「神の前にひれ伏し、神を仰ぎみる」 ヨハネ黙示録二一章一ー四節

 先日、わたしの同期の西島真沙子さんの葬儀に参加いたしました。八十八歳です、わたしも同じ年なので、その時しみじみと自分ももう死ぬのだなと実感しました。
 そのときに突然、どうしてももう一度説教したい、自分なりに聖書を通して発見したメッセージを伝えたい四つのことがあると思ったのです。それで厚かましいお願いですがとことわりながら、白先生に、先生が夏期休暇をお取りになるときにでもと、説教させてもらえませんかと手紙を送りましたところ、こうして説教させていただけまして、本当に感謝しております。 

 四つのメッセージをあらかじめ先に提示しておいたほうが最後まで聞いてもらえるのではないかと思い、提示しますと、一つは、われわれ日本のプロテスタント教会は、行為義認主義からは、解放されているが、努力義認主義から解放されているだろうか、という問題、二つ目は、キリスト教の倫理は、一つの焦点をもつまん丸いものではなく、二つの焦点をもつ楕円形ではないかということ、三つ目は、自殺をめぐる問題、そして最後の四つ目は、われわれは死後、愛する者との再会を期待しているかもしれないが、聖書には死後、愛する者との再会を期待したり、その約束している箇所はないということであります。
 そういう訳で、テーマはバラバラで、説教としてあまりふさわしくないと思いますが、おゆるしください。
  
わたしが訴えたい一つの問題に入ります。
 われわれプロテスタントの信仰は、「行為義認」ではなく、「信仰義認」の信仰であります。それはわれわれは良い行いをすることによって、救われる、義とされるということではなく、良い行いができないわれわれのために、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で赦されて、義とされる」という信仰によってわれわれは生きているのであります。
  わたしは聖書にはじめて接したのは、キリスト教主義の学校に入った時でした。最初にあのマタイ福音書にある「山上の福音」と言われているところに出会って、衝撃をうけました。そのなかで、「心の清い者は幸いである、その人は神を見る」という言葉です。そしてそのあと続いて「姦淫するな」というところで、「情欲を抱いて女を見る者は心のなかで、すでに姦淫をしたのである。右の目が罪を犯させるなら、それを切って捨てよ。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれるよりはましだ」という言葉でした。

 それでわたしは一生懸命,清い心をもとうとつとめました、しかしどうしても自分の心を清くすることはできませんでした。そのために自分は神の愛は受けられないと思ったのです。
 ある会合でそのようなことを話をしましたら、その会合が終わると、その会のなかにいたこの用賀教会の創立者である橋本ナホ牧師がわたしの前に現れて、「あなたのはキリスト教ではありません。良い行いができないわれわれをイエス・キリストは赦し、わたしを救ってくださった、その神の愛を信じるのがキリスト教なのです」といわれたのです。
 「あなたのはキリスト教ではありません」と、真っ向からいわれて、衝撃をうけました。わたしはその時、目から鱗で、それから本格的にキリスト教を求め始めたのです。

 われわれプロテスタント教会の信仰は、「わたしたちは人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」という立場にたっております。

 われわれプロテスタント教会のキリスト者はそのことは皆わかっていると思います。しかし、わたしが四十六年の牧会通して、思ったことは、われわれは、良い行いはできないにしても、良い行いをしようとする「努力」はしなくてはならないのではないかと、思っていないかということなのです。 

 とくに、日本のクリスチャンは真面目な人が多いですから、「せめて努力はしなくてはならないのではないか」と思っていないか。これをわたしは、努力義認主義と名付けたいのです。この努力義認主義からわれわれ日本人のキリスト者は完全に解放されているだろうかと思ってしまうのであります。

 行為義認主義からは、解放された、しかし努力義認主義からは解放されていないのではないか。もし努力義認主義から解放されていなければ、われわれはたちまち、行為義認主義にあともどりしてしまうのではないか。

 この努力義認主義の一番顕著に表れたのが、日本のプロテスタント教会に根強く現れた禁酒禁煙という生き方であります。これはもちろん日本独自のものではなく、アメリカから来たピューリタニズムの運動から来たものですが、それ自体はとても良い倫理、運動だと思います。

