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「迷信から信仰へ」       五章二一ー三四節


  われわれがいつも求めている事は、死なないと言う事、死なないでずっと生きていくということではないかと思います。死なないで助かるという事を求めているのであります。

 それに対して、福音がわれわれに伝えようとしている事は、死んでも生きるという事であります。死んでもわれわれを生かしてくださるかたがいるんだという信仰をもて、という事であります。

 イエスの復活は、イエスが十字架の上で完全に死んで、三日目によみがえったという事であります。

 その事がわれわれに教えている事は、死なない信仰ではなく、死んでも生かされるという信仰であります。

 人々がイエスに最後まで期待した事は、十字架の上でイエスが息を引き取る前に、預言者エリヤが現れて、イエスをその十字架の上から助け出すのではないかという事だったのであります。

 しかしそういう奇跡は起こらなかった。イエスは墓に葬られ、もう人々がすっかりあきらめた時に、神はその死んだイエスを三日後によみがえらせたのであります。

  十字架の上で死なないで、生き続けるのと、完全に死んでからよみがえるのとは、生き続けるという点では、同じではないかといわれるかも知れませんが、しかしそれは違うと思います。

  われわれが死なないで助かることばかり求めるという事は、死なないという事に固執するという事になるわけで、それは死んだらもう終わりだという絶望をいつも抱えながら生きるということになるのではないかと思います。

  しかし死んでも生かされるんだという信仰にたてる時、死が最後の敵ではなくなる、死が絶望ではなくなる、死を超えて望みをもてるのであります。

 それは失敗を恐れない、倒れる事を恐れない生き方につながっていくのではないかと思うのであります。

  イエスがガリラヤ湖の海辺で教えておられた時、会堂司ヤイロがやって来て、自分の娘が死にそうなので、助けてください、来て手をおいて病気をいやしてくださいと懇願するのであります。

 彼は「死なないで助かる」ことをイエスに求めたのであります。

 その後の経過は、次の説教で学ぶことになりますが、イエスが十二年間長血を患った女をいやしてあげた事で手間取っている間に、娘は死んでしまうのです。

 そうしますと、家の使いのものをやって来て、イエスに「もういらしてくださらなくても結構です」と言ったのであります。

 もう死んでしまったら、それまでだというわけであります。会堂司ヤイロがイエスに期待していたものは、死なないで助かるという奇跡だったのであります。

 しかし、イエスはその使いの者の「こなくて結構」という言葉を聞き流してヤイロの家へと進んだのであります。

 イエスが示そうとした奇跡が、死なないで生き続ける信仰を与えようとしたのではなく、死んでも生きるという信仰を与えようとしたからなのであります。

  そしてこの事がこの一連のイエスの奇跡物語の全体を貫くメッセージなのであります。

 つまり、死んでしまうという事は、言うまでもなく、もう自分が死んでしまうという事ですから、もう自分はなにもできないということであります。

 そして死んでも、生きるという事は、死んでも生かされるんだということで、死んだ自分を生かしてくださるかたがおられるという信仰に立つということであります。

 その事を信じなさいと、イエスはこの一連の奇跡を通してわれわれに訴えているのであります。

  さて、今日学びたい聖書の箇所は、ヤイロの娘のところにいこうとしている途中で起こった出来事で、十二年間長血を患った女がイエスによっていやされたという出来事であります。

 彼女はその間多くの医者にかかっても治らなくて、さんざん苦しめられきた、おそらくインチキな医者とか祈祷師にお金をまきあげられたのではないかと思われます。そうしてはますます悪くなる一方だったのであります。

 追いつめられていた彼女は、最後の望みをイエスに託したのであります。イエスの評判を聞いて、この人なら自分の病をいやしてくれるかも知れないと思ったのであります。群衆の中に紛れ込んで、うしろから、イエスのみ衣のすそにさわった。イエスほどの人ならば、み衣にさわっただけでもなおしていただけるだろうと思ったのであります。だからせめてその衣のすそだけでもいい、触りたいと思ったのです。

