「愛されて、愛する」  イザヤ書五十三章、マタイ二六章六ー一三節


 主イエス・キリストの語られた言葉は、四つの福音書に記されておりますが、ただ一つ、この四つの福音書には記されていない主イエス・キリストの言葉があります。それは使徒言行録の二十章三十五節にある言葉てす。「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また主イエスご自身が『受けるよりは与えるほうが幸いである』といわれた言葉を思いだすように」。

 これはパウロが語っている言葉です。パウロは直接、主イエスにお会いしてはいないのです。ですから、パウロが直接、主イエスから聞いた言葉ではなく、おそらくペテロを通してきいている言葉だと思います。

「受けるよりは、与えるほうがさいわいである」という言葉は、いかにも主イエスが語られた言葉であります。それに似た言葉は、福音書にも記されているからであります。たとえば、ルカによる福音書の六章三十八節に「与えなさい、そうすればあなたがたも与えられる」とあります。

 なぜこの言葉が四つの福音書に残されていないのか不思議ですが、きょうは、わたしは「受けるよりは、与えるほうが幸いである」という言葉とは正反対に「与えるよりは、受けるほうがさいわいである」ということをお話ししたいのです。

 よくいわれることですが、聖書には、愛を表す言葉が、アガペーという字とエロスという字があって、神の愛は、アガペーという言葉が使われている。そしてアガベーは、自己犠牲的なもので、見返りを求めない愛で、それに対して、エロースの愛は、見返りを求める愛であって、それは自己中心的な愛であって、それは聖書で教える愛ではないといわれているのであります。

 つまり、「与える愛」は、どこまでも、「与え続ける愛」であって、それは見返りを求める、「受けることを求める」とは違う、それが「受けるよりは与えるほうが幸いである」ということだと説明されるのであります。
 
 しかし、見返りを求めない愛などというものが存在するだろうか。愛はいつも、見返りをもとめます、見返りというと語弊があるかもしれませんが、応答をもとめます、つまり、「私はお前を愛するから、おマルタもえも私を愛してほしい」と求めるものです。応答を求めない愛などというものは存在しないし、ただ自己犠牲を目指す愛などは、愛ではないと思うのです。
 パウロが愛について語ったあのコリントの手紙十三章で、「全財産を貧しい人々のために使いつくそうとも、誇ろうとして我が身を死に引き渡そうとしても、愛がなければ、なんの役にもたたない」といっているのです。応答を求めない愛などというものは、ただ自分を誇るための自己犠牲にすぎないのであります。

 つまり、エロースがないアガペーの愛など、存在しないのです。愛は必ず愛の応答を求めます。あの十戒の最大の戒めは、「わたしがお前を愛したように、お前もわたしを愛してほしい、愛しなさい」ということであります。

 自己犠牲そのものが目的となるような愛は、愛ではないのです。われわれは戦時中、どんなに自己犠牲が尊い、美しいのだと教育されて、特攻隊に参加せよと、だまされたきたか。わたしは「自己犠牲」という言葉を聞くと、戦争中にさかんに言われてきた言葉、「お国のために、天皇のために」自分の命をすてよといわれて、戦地に送られてしまった特攻隊のことを思い、この言葉に嫌悪感をもってしまうのであります。

 ですから、「受けるよりは、与えるほうがさいわい」であるという言葉は、誤った用い方をされたら、大変危険ものになると思うのです。

 たしかに、主イエスは、ヨハネ十五章では、こういっております。
 「友のために、自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」といっております。しかし、これは自分を捨てないと、自分を捨てて相手を愛さないと、相手に自分の本当の愛がわかってもらえない、だから自分を捨てるのです、そして相手から愛を受けるのです。

 主イエスはこの言葉を語るまえのヨハネ福音書の一三章三四節ではこういっているのです。「あなたがに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」といっているのです。ここでイエスは、「自分の命を捨てて、一方的に愛し続けなさい」といわれたのではないのです。
お互いに愛し合いなさい」といわれたのです。つまり「お互いに愛し合うためには、自分を捨てて愛さないと互いに愛することはできないのです。

 愛は、愛することによって、愛を受けるという応答を求めます。この「受ける」ということの大切さ、愛を受ける、愛されるということがどんなに大切か、どんなに幸いか、すべてはそこから始まるのだと、今日お話しをしたいのであります。