 しかし、これが日本の教会では、キリスト教倫理の問題としてではなく、救いに関わる問題にしてしまった。禁酒禁煙という生き方をしないとクリスチャンでない、救われたとは言えないと考えられた。明治時代の教会では、酒を飲んだり、たばこを吸ったら、聖餐式を受けられない、陪餐停止処分になってしまったのであります。陪餐停止は、もうこれは救いの問題であります。
 
 われわれの日本の教会は、行為義認主義は、だめだとわかっていながら、しかし「せめて努力はしないと救われないのではないか」という努力義認主義から完全に解放されているだろうか。この努力義認主義から解放されたいなところに、日本の教会が本当に罪から解放されたという自由さ、明るさが欠けているのではないか。確かに、真面目ではある、しかし本当に罪赦されたという解放感、自由、広々とした思い、明るさ、をもっているだろうか。

 クリスチャンは確かに真面目ではある、しかし、教会は互いにゆるしう交わりではなく、お互いを批判し、裁く教会の交わりになっていないかと思うのです。

 われわれは、行為義認主義から解放されるだけでなく、この努力義認主義からも解放されなくてはならないというのが、わたしが皆さんに訴えたい第一のことなのであります。

 それでは、信仰生活には努力は必要ないのか。そうではないのです。努力は必要なのです。しかし、それは救われるための努力ではなく、ただただ神の憐れみによって救われたのだ、救われるのだということを信じるための努力であります。それは救われるための資格とか条件を得るための努力ではなく、「すでに捕らえられているから、捕らえよう」とする努力だということであります。

 わたしが皆様に是非お伝えしたい、第二のことは、われわれキリスト者のこの世での生き方のあり方であります。

 あるとき、一人の律法学者が「あらゆる掟のなかで、どれが第一でしょうか」とイエスに質問したのです。そのとき、主イエスはこうお答えになりました。
 「第一の掟はこれだ。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力をつくして、あなたの神である主を愛さなくてはならない」と言われ、すぐ続けてイエスはこう言われた。
 「第二の掟はこれである。隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はない」とお答えになったのであります。

 質問者は、掟のなかでなにが一番大切か、と質問しているのです。「一番」と聞いているのです。ですから、その答えは、「一つ」の筈であります。しかし、イエスもそれに対して「一番はこれだ」と、答えながらすぐ続けて「第二もこれだ」そして「この二つにまさる掟はない」と答えられたのであります。

 つまり、キリスト教倫理の特徴は、一つの焦点をもったまん丸いものではなく、二つの焦点をもった楕円形だということであります。二つの焦点をもっているのですから、その円の形はまん丸いものではなく、その二つの焦点の動きによって、様々に変わる柔軟性をもった楕円形だということであります。

 もし、われわれの生き方が「ただ神のために、神の栄光のために」という焦点をもった一つのものだけであるならず、神の栄光のために、平気で人を殺すことができる、神の栄光のためならば、自分を殺し、それによって多くの人を殺すことも辞さない自爆テロも平然とできます。

 しかしわれわれにはそれはできない、なぜなら、隣人を愛することは、神を愛することと同様に大切なことだからであります。神の名において人を殺すことは絶対にできないのであります。

 これは具体的にいえば、もっとも卑近な例でいえば、たとえば、親を介護しなくてはならない、そのためには、日曜日の教会の礼拝にどうしても出席できないということがあると思います。そういう時には、教会を休めばいいと思うのです。親の介護に真摯に付き合うのです。
 わたしは現役のときに、口が裂けても「聖日礼拝厳守」という言葉は使いませんでした。

 親の介護のために、礼拝を休む、休むことが許されている、しかしそうした日が続いていくと、どうしても教会にいって礼拝に参加したくなる、その時には、なんと非難されようと、教会にかけつたらいいと思うのです。

 これはなにも親の介護というなにか美しいことだけではなく、サラリーマンにとっては、六日間働き続けて、肉体的にも、精神的にもくたくたになってしまうということもあると思います。そういう状況にいるときには、礼拝を休めばいいと思います。その決断、その選択は、われわれにある、われわれに許されている。それは人によって様々であります。その人の状況、個性によって違ってきていいことであります。それは自由であります。

