1週間前に越してきたこの部屋は、内見の時から気に入っていたんだから自分好みの家具をレイアウトして、お気に入りの食器を並べ、小さなブーケを玄関に飾るとますます気に入るのは当然だ。


やっと手に入れた休日を使ってほんの少し散歩でもしてみようか、そう言えば近くにオシャレなパン屋さんがあったはず。



キュヒョンさん?」



エレベーターが開いたその先にまさか彼がいるとは思わなくて、一瞬の動揺と沈黙を置いた後、気が付くと名前を声に出して呼んでいた。前に雑誌で見た時とは髪の毛の色が僅かに違うけれど、僕が間違えるはずがない。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「イェソンヒョン!」


「リョウク、何か久し振りじゃない?最近忙しいんだってね、体調崩してな」


「この曲!」


撮影や取材の合間を縫ってたまたま顔を出しに事務所へと向かうと、まだ僕が売れるずっと前からお世話になっているイェソンヒョンが丁度挨拶を済ませて出るところだったようだ。駆け足で近付いて声を掛けると、嬉しそうに眉を下げ僕を気遣うような言葉を幾つかくれたけれど今はそれどころじゃあない。

ずっと会ったら聞こうと思っていたんだ。僕はバッグの中から先月ヒョンがリリースした新作のCDを取り出し、歌詞カードを引き抜くと表紙を捲りリード曲であるそのページを指差した。


「リョウクも気に入った?その曲。キュヒョンが作ってくれたんだよ」


「そう!それ!ヒョン知り合いだったの?」


初めに気が付いたのは2年前。

音楽番組の収録やテレビ、ラジオを通して聴き耳触りが良いと感じた曲を集めた時だった。アーティストもジャンルも様々で、統一感もなかったことに自分自身疑問に思っていたのだが、ふと歌詞カードやクレジットへと目を通すとひとつの共通点があった。それが彼、キュヒョンさんが関わっていたことだった。


それからと言うもの、ずっと彼の曲を僕は追いかけた。どんな場所で曲を作っているのか、歌詞は何を思い浮かべながら書いているのか、ごく稀に雑誌に記事が載っていてそれを何度も読み込むのはあっという間に僕の楽しみになった。読めば読む程、曲だけでなく歌詞だけでなく、人柄の良さも伝わってくるようで。

そしてたった一度、最初で最後と称して彼の写真が雑誌へと掲載されたことがある。特段想像してはいなかったのだが、表舞台でも十分に活躍できそうな雰囲気に圧倒されながらも憧れのその姿をしっかりと目に焼き付けた。

いつか僕がもっともっと歌や自分に自信が持てるようになったら作ってもらえたらいいな、そんな期待も込めて。


そんな彼がヒョンの曲を手掛けたなんて。羨ましいにも程がある。まるでタックルし兼ねない勢いで問い掛ける僕にヒョンは瞬きを幾度か繰り返すと、呼吸をするようにごく自然に言葉を続けた。


「もちろん。それこそ昨日終わった時間がたまたま一緒だったからご飯にも行ったよ」


「え、そんなともだ」


「はい、ハナ、トゥー、セ!」


……


驚く間も与えられず突如向けられたスマホの画面には僕とヒョンが写っていて、すかさずCDのジャケットを顔の横に置き指先でハートを作る僕は何て有能なんだろう。そして何てこの人は自由なんだろう。


「あー、今度はリョウクも誘うよ。普段聞けない話を聞けるのも楽しいし」


「うん!絶対!絶対だよ!」



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


それからあっと言う間に半年近くが過ぎようとしていた。当然各々ツアーや舞台で忙しく、互いに音楽番組の収録現場で生存を確認する程となった。

有難いことに次々と仕事が舞い込んでくるのは人気の証拠なのだけれど、いつしか上手くこなすことばかりで精一杯になってしまい、次第に心は閉じて行った。そんな矢先のことだ、まずは心機一転と住む場所を変えようと引越しを決意したのは。



「…キュヒョンさん?」


「あ、はい。そうですけど」


あ、ごめんなさい!」


確かに彼は間違いなくキュヒョンさんだった。けれどその振り向き僕を映す瞳の奥には光がなく、ましてや突然話し掛けられたことにより怪訝そうな表情まで浮かべている始末。

明らかに気不味い雰囲気を打ち破るように謝罪の言葉を慌てて述べた僕は、すぐさま背後のエレベーターへと逃げ込んだ。あまりエレベーターに感謝したことなどなかったが、エレベーターよ、ありがとう。


きっと相当な不審者に思われていたに違いない。それでも。溜め息を吐いて抱えた頭の中ですら、彼が生み出したヒョンの曲が流れていた。



02/tranquilizer