  聖なるかたの衣にふれると病がいやされるという信仰は昔からあったようであります。イエスが十字架の上で着ていた衣は、やがて聖衣という迷信を生んでようであります。この女の信仰は明らかに迷信であります。

  しかしその女がそのようにして、イエスの衣のすそにふれると病は治ったというのです。血のもとがすぐかわき、女は病気がなおったことをその身に感じたというのであります。

 イエスはそんな原始的な魔術みたいな奇跡を行ったのでしょうか。そんな迷信のような信仰を受け入れたのでしょうか。

  この女は、イエスの前にまともに顔を出すことができなかったのであります。

 ユダヤの社会では、長血という病気は、汚れた病という事で、らい病と同じように、汚れた病気とされて、その病が治っても祭司から清めの儀式をして貰って、祭司から証明して貰わなくてはならなかったのであります。長血を患った女は、神殿にも行けず、神に近づくことができなかったのであります。

 この女にとっては、もう神だけが頼りだったのでしょうが、その神に近づく事も許されなかったのであります。だから女はイエスの正面に立つことが出来ずに、イエスの後ろから、そして、せめてその衣のすそにでも触ろうとしたのであります。

  この女をこのような迷信的な信仰にかりたてたのは、この女だけの責任ではなく、彼女をそのように追いつめてしまった社会の責任だともいえるのであります。

 われわれは迷信的な信仰をもっている人を、ただ軽蔑してすますわけにはいかないのではないか。

 その人の絶望が、そのあまりの大きい苦しみが、その人を迷信的な信仰へと追い込んでしまったという事があるからであります。

 われわれだって、苦しみが大きい時、そうした迷信には絶対に陥らないという保証はないのであります。インテリと言われていた人が、奥さんがガンになったことを知って、高いお金を出して、効くと言われているいわゆる民間信仰の治療をなりふりかまわず試みるという事をよく聞くのであります。

 そうした話はひとごとではないと思います。むしろ、そのインテリと言われていたその人の信仰は、その時から真実の信仰になっていく、真実の信仰が始まっていくのだとさえいえるのではないかと思うのです。

  われわれの信仰は、ある意味では、そのようになりふりかまわずに、迷信に走るほどに、なにものかにすがろうという経験をしないと、なかなか本当の信仰にはならないのではないかとさえ思うのであります。いつも知的なとりすました信仰が、正しい信仰とは限らないのであります。

  イエスはその女の迷信的な信仰を決して軽蔑なさならかった。

 なぜなら、その女がイエスの衣のすそに触った時に、その病がいやされているからであります。

 しかしその病は、イエスの聖なる衣がいやしたのではないのです。その時、イエスは自分のうちから力が出ていった事に気がついたというのであります。

 女は聖なるかたが着ている衣にふれれば、自動的にいとも簡単にいやされるかも知れないと思っていたのであります。しかしイエスにとってはそうでなかった。イエスにとっては、その女の病をいやすためには、自分の全身的な力を必要としたという事であります。

 群衆が取り囲んでいましたから、この女だけでなく、多くの人がイエスの衣にさわっていたのであります。イエスが「わたしのからだに触ったのはだれか」と言われた時、弟子達も「群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」と言うのです。しかし、イエスは触った者を見つけようとして、あたりを見回したのです。

  イエスは、その女の迷信的な信仰に対して、迷信的なやりかたで、その女の病をいやしたのではないのであります。いわばイエスは人格的な態度でその女に向かっているのであります。

  その信仰が神のみこころにかなった信仰かどうかを判断するのは、神様の方でなさる事であります。

 もちろん聖書には、占いとか偶像礼拝というものを厳しく禁じておりますから、そういう意味では、迷信は厳しく退けられなくてはならないのであります。

 しかし、それでは知的な信仰が正しい信仰かと言えば、そんな事ではないのです。知的な信仰は、なりふりかまわず神に求めるということがなく、いつもどこかあきらめていて、覚めていて、本当のところ神を、生きた神として、神を信じているか怪しいのであります。

  イエスはこの女の迷信的な信仰を受け入れました。そしてその女をご自分の前に立たせた後、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。