 主イエスは、幼いときには、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」と、ルカによる福音書には記されております。イエスの少年時代は、ただ神さまから愛されただけではなく、人から、人々からも愛されたというのです。イエスの少年時代は、なにか聖人伝説にあるような孤立した聖人なんかではなく、ごく普通の環境のなかで、両親からだけでなく、隣近所の人々からも愛されて育ったということであります。「人からも」愛されたのです。

 イエスの語ったたとえ話のなかで、わたしが好きなたとえ話があります。それは、あの有名な放蕩息子のたとえの前にあるたとえばなしであります。ある女が銀貨十枚もっていて、その一枚をなくしたとき、灯火をつけ、家をさがしまわり、そしてようやく、その一枚をみつけたときには、友達だちや、隣近所の女たちを呼んで、こう言って喜ぶだろう。「なくした銀貨をみつけたから、一緒に喜んでくれ」というだろうという「たとえ」であります。
 たかが一枚の銀貨をなくし、銀貨一枚、ドラクメ銀貨一枚となっておりますが、今日の貨幣価値からすると千円くらいだといわれております。日本円には千円銀貨はありませんから、五百円銀貨と考えてもいいと思います。われわれは、その五百円銀貨をなくし、それをようやく見つけた時に、隣近所の女を集めて一緒に喜んでくれという行動にでるでしょうか。われわれだったら、自分ひとりで密かにほくそ笑むのが普通ではないでしょうか。
 こんなことは、あの落語にでてくる長屋の人たちの近所づきあい、つまりお互いに助け合い、愛し合う日常の生活を思い出させる話ではないかと思うのです。

 イエスがこういうたとえ話をしたということは、イエスが少年時代、お互いに助け合い、お互いに愛し合う生活をしたということではないかと思うのです。

 つまり、イエスは幼いとき、少年時代、どんなに人々から愛されて育ったったかということであります。

 愛されて育った。そのことがどんに人間にとって大事なことか。その人は大人になったときに、どんに豊かにそして、語弊があるかもしれませんが、自然に人を愛することができるひとになっているのではないか。

  愛は、愛されることによってしか、愛について学ぶことはできないのであります。

  ですから、われわれは幼子を、幼いときにです、幼子を深く深く、豊かに豊かに愛さなくてはならない、親は、そして親の代わりをする大人は、あるいは、保育園の先生、幼稚園の先生は、幼子に豊かに愛を注がなくてはならないと思うのです。
  愛は、愛されて、愛されて、その愛を受け止めて、はじめてまた人を愛るすることができるようになるのであります。

 それに対して、幼いときに両親から虐待を受け、親からも周りの人からも愛されないまま育ったひとは、大人になったときに、人を愛せない人間になってしまうにではないか。そして、あることを契機に悔い改め、人を愛することの大切を知り、人を愛そうとしても、これは絶対に本人の責任ではないのですが、いつもその愛は、ぎこちないかたちで愛せないのではないか。あるときには過剰に愛して、人を傷つけてしまう、そういう愛し方しかできなくなってしまうのではないか。

 主イエスは、あるとき、ある女から、そのようなぎこちない、過剰な愛を受けたことがありました。
 ある時というのは、主イエスが、自分は人々から卑しめられ、見捨てられ、殺されるのではないか、そしてそれが父なる神の御心であると示されれながら、しかし、自分は本当にそのように殺されていいのだろうと迷っているときであります。

 過ぎ越しの祭りの二日前のことであります。イエスは、祭司長たちが自分を殺そうと計画しているのを察知して、いよいよ自分は殺されることを覚悟をしていたときであります。、ベタニヤで、重い皮膚病にかかっていたシモンの家にいたときであります。
 ひとりの女が高価な香油の入っている壺をもってきて、いきなり食事をしているイエスの頭に注いだ。ルカによる福音書によれば、女はイエスの足に涙を流し、それを髪の毛で拭ったとも記されております。
 弟子たちはそれを見て憤慨した。「なぜこんな無駄なことをするのだ。これを高く売って、貧しい人々にほどこすことができるのに」と非難した。そのとき、イエスはこういわれたのです。
 「なぜこの人を困らせるのか。この女はわたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつでもお前たちのそばにいる。わたしはいつも一緒にいるわけではない。この女はわたしの頭に香油を注いで、葬る準備をしてくれたのだ。はっきり言っておく、世界でこの福音が語られるときに、この女がしたことも記念として語られるだろうと」と言われたのであります。
  この一人の女がとんな女なのかわかりません。ルカによる福音書では、これとにた記事を書いていて、「罪深い女」と記されています。もっともヨハネによる福音書では、マルタとマリやの、マリアとされていますが、状況から考えると、この女は、おそらく罪深い女、あるいは娼婦であったかと思われます。