 イエスご自身がまさにこのように生きられたのであります。安息日に病人をいやしたからであります。その当時は、イスラエルでは、安息日は神のために、神を礼拝するための日でいっさいの労働はしてはいけないとされていたのであります。病人いやすのも、そういう医療行為も労働ととして、禁止されていた。しかし、イエスは平然とその考えを否定した。ここでは、いわば、隣人を愛することを、神を愛することよりも優先された。
 
 そして、こう言われたのであります。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。そういわれて、そのあと、不思議な言葉を残されました。「だから、人の子は安息日の主である」。ここはリビングバイブルでは、こう訳しております。「しかし、メシア、救い主であるわたしには、安息日になにをしてよいかを決める権威もある」と、意訳しています。大変良い意訳だと思います。

 「安息日は、人のために定められた、人が安息日のためにあるのではない」という発言は当時としては、教会にとってもあまりにも過激な発言だったためか、マタイによる福音書も、ルカによる福音書、この大事な発言を省いてしまって「人の子は安息日の主である」という言葉だけをのこしているのであります。わたしは大変残念なことだと思います。
 
 これは、おそらく 「安息日は人のためにある」ということだけだと、「愚かなわれわれは、自分勝手に自分の好き放題にすることが,自分のわがままに振る舞うことが、許されている、それが安息になると勝手に思い込んで、自分のわがままさ、自分の欲望に振り回されて、安息どころか、自由であるどころか、自分の欲望の奴隷になって、不自由になって、自爆してしまうのであります。
 そういうことから、解放されるためには、絶対者である神を仰ぎ見る、そうして、自分の自我を相対化する、自分の自我を捨てる、そのことがどうしても必要なのであります。
 キリスト教の倫理は、一つの焦点をもつかっこいい丸い円でなく、二つの焦点をもつ楕円形であっていいと思うのであります。
  
 たしかに、イエスはあるとき、「わたしよりも父、母を愛するものは、わたしにふさわしくない。わたしよりも、息子や娘を愛するものも、ふさわしくない」といっております。そうしますと、ここでは、神を愛するか、人を愛するかという優先順位は、神を愛するということにあることは、はっきりしているではないかと言われるかもしれません。
 しかしここは、神を愛するか、隣人愛するか、という二つ焦点ではなく、神を愛するか、自分を愛するかと問題であって、ここでは優先順位ははっきりしているのです。
 神よりも自分を愛することは、愚かであり、それは自爆せざるを得なくなるからであります。自分の欲望の奴隷になってしまうからであります。
  
 焦点は「神を愛するか」「隣人を愛するか」という二つの焦点であって、「神を愛するか」「自分を愛すか」ということではないのです。
 
 「神を愛する」ということと、「隣人を愛する」ということは、たしかに、対立することではなく、同じことなのだと言われるかもしれません。確かに、その通りであります。しかし表現としては、あえて、ある状況においては、対立するかに見えるときもあると言えるのではないかと思います。
  
 大切な焦点が二つあるということは、そのどちらかをわれわれが自分の判断で選択しなくてはならないということであります。われわれにその選択する自由が許されているということであります。つまり、その人の個性、その人の置かれた状況によって、その選択は自由だということ、一律ではない、律法的に決まったものではないということであります。

 皆様にお伝えしたい第三のことは、自殺の問題であります。このごろは、自殺とは言わないで、自死というようになりましたが、親にとって、子供が自死して亡くなってしまうということは、なによりも悲しいことだと思います。それはただ病気で死んでしまうということよりも、深く悲しいことだと思います。

 私も現役のときに何人かが自殺した会員がいて葬儀をしなくてはならないことがありまし。大抵の場合は、遺族は、葬儀の際には、自殺したとは公表しないでくれ、事故にしてくれといわれるのです。もう自殺だとわかっていても,表向きは事故で亡くなったことにしてくださいといわれました。葬儀の式辞は大変やりにくかったのです。
 しかし、私は、葬儀の公の式辞のなかではふれることはできませんでしたが、少なくとも遺族だけの時には、主イエスのこの言葉を用いて、ご遺族のかたを慰めようしました。

