桜の花びらが
無風の中を音もなくはらはらと散っていくさまが
一番好きです。
今がまさにその時。
穏やかな春の日差しの中、
もしくは、
月夜の下で。
真下に立ち仰ぎ見ていたい。
降り注ぐような場所にいたい。
その花びらを、
できればたったひとりで
浴びてみたいものです。
あのさまには音はいらない。
ただ魅せられて、呆然とできればいい。
桜が愛でられるのは、咲く姿もさることながら、
散るさまがああだからではないかと、
日本人はその姿にすら
人生を重ねるのではないかと思います。
それにしても、桜をテーマにした曲が
最近溢れてる。
ラジオでもテレビでも桜のつく曲のベストテン
なんてものをやってるから、余計にそう思うのかもしれない。
ケツメイシの「さくら」
森山直太郎氏の「さくら」
福山ましゃ氏の「桜坂」
河口恭吾氏の「桜」
コブクロの「桜」
あたりがよくあるベスト5かな。
感性が変わりつつあっても
桜に対する思いの寄せ方は変わらないんだなと思う一方で、
型にはまってきてる気がしなくもない。
桜に託すものはこう、みたいなとこで、
想像力や感性の翼は360゜自由なはずなのに、
そうじゃなくされているような。
あまりにも多いから、
乏しくて小さくて狭いの枠の中に押し込められて、
画一化されようとしている気がしてしまう。
おしなべられたところで秀でる輝きを競うものにしなくても
いいんじゃないの?と思えてしまう。
画一化されることに宿る安心感が五感を支配するのは、
逆に私には不安だなぁ。
アマノジャクかなぁ、自分・・・。
いずれにしても桜を見て感じるものは圧倒的で、
その心の震えは紛れもなく自分の感性のものなのだから、
どう表現されようとも、
自分が見て感じたまま、
目に焼き付けたままでいいんじゃないかと
思ってるんですけどね。
そういう私がいつも浮かべる曲は、
ユーミンの「経る時」。
舞い降りるさまがありありと浮かんでくる。
静かで穏やかで淡々とした曲で、
散る花びらを
薄紅の砂時計に例えている。
砂時計は人の手でひっくり返される。
だからだろうか。
最後の最後に死まで感じるのは。
そしてやっぱり、
浮かんでいる情景には音はない。
脳裏に浮かべた瞬間に音が消えてしまうような、
見入ることに五感のすべてが持っていかれて
費やされるような、
そんなとこにある風景です。
だけど本当は、桜の花はただ散りゆくのみ。
寒さ緩みゆく中でつぼみを膨らませ、
弾けるように咲き、
あとはただ消えていくだけ。
それが桜の生だから。
ただそれだけだから。