 この女は、幼いときからひどい状況のなかで、みんなから嫌われ、虐待され、誰からも愛されないで育ったのではないか、それがあるとき、主イエスにであって、受け入れられた、「罪の赦し」の言葉をかけられた。主イエスから愛を受けた。それが女を変えた。そのように自分を受け入れ、自分を愛してくれた主イエスがただならぬ運命のなかに立たされていることを伝え聞いた。それでたまらくなって、イエスのところにかけつて、このような行為に及んだのではないか。

 このとろで、竹森満佐一がこう語っているのです。
 「イエスが十字架につけられるということは、誰も考えることができなかった。イエスがそのことを告げた時にも、ペテロはそれに反対してイエスから叱られた。だれもそれを望まなかった。ところがこの女にはそれがはっきりとわかった。弟子たちがこの期に及んでも、悟れなかったことを、この女ははっきりと見ることができた。人は自分の愛する者のことについては、敏感に感じられるものだ。どんなにかくしていても、その心を知ることができる。その運命について、何かを感じることもある」といっているのであります。
 
 人は、愛する者の死を敏感に感じるものだというのです。もっとも、その人を深く愛するが故に、その死を予感したくない、その死をおもいたくないということもあると思います。それはその人を愛するが故に、その人の死を予感するだけに、それを否定しようという思いが働いているのかもしれないと思います。

 ともかく、この女はイエスのなかに死の運命を感じとった、それが、このぎこちない、ある意味では過剰な愛し方に出てしまったのではないかと思います。それは弟子たちに不快な思いをさせた。
 しかし、イエスだけは、この女の行為をどんなに喜ばれたかわからないのであります。「この女はわたしの体に香油を注いで、わたしの葬りの用意をしくれたのだ。世界中のどこでも、この福音が語られるところでは、この人のしたことは記念として語られる」とまでいって、喜んだのであります。」

 この記事と関連して、永瀬清子さんという詩人がこういう詩を書いております。「悲しめる友よ」という詩であります。こういう詩です。
 「悲しめる友よ、女性は男性より先に死んではいけない。男性より、一日でも後に残って、挫折する彼を見送り、またそれを蔽わなければならない。男性が一人後に残ったならば、誰が十字架から降ろし埋葬するであろうか。聖書に書いてあるとおり、女性はその時に必要であり、それが女性の大きな仕事だから、後に残って悲しむ女性は、女性の本当の仕事をしているのだ。だから女性は男性より弱いものであるとか、理性的でないとか、世間を知らないとか、さまざなに考えられているが、女性自身はそれに釣り込まれてはいけない。これらのことは、どこの田舎の老婆でも知っていることであり、女子大学で教えないだけだ」という詩であります。

 これは、イエスに高価な香油を注いで、イエスから、この女は自分の死の葬りの用意をしてくれたのだといわれた、この女のことを歌った詩であります。

 ご承知のように、実際にイエスの死体を十字架から降ろし、埋葬したのは、女性ではなく、男性のアリマタヤのヨセフであります。これは永瀬清子さんが聖書を読み違えたのではなく、イエスを本当に埋葬したのは、この女性であるという思いがあったのだと思います。なぜなら、イエスご自身が「この女はわたしの葬りの用意をしてくれたのだ」と言われているからであります。

 つまり、これは女性だ、男性だということではなく、「挫折する彼を見送り、それを蔽ってあげる」ということか゛、人間の本当の仕事なのだ、本当の愛なのだと、永瀬清子さんは、言いたいのではないかと思います。

