「海辺に退かれるイエス」マルコ3章7-12節


 イエスはしばしば山に退かれたり、海辺に退かれたりしました。ある時は、弟子たちを連れて人里から離れて退かれた。ある時には、その弟子たちからも離れてひとりになろうとして退かれたのです。

 イエスはどういうときに、退かれようとしたのか。今日の聖書の箇所のように、「パリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちし、何とかしてイエスを殺そうと相談しはじめた」時に、退かれた。つまり逃げたのであります。

 もう一つの理由は、イエスの人気が高まって群衆が押し寄せて来て、その群衆から逃れようとして人里離れた山などに逃れたのです。

 一方は、自分を憎み、自分を殺そうとする者の手から逃れようとして退く、一方は、自分を愛し、自分を慕い、自分を王にしようとする人々から逃れるために、退くのであります。

 自分を殺そうとする者の手から逃れるために退くというのはわかるかもしれないません。

 しかし、イエスは自分は十字架につくために来たという覚悟はもうできていた筈であります。それなのにどうして逃れようとするのか。

 この時にはまだそのことは、イエスは弟子たちに公言はしてはいませんが、後にそのことを弟子たちに公言したあとにも、イエスは時がくるまでは、しばしば自分を殺そうとする者の手から逃れているのであります。

 十字架につく前の最後の一週間でも、イエスはエルサレムに来ても夜になると警戒して郊外に逃れたようなのです。

 イエスは死ぬ覚悟は十分あった。しかし自分の熱意で、血気にはやって死のうとはされなかったのであります。イエスはしばしば「わたしの時はまだ来ていない」といわれて、ただ闇雲に死ねばいいとは思わなかった、時の熟するまで待った。

 時が熟するというのは、自分が犠牲になって死のうとという熱意が次第次第に高まって来て、よし、これで死ねる、これで悔いなく死ねるという覚悟ができる時まで待つというではないようです。

 イエスが十字架へと捕らえられ、殺された時は、ある意味では、イエスの気持ちからすれば、イエスにとっては、一番死にたくない時、死を恐れた時であったのかも知れない。なぜなら、イエスが捕らえられたのは、ゲッセマネで祈っていた時だからであります。「みこころならば、この杯を取り去ってください」と、自分を十字架につけないでくださいと必死に、祈っていた時なのです。

 そして死ぬときにも、「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てなったのですか」と叫んで、死んでいったのです。

 いわば、あの時、イエスは自分自身の気持ちからいえば、一番死を恐れ、一番死にたくないと思った時に、神の御心に従って十字架についたのだということなのであります。

 イエスは殉教者特有の英雄的な高揚した気持ちをすべてはぎ取られて、ただ神に従うという気持ちにさせられて、そういう「時」の熟する時まで、待って、十字架につかれたのであります。

 自分の熱意、自分の気持ちが高まった時というのは、自分の熱意というものにあおられてしまって、判断を誤るときがあるのではないか。ひとりよがりになりかねないのであります。

 確かになにかを決断する時には、そうした気持ちのたかぶり、高揚した気分がないと、なかなか踏み切れないということはあると思います。

 そういう熱気をさますことばかりしていては、第一人生はつまらなくなります。そいう高揚した気分に載って何かを決断する、それで失敗すれば、それでもいいではないかと思わないわけではない。

 いつも失敗ばかり恐れて、自分の熱気をさますことばかり考えるよりは、失敗してもいいから、自分の気持ちを高めて決断する、決断しなくはならないときには、決断したほうがいいかもしれない。

 しかし、自分のことだけのことを考えれば、失敗すれば自分だけが傷つけばいいということかもしれませんが、しかし人を愛するというときには、自分が傷つけばそれで済むというわけにはいかないのです。

 人を愛する、人を救うという問題の時は、自分が傷つけばそれで済むというわけにはいかない。やはりどうしたら、本当に人を愛せるか、その人を救えるかという事を考えて、出来る限り、自分のひとりよがりの熱意とか熱気を抑えて、相手の事を考えなくてはならないのであります。

 イエスも「戸の外に立って叩いている、誰でも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその中に入って、彼と食を共にする」といわれて、われわれを忍耐強くまっていてくださるというのであります。

 人を愛するとか、人を救うというときには、自分のひとりのひとりよがりの熱意だけでは、だめなので、その熱意が邪魔してしまう場合がしばしばあるのであります。

 イエスは、自分の熱意で死んだのではない、神の時の熟する時までじっと待つために、自分が殺されそうになると、逃げるために退かれたのです。

 そしてイエスは自分を憎む者の手から逃れるために、逃げ出すとともに、自分を慕い、自分を王にしようとする人々の手から逃れるために、退かれた。

 ガリラヤから、ユダヤからと、おびただしい群衆がイエスのところにやってきた。そのためにイエスは弟子たちとともに、押しつぶされそうになった。それで弟子たちに小舟を用意しておけと言われた。それは小舟にのって、群衆から少し離れて、説教しようしたのだと言われていますが、ただ逃げるためにそうしたのではないか。