  前の説教で、奇跡は、われわれの信仰が熱いところで起こるのではなく、われわれの信仰の弱り果てているところで起こるのだと言ったと思います。

 私の熱心な信仰が奇跡を生み出すのではない、奇跡はわれわれの念力というような信仰が引き起こすものではないと言ったと思います。

 しかしここでは、この女の必死な信仰が奇跡を生んだのではないか。イエスもそう言っているようなのであります。

  この女の信仰を考えておきたいのです。これはあのパリサイ人や律法学者の熱心な信仰とは違うのではないかと思います。

 彼らは神に祈る時、「わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一を捧げています」と祈ったというのです。

 彼らの信仰はそういう信仰なのであります。それは自分の義を立てる信仰、自分の正しさ立派さを主張する信仰、そういう熱い信仰なのであります。自分はこれだけの事を神様にしてきましたから、今度は神様がそれに応えてくださいという信仰なのであります。

 そういう信仰に対しては、神は義とされないのだと、イエスは言われたのであります。 

  それに対して、この追いつめられた女の迷信的ともいえる信仰は、どこに自分を主張するところがあるでしょうか。どこに自分の義を立てるところがあるでしょうか。ただひたすら、神に頼ろうとしているのであります。なりふりかまわずに神に頼ろうとしているのであります。

 それは確かにご利益を求める信仰ですから、自分中心の信仰ではあります。パリサイ人や律法学者のように自分の義を立てるという事はしていないかも知れませんが、しかし自分の利益を求めるという事、自分の願っている通りのご利益を求めるという点では、やはり自分中心で、本当にすっかり神様に信頼し、委ねているというわけにはいかないとは思います。

 従って、この信仰が正しいとはいえないと思います。ですから、イエスはこの女の迷信的な信仰を正しい信仰に導くために、女をご自分の正面に連れだしたのであります。女は、恐れおののきながら、イエスのみ前にひれ伏して、すべてありのまま申し上げたというのであります。

  もしこの女がイエスの衣のすそに触れただけで、その病気がいやされて、それだけでうれしくなって、そっとそこを去り、自分ひとりで密かに喜んだだけであったならば、病気そのものは治ったかも知れませんが、女は本当に救われたかどう分からないと思います。

 この女は迷信的な信仰をもち続けただけで終わってしまったのではないかと思います。

 本当なら、この女はひそかにそうっと帰りたかっただろうと思います。それでは信仰にはならないのです。女は、イエスの前に連れ出され、イエスの顔をまともに見させられ、「畏れおののきながら、みまえにひれ伏した」というのです。

 信仰には、この「畏れおののき」「ひれ伏す」という事がおこらないと、信仰ではないのであります。

  「畏れおののき」「ひれ伏す」ということが起こるという事は、自分を超えた他者に会っているということであります。信仰とは、この絶対他者に会うということであります。

 このかたが私の命を守り支配し、最後まで持ち運んでくださるということを信じるということであります。 この、われわれを畏れおののかせ、ひれ伏せさせるかたの前に立たされる時、われわれは自分のとりすました知的な信仰を捨てさせられ、自分中心に固執しがちなご利益的迷信的な信仰がうちくだかれるのであります。

  イエスは畏れおののいている女に対して声をかけました。
  「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい。すっかり治って、達者でいなさい」と言われたのです。

 「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というのです。われわれはこの女の迷信的な信仰がこの女の病をいやしたのでない事はよく知っているのであります。

 女がイエスの衣にふれた時、イエスの中から力が抜けていったというのですから、イエスがこの女をいやしたので、この女の信仰がこの女をいやし、救ったのでないことはよく知っているのです。

 しかし、イエスはそれでも「あなたの信仰が」と言われるのであります。イエスがこの女の素朴な、しかし必死な信仰をどんなに大切に思い、喜ばれたかということであります。

 