 しかし、この女のした行為は、なんとぎこちなく、過剰な行為だったのではないか。それは弟子たちから避難されるほどの異常な行動だったのであります。

 イエスは、幼年時代、少年時代は、人々から愛され、お互いに愛し合う環境のなかで育っていったのであります。
 しかし、イエスは、メシアとしての活動をはじめてからは、尊敬はされたかもしれませんが、愛されるという経験はもうされなくなったのではないかと思います。 弟子たちは、確かにイエスを尊敬はした、しかしこの女のように愛することはしなかったのではないか、できなかったのではないか。だから、彼らは最後には、イエスを見捨て、イエスを裏切ることができてしまったのではないか。。
 人を本当に愛することができていたならば、そうやすやすと人を裏切るというようなことはできないと思います。

 そういう時に、イエスは人々からは見捨てられ、弟子たちからも見捨てられようとされている、そして自分は十字架で殺されるのではないか、そしてそれが父なる神の命ぜられていることであるかも知れない、それは父なる神にも見捨てられることなのかもしれない、イエスはことのとき、自分が十字架で死ぬことを恐れ、ためらっていたのかもしれません。

 そのときに、イエスはこのようにして自分の死を悲しみ、自分を葬ろうとしている女に出会い、この女からぎこちない愛を受けた、これがどんなにうれしいことであったか、この女は、こんなにも自分のことを愛してくれている、そのぎこちない異常な愛をどんに喜ばれたか。
 
 イエスほど、愛される喜びを知っている人はいなかったかもしれない。父なる神から愛され、両親から愛され、隣近所の人からも愛された。それだからこそ、またイエスほど人を愛した人はいなかったのであります。

 愛される、愛を受けるということがどんに大切かということであります。
  愛されることによって、愛することを学んでいくのであります。
  互いに愛し合うようになるのであります。互いに愛し合う大切さを知るのであります。   
  
 しかし、この互いに愛し合うことを妨げるものがあります。それはわれわれの罪であります。その罪とは、自分がなにかあやまちをするという罪ではなく、相手の欠点をみつけて、それを裁き、それによって自分の正しさを主張しようとする罪であります。その罪が、「お互いに愛し合う」のを妨げるのあります。それがわれわれの最大の罪であります。

 だから、イエスはただ「お互いに愛しあいなさい」といわれただけでなく、「お互いの足を洗いあいなさい」といわれて、イエスみずから、弟子たちの足を洗ったのであります。足は人間の一番汚れているところであります。その汚れを非難したり、裁いたりするのではなく、覆ってあげる、洗ってあげる、それが一番大事なことだとイエスはいわれたのであります。

 永瀬清子さんが「挫折する彼を見送り、それを覆ってあげる」という愛が大事だというのは、相手の汚れている足を洗うということであります。」

 わたしは結婚式を頼まれたときに、必ずこのイエスが弟子たちの足を洗ったところを読んで、これから結婚するということは、恋愛の時とは違って、恋愛の時は、相手の長所に惚れ込み、それを見つめて愛し合えばいいことですが、結婚する生活に入るということは、相手の短所も、相手の欠点も見えてくる生活に入るということだ、しかし、その欠点をなにか教育してなおそうするのではなく、その欠点を赦し、受け入れる生活に入ることなのだ式辞で述べてきました。

 しかし、そのように相手の汚れている足を洗うということは、難しいことであります。だから、イエスは自分が十字架で死のうとされたとき、イエスが、まず弟子たちの足を洗うことをされたのであります。それがイザヤ書五十三章で預言されていた「主のしもべ」の歌であります。
 「彼が担ったのは、わたしたちの病、彼が負ったのは、わたしたちの痛みであった」「彼が刺し貫枯れたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の傷によってわたしたちは癒やされたのだ。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方向に向かって行った。そのわたしたちの罪のすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれるように羊のように、毛を切る者の前に物をいわない羊のように、彼は口を開かなかった」「わたしの僕は、多くの人が正しい者と定められるために、彼の罪を自ら負った、多くの人の過ちを担い、背いた者のために、執りなしをしたのは、この人であった」と歌われているのであります。

 イエス・キリストのこの執り成しの贖いによって、わたし罪が許された、このことを信じることから、われわれもお互いの足を洗い合おうという思いをもち、それを行動に移すことができるのであります。

 「互いに愛し合う」ということは、「互いの汚れた足を洗いあう」ことなのであります。

 今、世界中で戦争が起こっております。戦争は「お互いに愛し合う」ことができないところから始まるのであります。
 戦争というものは、永瀬清子さんが歌っているような、「挫折する彼を見送り、それを蔽ってあげる人」の存在をなくしてしまうということであります。死んでいく人も、その死を悲しみ葬ってあげる人も同時に抹殺していまうことであります。それがどんなに悲惨なことか。