 しかし群衆がどうしてもイエスの話を聞きたいと群衆が迫ってきているので、イエスはしかたなく、ガリラヤ湖で群衆に説教したのではないか。

 このとき、群衆は、おびただしい群衆はどうしてイエスのところにきたのでしょうか。それはイエスが病人をいやしているからであります。

 そうした信仰は確かに迷信的な信仰、御利益的な信仰であります。しかし、イエスはそうした信仰を退けてはいないのです。長血を煩った女の病をいやしたあとは、その女を自分の正面に立たせて、なぜ女の病がいやされたかを説明しているのです。

 考えてみれば、われわれの信仰はみないつだって、苦しい時の神頼みであって、御利益的な信仰が根本にあるのではないか。どんなに教養がある人の信仰だって、みな御利益的な信仰で、それは迷信的な信仰なのではないか。

 この間、テレビのニュースで、クリスマスイブの礼拝が各地で行われているという放送のなかで、長崎の普賢岳のある島原の教会では、普賢岳がの噴火が収まるようにというミサが行われる予定です、とアナウンサーが言っておりましたが、その時わたしはあの長崎の教会にいなくてよかったなあと思いました。もし長崎にいたら、そういう祈りをしなければならないかも知れないからであります。
 
 本当にそういうミサが行われたかどうかはわかりませんが、おそらく、普賢岳の噴火の被害にあっている人々のそうした祈りは切実だろうなと思います。

 しかし、もし自分が長崎にいて、そういう祈りを公の場で祈ることになったら、嫌だろうなと思ったのであります。

 しかし、それでは自分自身が病気になったときはどうするか、あるいは自分の身近な人が病気になった時はどうするかといえば、神様に必死にいやしてくださいと祈るのです。

 そしてその祈りは、それこそ子供が祈るように、こちらで祈ったら、神様がのこのこと天からおりてきてくださって、神様は手をさしのべて、その病気をいやしてくださる、そういうイメージを描きながら祈っているのです。

 神を信じるということは、そういう素朴な信仰の上になりたっていると思います。そういう子供のような、迷信と思われるような素朴な信仰を失ってしまったら、本当に生きた、生き生きとした信仰といえるかということであります。

 そういうわれわれの迷信的な、ある意味では、御利益的な信仰を正しい信仰に、本当に力のある信仰に、つまり、あの十字架と復活を信じる信仰に導いてくださるのは、神なのです。聖霊の導きなのです。われわれの知性とか教養ではないのです。

 聖書を知的に解釈するとかが、われわれを正しい信仰に導いてくれるわけではないのです。聖書を知的に理解してイエスの奇跡を全部、非神話化して、そんな奇跡をイエスはなさらなかったのだと解釈しも、確かに理性的な信仰になるかも知れませんが、それでは、あの十字架と復活を信じる信仰にはならないのであります。それは死んだ、観念的な信仰で終わってしまうのであります。

 大事なことは、われわれの信仰の質の問題ではなく、そういうわれわれの信仰を神様のほうで、イエス・キリストのほうで、どう受け止めてくださるかということを考えなくてはならないのです。

 ちょうど、患者と医者の関係であります。患者はいろいろと勝手なことをいうのです。そして自分で判断して、ここが痛いのはここが原因だから、自分はこういう病気なのではないかと医者に訴えるのです。

 優れた医者はその患者の訴えを決して軽蔑して退けたりはしないで、それを全部聞いて、ある時には、患者のおしゃべりをさえぎったりしながら、医者は医者の考えに従って、その患者に対して最善の治療をするのであります。

 われわれの信仰は大なり小なり、御利益的であり、迷信的なものなのです。それをうけとめるイエスのほうに、少し奇妙ないいかたになるかもしれませんが、正しい信仰があるかどうかであります。

 つまり、どこかの新興宗教の教祖のように、人々のそうした御利益的な信仰を利用して、自分の人気を高めたり、大きな神殿を建てたりするのか、しないか、ということであります。
 
 イエスはそういうことはなさらなかった。そういう教祖として祭り上げられそうになると、それを避けて、海辺に退かれたのでありまする

 神様のほうで、われわれの御利益的な信仰、迷信的な信仰を厳しく、正しく批判し、われわれを正しい信仰へと導いてくださいるのであります。