映画評を語るYouTubeを見ていたら
その評論されてる方の持論で
「“感動”には、その心のどこかに「ごめんなさい」が隠れている」と言っていて、
感動の本質は罪悪感で、それを解消する為に「感動する」という心の動きがあると、
感動の涙とは、奥底に罪悪感のある「自分を許して泣く」行為なんだ、という風に話していて
完全に理解できてないかもしれない、けどなんか納得できるというか、なるほどなぁ…と、自分の中では最近知った新しい解釈ですごく面白いなと興味を持っている。
別に「罪悪感」と言っても言葉のイメージするほどに悪いことではなく、意識にも上らないくらいの、ヒリッとしたものも含めて。こういう感情に、私たちの「感動」は左右されてるのかもな。と。
例えば
SNSで野良猫を保護した経緯や、怪我した猫が回復していく経緯などを掲載したものをよく見かけるけど、なんか、劣悪な状況、酷い症状の情報は、そうでもないものより閲覧数が多くなり、コメントも多かったりしがちな気がするし、
コメント欄には「涙が出ました」とか、やたら心動かされてる記述が多い気がするが
それは
自分だったら見て見ぬふりをしたかもしれない、そこまで献身することはできない,という“罪悪感”がベースにあるという捉え方は、あながち間違いではないと感じる。
で、
きっとそれとはちょっと違うんだろうけど
自分の感じた気持ちの本質は何だろうなと
興味を持った事があって。
それは
チェルシー販売終了問題。
チェルシーとは、
「あなたにも、チェルシー、あげたい」
の、あのチェルシーである(説明になってる?)
それが、
もう製造も終了になったのかな?
あとは在庫品のみのようである。
製造が終わるというのを知ったのは
今年1月の末くらいだったかな?
確かに、「え〜、終わっちゃうの〜?そうなんだー…」とは思った。しかしいざ製造は終わり、流通している分だけになったとなると、何だか名残惜しくなり、何もしていないけど「何で終わっちゃうんだろうなー」「何とか形を変えて残ってくれないかなー」などと中途半端に感傷に耽ってしまう今日この頃。
だがしかし。
残念がるなら
製造・販売してる時に
もうちょっと買って舐めとけよって話ですよね
私の感じる「え〜⁉️」の本質は
幼少の思い出を担うその商品を
ろくに支えることなく過ごしてきた事への
反省の気持ちが底にあるのではないか。
せっせと食べておけば
終了しちゃうような事はなかったんではないのか?何の努力もせず、ドラッグストアやコンビニで手に入った、Werther's Originalで妥協してたんじゃないのか?
ん?これもやけに高いけど
販売終了なの?
とにかく、
きっと無くなることはないと考えて、買いもしてなかった、これも罪悪感?反省?の気持ちを癒すべく、ここのところ、え〜?え〜⁉️と思い続けていたのではないかと。
そんな事では癒されない人は、
それを当てこんだ転売ヤーによって
破格の値段でメルカリなどで売られているものを買ってしまうのかもしれない。
これは楽天市場のラインナップ。
私は幸い
よもやま宣伝部
本部広報局のむぎ局長から
貴重な一粒を頂けた。
先日、
お腹が空いたのに食べるものがなかったので
これを心して頂いた。
確かにこのヨーグルト味は
ウェルターズとか、その辺のキャラメルで代用できなくて困るね…
これが最後と
心して味わっていたが
やはり最後は
バリンバリンと噛み砕いてしまった…
いくら名残惜しいと感じても
それをなるだけ買い占めたいという事ではないのだ。私だけが一生舐め続けられる分を確保したいとか、そういう事じゃなくて。
たまに買おうと思えば買える程度に
存在し続けてて欲しいという、
無責任な願いなのだ。身勝手な話である。
小学生の頃、クラスでいっとき爆発的に人気のあった飴は、
マイナーなりにまだ健在みたい…
なんかもうあと2種類くらいあったような…
野いちごの小径…?木いちご…?なんだっけ…
なつかしの飴サポーターの記憶なんて、
この程度。
なんだかんだで
数年後に
期間限定でいいから
復刻してくれるのを祈る。
その時は
ちゃんと買おうかな。