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「死んでも生かされる信仰」      五章三五ー四三節


  会堂司のヤイロの娘が死にかかっているというのです。それでイエスにすぐ来て、手をおいていやして欲しいと、訴えたのであります。
 
 イエスはその願いを聞き入れて出かけました。その途中で、先日学びましたように十二年間も長血を患っている女をイエスはいやしているのであります。

 そしてそうしているうちに、会堂司から、使いのものが来て、「あなたの娘はなくなりました。この上、先生を煩わすには及びますまい」と言ったというのであります。

 イエスがヤイロの家にいく途中で、十二年間の長血を患っている女の病をいやし、女と話をしている間に、ヤイロの娘は死んでしまったのかも知れません。

 ヤイロとしたら、なぜイエスはもっと早く、そんな女とかかわっていないで、娘のところに直行してくれなかったのかという思いがしていたのではないでしょうか。まるでその女のために、自分の娘が手遅れになってしまったのではないかと、イエスを恨み、女を恨んだのかも知れません。それは救急車が寄り道したようなものであります。

  しかしイエスはその途中で、十二年間長血を患った女をいやすのであります。

 

 父親であるヤイロはなぜイエスはもっと急いでくれなかったのかと悔やんだでありましょう。しかしイエスが途中の出来事にかかわったおかげで、ヤイロもわれわれもイエスのなさった奇跡の本当の意義にふれる事になるのであります。

  それはイエスのなさった奇跡が、死なないで助かるという奇跡ではなく、死んでも生かす事が出来るという奇跡だったからであります。
 
 この間の説教でもふれましたが、われわれが求めている奇跡は、いつでも「死なないで助かる」という奇跡なのであります。しかしイエスがなさった奇跡、そして神がイエスを通してなさった奇跡は「死んでも生きる、死んでも生かされる」という奇跡なのであります。

 死なないで助かる、という奇跡を求めるという事であるならば、それは何も神にその奇跡を求めなくてもいいのであります。人間の医者に求めればいい事であります。死なないで助かるという事は、人間の可能性の中で求めることができる事であります。いわば人間に期待できる奇跡であります。

 しかし死んでしまったものを生かすという奇跡は、もう神にしか求めることができない奇跡であります。

  聖書の奇跡は神がなさる奇跡なのですから、それは根本的には人間の可能性を超えた奇跡であります。それはみな「死んでも生きる」、死んでも、つまり人間的可能性がなくなっても、それを超えて、それをつき破って、神の奇跡が起こるということであります。

 それはみなイエスの復活の奇跡を指し示す奇跡だという事であります。

  パウロが、コリント人への手紙で復活の問題をとりあげて、こういうのであります。
 「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。」

 神がイエス・キリストを通してなさった奇跡は、われわれが「この世の生活で単なる望み」でない望みを与えられるという事なのであります。

  ここの所は、新共同訳ではこうなっています。
  「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」となっております。
 この訳は誤解させるのではないかと思います。ここは「この世の生活だけでキリストに望みをかけているとすれば」にならないとおかしいと思います。

 ここで言いたい事は、キリストにあって、ただこの世に生きているだけの問題で望みをもつのであるならば、という意味であります。

 つまりキリストの復活という奇跡を否定するということです。死者のよみがえりなどという事は、この世の常識に反することだから認めないという信仰です。

 そうした信仰はこの世の生活だけに通用する信仰にすぎないのであって、もしキリストを信じるといいながら、そのようにこの世の常識にだけとどまる信仰であったなら、それは単なる望みをキリストにあってもっているというだけだというのであります。

 キリストを信じるといいながら、その程度の信仰にとどまっているのなら、一層の事キリストなぞ信じなくていい、それはもっともあわれむべき信仰者だといいたいのであります。

  イエスのなさった奇跡、嵐を鎮め、悪霊を追い出し、十二年間の長血を患った女をいやした奇跡は、その最後の奇跡、会堂司ヤイロの娘を死から生き返らせた奇跡に集約されていくのであります。

  それはこういう奇跡であります。会堂司の家から人々が来て「あなたの娘はなくなりました。この上、先生を煩わすには及びますまい」と言いに来たのに対して、イエスはその報告を「聞き流し」、つまり無視して、会堂司の家にいく。行くと、もうそこでは葬式の準備がなされている。泣き女が来て大声で泣いて騒いでいる。