 それは主イエスがいわれたこういう言葉です。
 「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるかたを恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父の許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも数えられている。だから、恐れるな。あなたがたはたくさんの雀よりもはるかに勝っている」。
 つまり、どんなに価値がないと思われている雀の一羽さえ、父なる神の許しがなければ、地に落ちることはない、死なない,死ぬことはできないとイエスは言われたのです。

 自殺する人は、自分で自分の命を絶つことができると考えでいるかもしれません。できたと思っているかもしれない。しかし、その背後には、神の許しがあって、はじめて死ぬことができたのだということであります。

 苦しんで、悩んで、自分の命を絶とうする人に、神様が無関心でおられる筈はないのです。その苦しみ、悩みを神様はご存じであります。その人がどうしても生きることができなくなって、自分で自分の命を絶とうとしたときに、神は憐れに思って、「そんなにお前は生きるのが苦しいのか、それならば、お前を死なせてあげよう」という神の憐れみの許しがあってはじめて、人は自分の命を絶つことができるということであります。
 「その一羽の雀の命さえ、父の許しがなければ地に落ちることはない」からであります。

 第四のことは、、われわれは死んだあと、すでに死んだ愛する者との再会はあるのかという問題です。

 キリスト教の葬儀で、死者との最後の別れは、火葬場に死者を送る時です。ある時、ある牧師が突然賛美歌を歌い出しました。賛美歌の405番「神と共にいまして、行く道を守り、あめの御糧もて、力を与えませ。また会う日まで、また会う日もまで、神の守り、汝が身を離れざれ」と歌いだし、みんなもそれに併せて、歌い出しました。キリスト教葬儀のなかで、もっとも感動的な慰めの場面であるかもしれません。

  「また会う日まで」と死者に向かって歌う。しかし、本当に死後、愛する者との再会はあるのだろうか。

 聖書のどこを捜してもそんなことを約束しているところはないのです。愛する者との再会があるならば、憎んでいる人、あるいは、憎まれている人との再会もある筈です。しかし、われわれはそんなことは考えようともしない。ずいぶん身勝手な思いではないか。

 聖書のどこを捜しても、死後、愛する者との再会の約束や期待を促す箇所はないのです。賛美歌にはあります。たとえば、第一編の四八九番などは、「やがて会いなん、めでにしものと、やがて会いなん」と繰り返し歌われております。
 あるいは、四○五番の四節などであります。それは賛美歌であって、聖書的根拠はないのです。

 ヨハネ黙示録二一章には、ある意味ではわれわれの死後の世界が描かれております。そこには一言も愛する者との再会などには言及されていないのです。
 そこでは「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」(ヨハネ黙示録二一章一ー)と言われているだけで、神とお会いすると約束されているだけで、すでに死んだ愛する人との再会などということは一切言及されていない。

 パウロは、われわれは、終末のときは、「顔と顔とを合わせて見ることになる」と書かれております。誰と会うのか、神様と会うのです。 リビングバイブルでは、「面と向かって、神様の完全な姿を見るのです」と訳されております。(コリント第一 一三章一二節)

 聖書には、死後、愛する者との再会など関心をもっていない。神がすべてにあって、すべてとなってくださるというところに、喜びと救いを見ているのです。。

 ヨブが死後望んだ事は、「わたしを贖うかたは生きておられ、ついには、塵の上に立たれる。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見る」(ヨブ記一九章二六ー二七節)ということであって、愛する家族との再会など一つも望んでいないのです。

 これは冗談ですが、ヨブの奥さんは、ヨブが苦しみ抜いているときに、ヨブに向かって「いやどこまでも無垢でいるのですか。神を呪って死んでしまいなさい」と言ったのであります。それでそういう妻とは死後会いたくないとおもったのかもしれません。

 ただ一カ所、死後、愛する者との再会を望んでいる箇所があります。それはダビデが息子が死んだことを知った時に、こう言っている。「わたしはいずれあの子のところに行く」と、いっていますが、これはダビデの願望にすぎない、神の約束ではないのです。