 とくに、現代の戦争は、殺す側は、核兵器やドローンによって、人を殺戮する。殺す側には、なんの罪責感もなく、敵を殺していくのであります。あのベトナム戦争に参加したアメリカの兵士たちの多くのひとは、戦争がおわって平常のに生活のもどったときに、罪のない人を殺してしまったというう罪責感にとらわれて、精神を病んでいる人が沢山いるということを聞いたことがあります。

 現代の戦争は、殺す側にもはやなんの罪責感をもたせないで、人を殺していくのであります。
 
 バッハに、ロ短調ミサ という作品があります。これはカトリック教会の礼拝で用いられる礼拝用の曲なのですが、神を賛美し、信仰を告白するカトリックの礼拝、ミサで演奏される曲なのですが、それをプロテスタントであるバッハがあえてカトリックのミサで行われるラテン語で作曲したのであります。

 バッハの最高傑作といわれている曲であります。ユネスコの世界記憶遺産というものに、ベートペンの第九に続いて、登録されているものであります。

 そのロ短調ミサ曲の最後は、「われらに平和を与えたまえ」と力強く、繰り返し、切々と訴える曲であります。その曲の前の部分は、ホザナ、ホザナと力強く賛美する合唱であります。ホザナというのは、「我々を救ってください」という意味ですが、のちに、日本語でいうと「万歳、万歳」という意味に転嫁していった言葉であります。

 そのバッハのロ短調ミサ曲では、そのホサナ、ホサナという曲と、最後の「平和を与えたまえ」という曲の間に、突然さえぎるようにして、アニュウス・デイという独唱曲が挿入されるのであります。アニュウス・デイとは神の子羊という意味で、われわれの身代わりになって、われわれの罪を赦し、われわれの罪を贖うだめに、屠られていく神の子羊を歌う曲であります。
 イザヤ書五十三章の「主の僕」で歌われてている神の子羊のことであります。

 歌の運びからいったら、ホサナに続いて、「われわれに平和を与えたまえ」と続いたほうがいいのに、と思うのですが、しかし、とつぜん、このアニュウスデイが歌われるのであります。カウンターテナーで、あるいはアルトの独唱者よって、静かに、しみじみと訴えるように歌われるのであります。罪を取り除くイエスの十字架については、すでに、クレドー、つまりニカイア信条を歌うところで、すでに歌われているのです。それなのに、バッハはあえてもう一度、アニュウスデイ、われわれの罪を取り除く神の子羊を歌い、われわれを憐れんでください、としみじみと歌わせているのであります。
 これは台本がそうなっているというよりも、このロ短調組曲は、バッハがなんどもくりかえし、編集しなおしたのだといわれておりますから、ここにバッハの深い信仰の告白があらわれているところだと思います。

  われわれに平和が与えられてるためには、どうしてもわれわれの罪を取り除いてくれるイエス・キリスト、神の子羊が必要なのだということであります。

 そうして、このミサ曲は、最後に、「ドナ ノビス パーチェム、われわれに平和をあたえたまえ」と合唱が力強く歌われるのであります。
 日本語の訳では、ここを「われらに平安を与えたまえ」と、「平和」ではなく「平安」と、われわれの心の平安と、安っぽい言葉にしてまっていますが、「パーチェム」というラテン語は、英語でいえば「ピース」であります。「平和」です、われらに「平和」を与えたまえと歌っているのです。

 バッハはそれまでは、ドイツ語でカンタータなどを書いてきたのです。しかしこの曲は、ラテン語で歌われているのであります。それは当時は、ラテン語が世界の共通の言葉だったからであります。つまり、プロテスタント、カトリックとか、そうした宗派を超えて、全世界の人々に「平和」をバッハは訴えたかったのであります。

 「互いに愛しあう」ためには、どうしても「互いの汚れた足を洗いあう」ことが必要なのであります。そのために、主イエスは、われわれの足をまず洗ってくだってのであります。
 屠り場に黙々と死んでいった、神の子羊、主イエス・キリストの十字架の死の贖いを信じたい思います。