確かにどこかで見たことがあるような気はしたけれど生憎記憶が疎らなため思い出すことなどできず、マグカップを棚から取り出しケトルへと水を注ぎながらぼんやりと思考を巡らせた。意外とこの状況でも他のことへと意識を向けることができるらしい。名前も顔も思い出せない彼に感謝。

この辺りに暮らしていると言うことは近しい仕事なのだろう、防音なども割としっかりしているし。それにしても、どこで誰に見られていて一方的に覚えられているかなんて分からないな。

殆ど顔を世間に出したことなどなくたって、極たまに声を掛けられることだってある。不思議なものだ。


お湯が出来上がる間、仕事部屋へと向かうと先日打ち合わせを行ったレコード会社の担当から不在着信が1件。残った留守番電話記録に端末を耳へと近付けマウスを片手にパソコン画面へと向かう。


「あー


今日までの期限だけれどどうやら時間の思い違いをしていたようだ。15時まで。丁度11時を回った頃だから余りのんびりしている時間はないか、自分の声で入れたリードと簡単なベースのみ入れた音声ファイルを開きキャスター付の椅子へと腰を下ろした。

気が付いた時にはこうして浮かんだメロディやリズムを歌ってみたり、叩いてみたり、言葉を書き留めてみたり。いつから始めたのかはあまり思い出せないのが正直なところ。中学生の頃にはもうピアノやギターを使い、声を入れて、何となくだけれどインターネットを通して聴いてもらうようになったんだっけ。自分にはこれしかないと思いながらここまでやってきたけれど、いよいよ本当にこれしかないんだと最近になって遂に思うようになった。

本来であれば自分で作って昔みたいに自分で歌う、が良いんだろうけれど自分で歌い上げるよりもずっとこの仕事の可能性は無限大だった。この声質には、この音域が出せるのであれば、この声量なら、とか。男性だから、女性だから。2人なら、グループなら。あの声で歌うとどうなるだろうと考えながら宝箱を作り、最後に宝物を仕舞うように声を入れてもらうあの瞬間はどれも美しくて忘れられない。


きっとココアの準備は出来ているに違いないのだけれど、どうしても一度座ってしまったら暫く離れられない。繊細な音をひとつずつ繋いでゆく、待っていてね。もう仕上がるから。



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「すっごく素敵、リード曲にぴったり!」


「本当?気に入ってもらえて安心しました」


 「早く歌いたい、これ」


一度聴くなり黒目がちな瞳を瞬かせているのはつい半年程前に所属していたグループを脱退し、個人活動へと軸を移したドンへさん。今回は本格的な再スタートを切るため全曲新譜のアルバムをリリースするとのことで、俺の名前も上がったらしい。グループ時代から人気を博していた才ある人の新たな門出を後押し出来るだけでなく、リード曲として参加させてもらえるのは本当に有難い以外の言葉が出てこないな。

ダンスが得意な彼が思う存分に輝けるよう自分なりに考えて見たけれど、まさかこんなに喜んでもらえるなんて。完成が楽しみだ。




帰り道、良く訪れるカフェで朝飲み損ねたココアを注文し席へと腰を下ろした。うんと甘いのを飲んで帰ろう。今日は湯船にお湯でも張ろうかな、お気に入りの入浴剤も入れて。

無駄のないシンプルな内装の店内はいつも大体騒がしく、そんなところがお気に入りでもあった。今流行りのコスメ、好きなアーティスト、恋人への不満、家族への敬愛。様々な言葉を様々な人が紡いでゆくその様子の全てが新鮮で、つい声のする方向を瞳で追い掛けてしまう。そんな時だ。


「リョウクの新曲、聴いた?」


「配信されてからもうずっと聴いてる!ホント綺麗な声!」



そうだ、あれは。

何ですぐに思い出せなかったんだろう。いや、どうして彼を心の中に閉じ込めていたんだろうか。カバンの中から取り出したノートパソコンを広げてイヤホンを耳へ押し込むと、勝手に指先が音の粒を繋げてゆく。きっと冷えたココアを飲むことになってしまうけれど、それもまた良いだろう。

それ程までに繋げたい縁なのだから。




tranquilizer/03