ごきげんよう
遥か昔に同名で記事をUPしておりますが、井上堯之さんの追悼という
意味も含め、同記事を再UPさせて頂きます
沢田研二の黄金時代を共に活動してきた半面、数々の
苦悩があり、ついに袂を分かつまでのひととなりを今一度
思い起こして下さい
いつかは来ると思っていた訃報がとうとう来てしまいました
黄金期を支えた安井かずみ・加瀬邦彦・阿久悠・中井國二を失い、
そして今度は井上堯之さんを失いました
瞳みのるも完全復活し、内田裕也さんともセッションし、
ワイルドワンズともツアーを回り、そしてついにザ・タイガースも
フルメンバーでツアーを回ってくれました
ここまで来たらファンとして残る期待はただ一つ!
井上堯之バンドとの復活であると思います
ザ・タイガースの復活よりも簡単に思えたんだけどね…
それも叶わぬ夢となってしまいました
井上堯之バンド解散~迷いの日々
「時の過ぎゆくままに」のヒットで歌謡曲界のスターと
なりつつあった沢田研二と井上堯之が思い描く表現の
方向性には、次第にズレが生じ始めていた。
この頃、井上堯之は音楽事務所「ウォーターエンタープライズ」を
旗揚げしている。動機は、ミュージシャンによる
ミュージシャンのための音楽事務所を作りたかったためだが、
沢田研二との関係を保つためでもあった。
※あいつのやることと背中合わせで生きていくしかないと
思ったんです。ビッグスターのあいつがでっかい玉なら
こっちは、やじろべえの反対側の遠くにある玉、
みたいに思ってバランスを取っていたんです。
だからバンドはぶっきらぼうな顔をして演奏していますよ。
沢田と井上バンドは極端な両性面がなきゃ駄目だったんです。
仲良しバンドじゃ駄目なんです。
渡辺プロを辞めて会社を作ったのもそのためなんです。
同じ屋根の下じゃなくて、別会社を作ってシビアに接する
というのも、あいつに対する僕らなりの尽くし方だったんです※
ヒット曲が増えると共にエンターテイメント性を高めていく沢田研二。
そんなジュリーの表現のリアリティーを感じられなくなって行く一方で、
映画、テレビと膨大な量の仕事をこなして来ている。
傍から見れば順調に仕事をこなして
大活躍をしている風にしか見えないが、本人にとっては
苦悩の日々だったようだ。
井上バンドとして独自でもこの時に3枚のソロアルバムを吹き込んでます
その中で井上堯之さんが3枚目に出したアルバムの中で、
【どうしょうもないよ】とか【歌わない男】という歌は
何か本当に井上堯之さんとジュリーとの関係性というか
当時の井上堯之の気持ちが顕著に表れているような
内容になっています
やはりそうだった!
こんなコメントが…
※【歌わない男】の中の愛するものを残して行けぬ…
今は沢田とはバイバイ出来ないよってことですよ。
ショーケンはこれを聴いてすぐに怒鳴り込んで来ましたよ
堯之さんもっとちゃんと音楽やろうよ、いい歌作ろうよ!
ショーケンは言い続けてましたからね、一緒にやろうって
ことじゃないにしても※
この時期、ギターも必要以外はさっぱり弾かなくなっていた。
練習すらしなくなったという。
※沢田のツアーで、こういう練習もしておこうってカリコリ
やるわけですよ。それをライヴでやって、録音したのを聴いた時
何だこれ?って思っちゃったんですね。
自分らしくないし。それで自己嫌悪が深まるわけです。
沢田のやってることは僕にとっては興味がない。
でもアイツのことは好きなんです、僕は。だから困った。
だってあいつは、自分のために一生懸命やってくれる人達に
応えようとするタイプなんですよ。そんなの非難出来ないじゃ
ないですか。僕に出来たのは、距離を取りながら
一緒にいることだけなんです※
沢田研二で悩んでいたのかも知れない。
1980年遂に井上堯之は沢田研二と袂を分かつ決心をする。
※結局、僕が自分の力を発揮したのが、映画とか
沢田以外の場所だったから、沢田はそれが辛かったみたい。
他局に行くと僕は楽しそうにギター弾いてる訳だから(笑)
僕自身が1番辛かったのは、居るだけで彼に貢献出来なかった
こと。曲も時々しか作ってやれなかったし。
別れ際に言われました。
ジュリー:堯之さんは僕に何もしてくれなかった!
だから僕は言いました。
沢田な、何も手伝えないでそばにいる切なさも知っておいてくれ
こういうしかなかった※
当時の堯之さんの苦悩がよくわかりますね
しかし間違いなくジュリーを今日までにした一端は
この井上バンド、井上堯之さんが携わっていたことは
紛れもない事実だと思いますけどね
あれだけの重厚な音楽をステージでやってくれていたのは、
井上堯之バンドがあったからこそのものだと今でも思っています。
現にこれ以降その手の音楽は一切聴いていないような気がする
それらをもう1度何としても聞きたいものだと思っていましたが…
スマイルでした