記事「経済学的思考と法的思考との違い」のコメント№5・6で、“爺”さんと
>(そういえば、抵当権の論証に頻出の「交換価値」というワードも、元をただせばマル経用語ですね。)
→そうなんですか!教えていただきありがとうございますm(_ _ )m
私も資本論とか読んだことないので…一応、大学時代に図書館で読もうとしてみて、1ページ未満で「あ~こりゃ無理だわ」と本を閉じた記憶だけはあります(^▽^;)
というやり取りをした。
これは確か、大学時代にどこかで、『資本論』を再評価するような言説を読むか聞くかして、へ~有名だし暇だし読んでみようか~ということで読もうとしてみたんだったと思う。そのくらいのモチベーションで、堅苦しく権威的な『資本論』の日本語訳の1つ(翻訳の仕方が悪いだけかも…と、単純なことをあえて難しく書いている法学書が腐るほどあることを知っている今では思う)を読みこなすのは、やっぱり今でも無理だろう。
だけど、さらに大学時代を思い返してみると、①哲学・現代思想系については、大学1・2年時のINPUT講義に結構(それでも半分くらい)出席していたし、課題とか関係なく、図書館で何冊も拾い読み(INPUT)してはいた(やっぱり通読はしなかった・できなかった)。
また、②大学3~6年(2年留年してますσ(^_^;))のどこかで、教育学部のINPUT講義も、興味ある数回だけだったが、わざわざ他学部聴講の手続をとって出席していた。
なぜだろう…と考えると、私は、①当時は“自分探し(^o^;)”をしており、②当時は家庭教師のアルバイト(第一志望100%合格が自慢(^_^)v)で、教育方法に問題意識を抱えていたからだと思う。
つまり、①“本当の自分(;^_^A”はどのようなものか?②もっと良い教育方法はないか?といった問題を解く(OUTPUT)ための一手段として、講義や本(INPUT)を“利用”していたのだろう。
当時の私は、ロックバンドのギタリストとしてプロデビューするための様々な努力で忙しかったから、無意識的に最も効率的な勉強法が採れたのかもしれない。