 イエスと言えども、神様といえども、死に対しては、もうどうしようもない、死の壁に打ち勝てるものは何もない、イエスですらそれは駄目なのだ、とみんながそう思って葬式の準備をしている。

 そういう所にイエス・キリストは乗り込んでいくのであります。

 「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけだ」とイエスは言われた。

 するとみんなは笑いだした。イエスをあざ笑ったのであります。

 イエスは、あざ笑う人々を排除して、死という事実にうちひしがれているその娘の父母と三人の弟子だけをつれて、中に入り、「タリタ、クミ」と声をかけた。「少女よ、さあ、起きなさい」と言ったのであります。すると少女は何事もなかったかのように起き上がった。そして食事をしたというのであります。

  われわれ人間の最大の壁である死をイエスはいとも簡単に突きやぶってしまわれたのであります。

  しかしこの奇跡は何の意味があるのでしょうか。あの十二年間長血を患った女の病が奇跡的にいやされたとしても、それが根本的に何の意味があるというのでしょうか。

 といいますのは、あの女はそれ以後もう一切の病気にかからないかと言えば、そんな事はないでしょうし、このヤイロの娘はもう死なないのかと言えば、いつかは死ぬに違いないからであります。

 それは単なる一時的な慰めに過ぎないのではないかという事なのであります。

  この一連の奇跡の記事を読む時に、一つのカギになるのは、あの途中の出来事なのであります。

 あの女は後ろからイエスの衣に触っただけで、病そのものはいやされたのであります。しかしイエスはそれだけで、女を去らせようとはしなかった。その女を探しだし、その女をイエスの正面に立たせ、その女に声をかけ、「お前の信仰がお前を救ったのだよ。その信仰を大事にしなさい」と声をかけているのであります。

 つまり、この一連の奇跡で一番大事な事は、イエス・キリストの正面に連れ出され、そのイエス・キリストと人格的に出会い、そのかたを信頼するようになるという事なのであります。

  われわれの生を脅かすような嵐とか災害、悪霊に象徴されるような何か得体の知れない運命的な悪魔的な力、われわれの身体に襲いかかってくる病気、そして最後にわれわれにとって決定的な壁である死というもの、そういうわれわれの生存を脅かす存在よりももっと強いおかたが、われわれの人生を支配しているという事であります。


 そのかたが、嵐の中にあって、共に船の中にいてくれているのである、そうであるならば、嵐の中で動揺しないで、イエスと一緒に眠る事だってできるではないか。そのかた、すなわち、イエス・キリストと父なる神が、われわれと共にいて下さるという事をわれわれに示すための奇跡だったのだということであります。

  あの十二年間長血をわずらった女は、その後も病気になっただろうと思います。ヤイロの娘もいずれは死を迎えるわけであります。しかし一度イエスにお会いし、イエスによって病をいやされ、死の壁をつきやぶってもらった人は、その後同じように病に陥っても、あるいは死の蔭の谷を歩むようになっても、嵐に襲われても、不気味な悪霊につきまとわれても、そこで望みを失わないで、死を超えて望みを与えられているのではないか、

 この世の生活で「単なる望み」以上の「望み」をイエス・キリストにあって抱いて死ぬ事ができるではないか。

  それはイエスを信じ、神を信じられたら、「神様には出来ない事は何もないんだから」と、まるで自分がスーパマンのようになって、荒唐無稽な事を信じるようになるというのではないのです。

 死後の世界を、死の後のよみがえりをあれこれと想像たくましくして、空想にふける事ではないのです。

  パウロもこう言うのです。われわれの最後の敵である死をイエス・キリストがそのよみがえりによって打ち砕いてくださった、われわれはこの世にあって単なる望み以上の望みを与えられたのだと説いた後、パウロは最後にこう言うのであります。「神はわたしたちに勝利を賜ったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」

  もう死について思い患う事をやめて、死後の生活をあれこれと思う事を打ち切って、今日しなくてはならない問題、今日負わなくてはならない労苦を担っていきなさい、と勧めるのであります。なぜならわれわれのこの世での労苦が無駄になることはないからだというのであります。