 わたしも現役ときには、葬儀のときには、とくに、幼い子を亡くした親に対しては、死後の再会を否定するようなことは口にだしてはいえなかった。子を亡くした親にとっては、神とお会いすることなどではなく、愛する子との再会だからであります。

 テレビでときどき、結婚式の場面で、外国の神父とか牧師が司式をする場面で、牧師が新郎新婦にこう誓約をせまるところがあります。「あなたはその健やかなときにも、病むときにも、この人を愛し、敬い、この人を慰め、この人を助け、死があなたがたを分かつときまで、堅く節操を守ることを約束しますか」と誓約させるのです。
 わたしはあるとき、この場面で、「おやっ」と思ったのです。少し日本人には合わないと思ったのです。どういうことかといいますと、日本人の感覚では、たとえ、死が夫婦の絆を切り離そうとしても、もしそこに愛があるなば、死もふたりの愛の絆を断つはことはないと思うのではないか。「死があなたがをわかつときまでは、節操を守れ」という誓いの言葉は、日本人にはなじめない気がしたのです。死んだらもう節操をまもらなくてもいいのか、死んだら、もう愛の絆は断たれるのかと思ってしまうのです。

 そして改めて、式文を取り出してみましたら、われわれの用いる式文には、「死があなたがたを分かつときまで」という言葉はないのです。その代わりかもしれませんが「いのちの限り、堅く節操を守ることを誓いますか」になっているです。
 これは面白いところです。われわれ日本人の感覚では、死ですら夫婦の愛の絆を切り離せない、死後を超えて愛の絆は続くと考えている、だから、日本人は、心中、無理心中ということが行われるのでないかと思います。おそらく、外国には、心中というようなことは誰も思いつかないのではないかと思うのです。死後の再会など考えていないからであります。

 われわれ日本人は、死後、愛する者と再会する、その思いはとても強いのです。しかし、それは聖書的だろうか。
 パウロがいうように、死が切り離すことができないのは、人間どうしの愛ではなく、「「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを切り離すことはできない」と、ありますように、死が切り離すことができないのは、イエス・キリストによって示された神の愛だけであります。

 主イエスは、復活をこの世のしがらみをそのまま持ち出した人に対して「この世の子らはめとったり、嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活する人々は、めとることも、嫁ぐこともない。この人たちはもはや、死ぬことない。天使に等しい者である」(ルカ二十章二七節以下)といって、この世の人間関係を死後の世界に持ち出すことを戒めているのであります。

 愛する者との死後の再会を望む時、自分は年をとっているのに、死んだ人も年をとっているイメージをわれわれは抱いて、死後の再会を望んでいるだろうか。幼い子ならば、その死んだ時の幼いままの姿を見たいと思うだろうと思います。。死んだあと、愛する者との再会を望むわれわれの期待がどんなに身勝手なものであるかということである。

 たがら、大事なことは、死後、愛する者との再会を期待し、望むことよりも、今生きているときに、今いきている時にです、死んだ者を「思い出とし」として再会することであります。そのために、召天者記念礼拝、墓参ということが大事なのではないか。

 終末を告げるヨハネ黙示録二十一章にはこう記されているのです。
「新しい天と新しい地と見た。最初の天と地は去った。もはや、海もなくなった。見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神みずから人共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとく拭いとってくださる。もはや、死はなく、悲しみも、嘆きもない。先のものはすぎさったからだ」と告げているのであります。

 そうであるならば、われわれはもう古いもの、この世のしがらみを捨てて、新しい天と地を仰ぎ見ようではありませんか。
 神の前に伏し、神を仰ぎたいと思います。それは、わたしひとりで神様を仰ぐのではないのです。確かに、すでに亡くなった愛する者と一緒かもしれません。しかし、もはやもうその時には、ただただ神に顔を向けるのです。神の前にひれ伏すのです。
  このあと、賛美歌の三五五番を歌いますが、そこでは「主を仰ぎみれば、古きわれは、うつし世と共に、とくされゆき、我ならぬ我のあらわれきて、見ずや天地ぞ、あらたまれる」と、心から声たからかに歌いたいと思うのです。
 もうこの世のしがらみを捨てて、新しい天と新しい地を待ちのぞみたいと思うのであります。ここに、われわれの希望と喜びがあるのではないか。