1つ前の記事『法的知識は不純物である』に、歌についてのブログをやっている方から“いいね!”をいただいて、うれしくなった。

なぜかというと、「自分の音楽の練習法と、なんか構造的に似ている話なんだよな~でもうまく表現できない…」と思いながら、その記事を書いていたからだ。


なので、まだいまいち整理・勉強法との関連づけができていないんだけど、とりあえず、思っていたことを書いてみる。音楽モード全開で書くので、ついてこなくていいよ~(^O^)/



私がバンドをやっていたとき、ギター担当だったんだけど、たまにボーカル・コーラスを兼ねることもあった。

私も当初は、金払って来てくれているお客さんの手前、上手く歌わないと…といった意識に支配されていた。

でも、私は、上手く歌おうとすればするほど、なんか呼吸がすごく苦しくなるんだ。

そういう苦しい練習を続けるうちに、そもそも自分は、こんな苦しい思いをしたくて歌っているのだろうか?上手く歌いたいから、自分の歌の上手さを伝えたいから歌うのだろうか?いや、ちがうだろう!と。

私は、思い切り・気持ち良く歌いたいのだ。

客としての私も、思い切り、気持ち良く歌っている人の歌を聞きたいのだ。

だったら、上手く歌う必要なんてないじゃん!

…ということに気づいて。

それ以来、歌を歌うのがすごく楽に・楽しくなった。


とはいえ、やっぱり、音程やリズムをできる限り合わせた方が、聞こえが良いことも事実。

そこで、思い切り、気持ち良く歌う中で、徐々に音程やリズムを合わせていけばいいじゃん!と。

この“思い切り、気持ち良く歌う”というのが「直感で解くこと」に、“音程やリズム”が「法的知識」に対応しているような気がするんだ~でもうまく説明できない。



もう1つ思い出したことがある。今度は、ギターのリズム練習の話。

大学1~2年生の私は、シュラプネル系(分からんよねえ)のウルテクギターが好きで、タッピング(得意!)やらスウィープやら、まあ派手なことばかりやっていたのです。

その反面、リズムの安定感はあまりなかった。というか、そこは重視していなかった。

そこに、強面の先輩(ギターの師匠です。本当は優しい。)がスラッシュ・デス系メタルのバンド組んでくれることになり、テンポ200超のメトロノームをウラ拍で聞いてリズムがとれるようにしろとか、音の粒をそろえるためにオルタネイトピッキングじゃなくて全部ダウンピッキングにしろとか、体育会並に厳しく指導を受けた。懐かし~

そのときは、バンドについていくだけであっぷあっぷしてて、上記指導をこなすことと、周りの先輩方に合わせることで精一杯だったが、結局リズムがしっくり来なくて。

しかも、ライヴ本番では、練習ではしていないようなパフォーマンスをしたので、後で録音を聞くと、私はリズムよれよれ(途中でボリューム下げられてたような…笑)。でも先輩方も激しく動いていたのに、リズムの軸が感じられる演奏になっていた。


すごい悔しくて、猛省したところ、出てきた対策が、“練習でもライブ本番と同じようにパフォーマンスする”(過去問主義と似てるかな?)。

だけど、そうやってると、なっかなかメトロノームと合わないんだなあ…人間だもの。

で、どんどんドツボにはまっていって、キレた。も~い~や無理だから適当にやるさ、と。

こう開き直ってやった演奏の録音が、自分にしてはすげえ良かったの。

びっくりして、なんで?と考えたんだけど、要するに、個々人の心拍周期が異なるように、個々人が“ノリ”=オリジナルなリズムを持ってるわけだ。それを無理にメトロノームの機械的なリズムに合わせようとしたから、かえってリズムの一貫性を欠く状態になっていたことに気づいた。確かに、リズムが安定しているように聞こえるバンドでも、その曲のテンポを計るためメトロノームと合わせようとしたら、合わないことが結構あったし…とも思った。


それ以来、まず自分の体内から湧き出てくるリズムを最優先にして、結果的にメトロノームとだいたい合うように自主練した上で、バンド練では周りの“ノリ”と衝突・妥協をくり返す中で、自分のリズムの居場所を探すという感じの楽しみ方ができるようになったとさ。



やっぱり、ベストを尽くした経験は、生きてくるもんだなあ…と再確認。

バンドでは結局挫折したけど、こういう意味で努力が報われたりするんだ。