そろそろ、H29司法試験の成績が届き始めるころかな?
その成績が良くても、“頭が良い”とはいえない
し、
その成績が悪くても、“頭が悪い”とはいえない。
H29司法試験の成績が良かったことが意味するのは、
・H29の
・司法試験を
・うまく切り抜けたこと
にすぎない。
H29司法試験の成績が悪かったことが意味するのは、
・H29の
・司法試験を
・うまく切り抜けられなかったこと
にすぎない。
そもそも、“頭が良い”“頭が悪い”って、具体的にはどういう意味なんだろう?
私が「あったまいい~!」って言いそうになる(けど咄嗟に言い換える努力をする)のは、「その発想はなかった…( ̄□ ̄;)!!」というアイデアに触れたときだなあ。
私は、試験対策という、個人の長い人生やこの広い世界においてごくごくニッチな分野に関しては誰にも負けない自信があるが、それ以外の広大な分野についてはほとんど自信ない(^▽^;)
だから、試験の成績が良いだけで、“頭”全体“が良い”といえるとは思えないし、試験の成績が悪いだけで、“頭”全体“が悪い”といえるとは思えないのだ。
ましてや、試験の成績が悪いだけで、それまでの努力や人生の全てが否定されるなんてことはないし、現在・将来の努力や人生(法曹としての実力を含む)はいうまでもない。
逆に、試験の成績が良かったら、それまでの努力や人生の全てが肯定されたと感じることはとても良いとは思うけど、過去の栄光にすがるのは、現在・将来の負けフラグだよね。
もっと言うと、試験の成績が“良い”“悪い”というのも、捉え方次第。
例えば私は、旧司H16論文で中途半端な評価ではなく最低のG評価を受けたことが、翌年の最大の勝因だったと確信している(cf.記事「論文本試験成績」、「H17闘争記録1~年内猛ダッシュ」)。だから、遅くとも旧司H17論文合格以降の私にとっては、旧司H16論文の成績は、A~F評価より最低のG評価の方が“良かった”と断言できる。
本当の勝負は、過去の経験等を、現在・将来の自分がどのように活かすかにあるのだ!(σ・∀・)σ
…記事「負け犬の“地頭”論」でも同じようなこと書いたけど、タイムリーかなあと思ったので、改めて異なる角度からアプローチしてみました。