に思いました。驚きました。食事の前に手を洗うというのは、衛生上の事ではなく、彼らにとって食事は宗教的な意味があったために、食事の前に手を洗わないという事は宗教的に汚れることだと思ったようなのであります。

 四節にある「市場から帰った時には、身を清めてからでないと食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受け継いでいた」というのは、市場というのは、異邦人の出入りする所ですから、そこでは宗教的に汚れてしまうから、そうしたようなのであります。

  彼らはイエスに「なぜ、あなたの弟子達は、昔の人の言い伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」と尋ねたのです。

 するとイエスはいきなり「あなたがた偽善者について」と、激しい言葉で彼らの批判を真っ向から、逆に批判するのであります。彼らもこんなに強い言葉でイエスから言われるとは思ってもみなかっただろうと思います。なぜイエスはいきなり「偽善者たちよ、」と激しい言葉で彼らを批判したのでしょうか。

  それは恐らく彼らがエルサレムから来たパリサイ派の人々であったということがあるのかも知れません。エルサレムは、ユダヤ教の大本山なのであります。彼らは権威をかさに着ていたのであります。それでイエスは激しい口調で彼らを批判したのかも知れません。

  「預言者イザヤはこう言っている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる』。あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言い伝えに固執している。あなたがたは自分達の言い伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。」

  「人間の言い伝え」とは、神の戒めをさらに現実の生活で活かすための具体的な取り決めであります。神の戒めを、たとえば「安息日を守って聖とせよ」という戒めを具体的に守るためには、どうしたらよいかと考えたわけです。そのためには、一日何歩以上歩いてはいけないとか、こういう労働はしてはいけないとか、具体的に取り決めていって、神の戒めを具体化し、従って細分化していったのであります。
その事自体は悪い事ではないのです。
 
 神は聖なるかただから、われわれも聖なる生活をしようとして、食事の前に念入りに手を洗おうと考える事は悪いことではないかも知れません。そのようにして生活の型をつくるというのは、信仰生活を観念的なものにしないという点で大事な事であります。

  しかし、神の戒めが絶対的なものに対して、「言い伝え」は人間が作ったという意味で、相対的なものであります。

 それは神の戒めを具体的なものにするために人間が工夫して作ったものであります。相対的であるという事は、その人その人の現実に即して工夫して考えられた「言い伝え」という事であります。

 相対的であるという事は、人によってその工夫は異なっていいという事であります。

 神の前に正しい清い生活を送ろうという戒めは大切なのであります。しかしそれを自分の具体的な生活において適応させるのは、人によってさまざまの筈であります。それは相対的なものであります。

 クリスチヤンがみな潔癖症なっては困るのであります。人間は、時に、神よりも完全主義になりやすいという、ある人の言葉は考えさせられるのであります。

  「昔の人の言い伝え」は、神の戒めを具体化するための工夫であります。しかしそれが一度出来上がると、それは一人歩きし始めて、神の戒めそのものよりも、そちらの方が力をもって人を規制しだすのであります。なぜならその「昔の人の言い伝え」の方がより具体的な戒めになっているからであります。

  イエスはこういう例をもちだすのであります。「神の戒めに『父と母とを敬え』とある。それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差し上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだといっている。」

  これはどういう事かと言えば、父母がおなかをすかしていているのに、それを父母にあげないために、これは神様にお供えするものでからあげられませんと言えば、それを父母にあげなくて済む、そして神様に捧げた後、自分達がそれを食べてしまうのだというであります。

 コルバンという戒めを口実にして、結局は父母を敬いなさいという神の絶対的な戒めを無にしているというのであります。

  神を敬うという事は、大事な事であります。しかし父母を敬うという事も大事な事であります。父母を敬うというと今日ではあまりぴんと来ないかも知れませんので、人を愛することといった方がいいかも知れません。

 神を愛する事と隣人を愛する事というのは、同じように大事な神の根本的な戒めだとイエスご自身いわれたのであります。

 それを自分達の実際生活において適応させるという事は大変難しい事であります。


  イエスは、外から入って来るものが、つまり食事の前に手を洗うかどうかという事、あるいは食べ物そのものが人を汚す事はないと、きっぱりと言われたのであります。

 人から出ていくもの、つまり人の心の中からでていくもの、人の心の中にあるものが、人を汚すのだと言われたのであります。そして二一節からいわゆる悪徳表と言われるものを列挙するのであります。

  しかし一番人を汚すものは何か。それは言葉ではないか。人の心の中からでていくもの、それは言葉になって人の心からでていくことで、人を批判し、人を裁く言葉が一番人を汚していくのではないでしょうか。

 それは他人を汚していくというよりは、人を批判し、人を裁こうといつも構えている自分自身を、本人を汚していくという事であります。

 イエスがあんなに強く「人を裁くな」といわれ、そして繰り返し繰り返し、人を赦していきなさいと言われた事を思いだしたいのであります。

  それもこれも、自分で自分を清めようと思う事が、自分で自分を清められるんだ、清めなくてはならないんだという思い違いが、そのような方向へ人を導いてしまうのではないでしょうか。

 われわれは神に赦され、神に清めていただく以外に自分を清める事はできないのであります。